第三話:廃役
明日までに絶対書いてこいよ、と「先生」に修正テープがてかてか光る紙を無理矢理カバンの中に突っ込まれた後、わたしは職員室から追い出された。「先生」もいい加減帰りたかったんだろう。それなら、わたしのことなんて放っておけばいいのに。
ぐしゃりと歪んだ紙を鞄から取り出して、わたしはそれを近くにあったゴミ箱に投げ捨てる。どうせ書きはしないのだ。意味のないものは捨てた方がいい。
重力に負けないようにすかすかの学生鞄を担ぎなおした後、下駄箱に向かう。昇降口には夕日が差し込んでいて、随分と時間が経ってしまったことが分かった。
早く帰ろう、と上履きに手をかけたその時だ。後ろからとんとん、と肩を叩かれた。
振り返ると、見知らぬ男子生徒が気配もなく立っている。完全に気の抜けていたわたしは、思わず悲鳴を上げてしまいそうになった。
「ごめん、びっくりさせたかな」
「……将来は幽霊のキャラクターにでもなれるんじゃない?」
わたしがそういうと、男は少し目を丸くした後、薄ら笑いを浮かべていた顔を更に歪めた。いや、笑ったというべきなんだろうけど、その笑いは歪みと表現した方が適切な感じがした。なんというか、不気味だったのだ。
「幽霊かあ、いいね。それも面白そうだけどさ、俺が目指してるのはちょっと違うな」
なんか会話が始まってしまった。……知らない人とのこれ以上の会話に意味を見出せなかったわたしは、男から視線をそらして上履きを下駄箱の中に閉まう。そのまま冷たい革靴に足を通すと、男は慌てたようにこちらに何かを渡してきた。いや、慌てて、というより、慌てたフリをして、といった方が正しい気がする。行動の全てが、どうにも胡散臭かった。
「これ、君がたまたま捨ててるの見たからさ。……どうしようか悩んだけど」
男から差し出されたのは、皴のついたアンケート用紙だった。わたしがさっきゴミ箱に捨てたものだ。…どうやら、わざわざ届けにきたらしい。
「前言撤回。…貴方、お節介なキャラクターが似合うよ。勇者とかやれば?」
「あー、ごめんって。…あと、中身ちょっと見ちゃった」
「……」
別に見られるのは構わなかった。他人がどう思おうが関係ないし、どうでもいいことだ。でも、わたしの好きなものが餃子の皮である、ということがバレたのは少し恥ずかしかった。そのくらいである。
「ねえ、君さ、廃役になってもいいの?」
わたしが黙っていると、男はそう続けて口にした。それは人によっては「タブー」ともされる問いで、もしもこの会話を誰かが聞いていたら目を丸くしたことだろう。……でも、わたしにとっては本当に、どうでもいいことで、だから、わたしは終わらない会話に少し苛つきながら、口を開いた。
「……初対面の貴方に関係ない」
「ないかも、いや、いつかは関係あるかも」
禅問答のような返しに、わたしの苛つきはさらに増した。この男の用件は済んだはずだ。近所のおばさんの井戸端会議より意味のない会話なんて、もういい加減終わらせたい。もう、立っているのも口を動かすのも面倒だ。早く家に帰りたい。
……わたしはとりあえず縫撃退用の鏡を男に突き出してみたが、効果はなかったらしく、「くれるの?」というふざけた回答が返ってきただけだった。数秒悩む。初対面の男と会話を終わらせる方法……、そして、わたしの頭の中の知恵袋が、ベストアンサーを弾き出した。
「ぶごっ」
「それあげる、紙のお礼、じゃ」
男の半笑いの口にチュッパチャプスを放り込んで、無理矢理黙らせる。ベントアンサーである。
わたしは今度こそもう片方の足にも革靴を通して、帰ってきてしまった長生きなアンケート用紙を鞄の中に放り込んだ。
……この出会いに結果的に意味があったのかというと、本当に結論から言うと意味なんてなかった。小説や漫画のように、ボーイミーツガールの全てに、意味なんて求めてはいけないのだ。
*
外は夕暮れを通りこして、もうすっかり夜が覆っている。それを見て思い出したかのように、ぐう、とわたしのお腹が間抜けな音を立てた。
「こびん、お腹すいたの?チョコ食べる?」
「わたしのこと待たなくていいよ、田中」
「縫だよ!!…いやもういいや…。それよりこびん、「先生」の話どうだったの?」
どうもこうもない。そう答えてしまうのは簡単だったが、そう答えれば怒られるのは火を見るより明らかだった。わたしは縫の手からチョコレートを口に放り込んで、黙ることへの免罪符にすることにした。
「心配なんだよ、僕。こびんはいつもいい加減だし投げやりだし、人のことなんてどうとも思ってない冷血漢だし、僕の名前とか全然覚えてくれないし…」
「縫、今日はよく喋ったね」
「過去形にするな!まだ僕は喋るよ!…こびん、本当はちゃんとなりたいキャラクター、決めてるんだよね?」
きめてない、と言う代わりに、わたしは口の中でチョコレートをころりと転がした。舌の体温で、甘さと苦味が滲む。わたしの好きなビターチョコレートのようだっだ。あまったるくなくて、おいしい。
「こびんなら、魔王とか似合いそうだよね。近隣の町とか寝ながら燃やしそう」
こいつ、わたしのこと何だと思ってるんだろうか。ちらりと隣を歩く縫を見ると、目があって例の角度でにっこりと微笑まれた。多分鏡の前で何回も練習したであろう作り込まれた笑顔だ。今日も楽しそうで何より。
「縫はシンデレラ」
「えっ!?似合うかな?!僕に!」
「…の義理の姉」
「…そんなことだろうと思ったよ」
「の靴」
「無機物!そんなキャラクターいないよ!」
そんなくだらない話をだらだらと続け、チョコレートがすっかり口から姿を消した頃には家に着いていた。門を開けようと手を伸ばすと、「こびん」と小さく名前を呼ばれる。さよならの挨拶には、随分と重すぎる声音だったから、わたしは思わず振り返ってしまった。
「…卒業の後のこと、お願いだから、ちゃんと考えてね。…僕、こびんと二度とあえないなんて、いやだよ」
もうその時には、チョコレートはすっかり溶けきってしまっていて、わたしは黙ることが許されなかった。話を逸らすように目線を下にして、わたしは渋々口を開く。
「…縫は何でそんなに、わたしに関わるの」
「それは前に君に言ったろ。君は本当に、僕にとってはどんなキャラクターなんかよりも英雄だからだよ」
縫は、珍しく真剣にわたしのことを見ている。上目遣いにもなっていない不細工な顔の角度で、真っ直ぐにわたしのことを、みる。
わたしはその視線から逃れるように、鍵穴に鍵を差し込んだ。古ぼけたそれは、ぎしぎしといやな音をたてたが、無理やり捻じ込む。
「…またあしたね、縫」
「…こびん、紙捨てちゃダメだよ。…また、明日」
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