第五話:シノ
…空乃小瓶という女子高生を、僕が初めて見たときの感情は、たった一つ。気に入らない、だった。
いつもだらしなさそうに机の上に頭を預け、口を開けて寝ている。休み時間に友人と話したりしている姿などは見たことがない。可愛い女の子が好きな僕からすると、小瓶の肩にもつかないボブヘアは気に入らなかったし、ファンデーションもベビーパウダーも塗らないくせに白くて綺麗な肌が気に入らなかった。
僕、波乃縫は、空乃小瓶のことがどうしようもなく嫌いだったのだ。
*
「おはよ、こびん」
ずる、ずる、とおよそ歩行に似つかわしくない音を立てながら、小瓶は死にそうな顔で教室に入ってきた。いつものことだ。そして、軽くこちらをみて僕の挨拶を返し、重力に抗うことなくそのまま机につっぷした。これもいつものことだった。小瓶は、朝が苦手なのだ。
小瓶が寝ているのをいいことに、僕は小瓶の黒色の髪に軽くスプレーを吹きかける。女の子なんだから寝癖ぐらい直してきて欲しい。
…そんないつもの通りの朝の平凡で平和な日常の光景にも、たまには事件というものが起こるらしい。僕が頑固な寝癖と格闘している間に、教室であったようだった。普段は朝自習で静まりかえっている教室が、今日は妙に騒がしい。
虫でも入ってきただろうか?それとも、誰か体調不良とか?僕は小瓶の髪から手を離して、首を伸ばして騒ぎの中心に目をやった。
原因はすぐに分かった。教壇の上だ。まるでスポットライトに照らされているかのようにぽっかり空いた中心に、一人、見知らぬ男子生徒がいる。制服が違う。遠目から見ても顔立ちが整っているのがわかったが、なんというか、とても嫌な雰囲気を纏っている男だった。物語風に表現するなら、チェシャ猫に遭遇したアリスの気分だ。
その見知らぬ男子生徒が、僕らの教室で、何故かクラスメイトの箱乃さんを土台にして座っていた。
…?校外の生徒がいるだけでも異常なのに、箱乃さんを椅子にして足を組んでいるのはもっと奇天烈だ。僕はまだ布団の上にいて、夢の続きでも見ているのか?
「ねえ、林檎ちゃん、動いてくれなきゃクラス全員の顔が見えないんだけど。困るな」
「ご、ごめんなさ…」
「謝んなくていいからさ、早く」
僕が混乱している間に、箱乃さんが四足歩行で男子生徒を背に乗せたまま歩きはじめた。ちなみに林檎というのは、箱乃さんの下の名前である。
誰もが異常な風景にぽかんと口を開けている間に、のっしのっしと箱乃さんは歩き続けた。何人かの男子が箱乃さんのスカートを覗こうとしていたので、友人の女子が止めている。…それを止めるならまず、この状況をどうにかしたほうがいいと思うのだが。
箱乃さんは、教室をぐるりと一周して、そしてついに僕の方まで来た。四つん這いの箱乃さんがこちらを見てはあはあと言っているが、これは恐らく快感を感じているだけなので気にしなくていいだろう。
男子生徒は、箱乃さんに乗ったまま僕の顔をちらりとみた。瞳は綺麗な紫色だったが、瞳と表現するよりも、目玉の黒目の部分と表現する方が適切な気がする、ぬるりとした目玉だった。
「…人の顔をじろじろ見るなんて、不躾なひとだね。ここの生徒じゃないみたいだけど、何してるの?」
「…ふーん、君男だったのか」
僕がこの世で言われたくない言葉第3位を呟いた男子生徒は、すぐに僕から興味をなくしたかのように目を外し、そして僕の隣の空乃小瓶に目をやった。僕の質問は教室の隅に空中分解である。このやろう。
苛つき始めた僕とは正反対に、男は心底嬉しそうな顔をして、机に今にもヨダレが垂れそうな小瓶を見ている。クラス中の注目が集まっているとも知らずに、小瓶は変わらず気持ちよさそうに寝続けていた。
僕は、この得体の知れない男が小瓶に用があるのだと気づいた瞬間、慌てて立ち上がった。本人は全く気がついていないが、小瓶は変な物をまるで磁石のように引きつけるのだ。過去には露出魔だったりとか、ストーカーだったりとか、…。…思い出すのはやめよう。あの時は本当に大変だった。
僕の中の危険察知警報が赤いランプをちかちかと点滅させる。こいつは黒だ、絶対変なやつだ。
僕は今にも小瓶に話しかけようとしている男と小瓶の机の間に体を差し込んで、大声を張り上げた。
「ねえ、こびんに何か用?」
「声でかっ。…、君、さっきから何?」
「僕は波乃縫だ。こびんの友人」
僕がそういうと、男子生徒は口に手を当てて、「ふーん」と紫色の目を細めた。何もかもがわざとらしい動きで、ふざけたものだ。
「俺は紫乃。これが下の名前ね。シノでいい」
この世の中で、一番要らない情報だった。こいつがシノだろうが太郎だろうが、僕には一生どうでもいいことだ。
「うーん、全然起きないな。小瓶」
「おい、こびんに汚い手で触るな!首と胴体分離させるぞ!」
「こわっ。あーもういいや、君でいいよ」
僕としては何もよくなかったが、シノとかいう胸糞悪い男子生徒は、僕にポケットから取り出したぐしゃぐしゃな紙を押し付けてきた。僕が受け取らないようにすると、いまだに床に四つん這いになっている箱乃さんに食べさせようとするので、仕方なく受け取るしかなかった。箱乃さんはヤギじゃない。
「それさ、小瓶にわたしといてよ。よろしくね」
「渡すわけないだろ」
「んー、そしたら、林檎ちゃんに渡してもらうからいーよ」
世界一意味のない会話は、チャイムの鳴る音と同時に終わりを告げることになった。男子生徒は「しゅっぱーつ」と巫山戯た掛け声と共に、箱乃さんを乗りこなしながら教室をでていく。最初から最後まで、何処までもいやらしい男だった。
入れ違いで反対のドアから「先生」が入ってきて、みんな慌てて自分の席に着く。「先生」は箱乃さんが男子生徒を送迎していく姿をちらりと見たが、幻覚の類と勘違いしたらしい。スルーして出席を取り始めた。
僕は今すぐ捨てたい紙ランキング一位を受賞した紙を机の影に隠して広げた。紙は、A4ともB3ともつかない微妙なサイズで、それがあの男を思い出させて僕を心底苛つかせた。
そこには、10.5ポイントよりも地味に小さく印字された文字が、不揃いに並んでいた。
「君の周りの人間か、君の大切にしている本か、燃やされるならどっちがいい?」
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