第六話:林檎

 HRが終わった。小瓶は隣でまだ寝続けている。僕はその寝顔を見ながら、手に持った紙をポケットの中で強く握りしめた。



「おーい、波乃」

 この紙をどうするか顔をしかめながら考えていると、「先生」が教卓の方から呼んでいる声が、僕を思考の奥底から引き戻した。日直は永久指名で箱乃さんのはずだ。僕が今日「先生」に呼ばれる用事なんて、あっただろうか?


 教卓まで行くと、「先生」は「あー」と何やら言いづらいことがあるかのように少し言い澱んだ。まだ若い僕らの「先生」は、左側頭部についた寝癖から分かるように、割とだらしないところが多い。だが人間というものは欠損している方が魅力的に映るらしく、生徒からは人気を集めている。…大人で、「先生」なんだから、どんな内容の話でも、喧嘩別れした彼女に話しかけるみたいな及び腰で僕に話す必要なんてないのに。こういうところが人気なんだろうか。


「お前、空乃と仲良かったよな?あいつにちゃんとアンケート書けって言っといてくんないかな」

「…昨日、やっぱり出さなかったんですか?」

「まあな。…今回のアンケートは上に見せるやつだから、ってキツめに言っといてくれるか」


「先生」は小瓶の方をちらりと見て、それから自分の顔の右の部分を何気なく触った。僕もその動きにつられて、「先生」の顔にぽっかりと開いた穴を見る。

 …「先生」には右目がない。「物語」に出た過程で失ったらしい。大人はみんなそれを誇らしいことだというけれど、僕はその穴は少し空虚な感じがした。


「…「先生」、どうしたらこびんを廃役にさせずに済みますか」

「先生」は、廃役という言葉を聞いた途端、少し顔をしかめた。みんな、廃役のことを、世界から必要とされない人間の存在があることを…、…それはやっぱり仕方のないことだと考えているけれど、それでも気持ちのいい言葉ではないのだ。

「先生」は僕の言葉にどう答えようか悩んだように、口をなんどかぱくぱくと開閉させたあと、何かを誤魔化すように僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。



 *


 そのあと、小瓶が起きてきたのは、4限の多言語b(異世界語のこと。卒業後どんな異界に行っても対応できるように、僕らの高校では必修科目になっている)が終わった後のことだった。のそのそと体を起こし、半分開いた灰色の目が眩しそうに少し閉じて、そしてゆっくりとまた開けることを繰り返している。

「こびん、給食だよ」

「…すずき…」

 残念ながら僕は鈴木ではなかったが、寝起きの小瓶に何を言っても仕方がないので、とりあえず顔の横にトレイを無理やり置いた。

 小瓶はぬぼーっと給食を眺めていたが、その中に餃子があることを発見すると、途端に灰色の目にハイライトが宿ったのが分かった。ショーウィンドウの中の苺ケーキを眺める子供よりもキラキラした瞳をしている。



 僕は自分の分の給食を置いて、それから机をくっつけた。定期的に餃子の皮を奪おうとしてくる小瓶の箸と格闘しながら給食を食べていると、そんな僕らの前に1つ影が落ちた。



「あの…、空乃さん。これ、あなたに、届けものです」

 多くの人間が空想する花畑の匂いを纏って現れたのは箱乃林檎だった。餃子の皮をつまみ嬉しそうにしている僕の隣の小瓶とは違って、彼女は僕が大好きな「理想の女の子」である。絡まることをしらない長い黒髪に、白い肌。大きな黒目がちの目、小ぶりな鼻、薄い唇。完璧なパーツが、完璧な配置で並んでいる。人形のような、というか、人間の手の入っていない完璧さだ。どの角度からみても、ラーメンをすすっていたとしても、彼女は生粋の美少女なのである。


 箱乃林檎という少女は、つまり、正統派ヒロインという言葉がぴったりな女子高生だ。


 …そんな箱乃さんを前にしても、小瓶はその美しい造形に一切目をやることもなく、ストローを紙パックにさして、ずぞぞぞぞ、と情けない音を立てて飲んだ。


「…、誰?」

「あ、箱乃です。クラスメイトの」

「それは知ってるよ。じゃなくて、誰から?」

 僕から奪いとった餃子の皮を食べながら、行儀悪く箸で紙を差して、小瓶は気怠げにそう言った。僕はといえば、ポケットの中にある紙をすっかり渡し忘れていたことを思い出して戦慄していた。まずい、と直感で思う。あの妙な男のことを、こびんには知られたくなかったのに。


「名前は分からないんですけど…。えっと、確か昨日空乃さんとは下駄箱であったと言っていました。飴のお礼だとも」


 小瓶は、箱乃さんの言葉に全く身に覚えがないかのような顔をしながら、黙って紙を受け取った。僕が制止するのも聞かず、がさりと紙を広げる。


「…住所?」

 紙の中央にこれまた不揃いに並んでいた文字は、僕が渡された紙とは内容が違うようだった。小瓶はよく分からないものと面倒なものが嫌いなため、一瞬眉を潜めた後、紙をくしゃくしゃにして僕に渡してきた。…僕はゴミ箱じゃない。


「あの…」

 何事もなかったかのように再び給食に手をつけ始めた小瓶の前に、箱乃さんはまだもじもじと立っている。

 気づいていない小瓶の代わりに「どうしたの?」と声をかけると、箱乃さんは心底恥ずかしそうに顔を赤らめた。手を口にやって頬を染めるだけで、どうして美少女というものはここまでかわいくなるのだろう。かわいい。


「あの、おれいを…」

 そんな可愛らしい仕草とは正反対に、続いた言葉はどうしようもなく残念なものだった。変わらずほうれん草を食べている小瓶の代わりに、僕が仕方なく「ありがとう」というと、ぶるぶるっと箱乃さんが震えた。体を抱きしめながら、口から涎を垂らして全身で喜びを表現している。


 …箱乃林檎は、…間違いなく正統派ヒロインである。目の前で転んだ男子高校生に白いイニシャル入りのハンカチを差し出すし、困っているお婆さんの荷物を運ぶし、傷ついた動物を優しく看護する。

 きっと卒業後は勇者に救われるお姫様だったり、ギャルゲーの攻略対象になったりするのだろう。


 …だけど、箱乃林檎のそういった行動は全部、純粋な気持ちから来るものではないのである。…いや、ある意味純粋と言えるのかもしれないが。




 箱乃林檎という女子高生は、つまり、正統派ヒロインであり、尚且つ善行マニアなのだ。


 いい行いをしている自分、感謝される自分、頼りにされている自分というものを何よりも愛していて、善行をするたびに涎を垂らして喜んでいる。…本当に、神様ってやつは平等なもので、どんな人間にも欠損を与えないと気が済まないらしい。



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