プリンをめぐる攻防

志水了

第1話

 蛍光灯の白い明かりに照らされている警視庁の一室。木幡睦月きはたむつきは、冷蔵庫の前で屈みながら、呆然と中身をたしかめていた。

 木幡たち捜査一課の刑事達が共有で使っている冷蔵庫には、様々なものが入っている。来客向け、もしくは捜査一課の者達が飲むであろう緑茶にアイスコーヒー、そして誰かが食べる予定なのだろう、おにぎりやサンドイッチ。

 今は大きな事件を抱えているので、捜査一課に残っている刑事たちも多い。自然と冷蔵庫の中身も多くなるものだ。


 だが、ない。

 誰かの密閉容器をかきわけてもないし、隅の隅までかき分けてもないのだ。

 忙しい時間の隙間をぬって買ってきた、木幡の好物が、ない。


「名前書いておいたのに……」

 あまりの事態に、木幡は膝から崩れ落ちていた。長い時間冷蔵庫を開けていたせいで、抗議の機械音が鳴り響く。かろうじて冷蔵庫を閉めることはできたものの、そこから立ち上がることはできなかった。

 ない。

 木幡の好物である、プリンがない。

 それもコンビニやスーパーで売っているような、プラスチックの容器に入っているプリンではないのだ。銀座の有名店で売っている、ガラスの容器に入れられた高級プリンだ。

 たまたま現在の捜査でほんのわずかな空き時間ができたから買いに走り、そして帰れなくなった自分へのせめてもの慰めに食べようと冷蔵庫にしまっておいたのに。

 だが、どれだけ冷蔵庫のなかを探っても、ないものはない。

 ほんの数時間目を離したすきに、誰が食べてしまったのだろう。

「嘘でしょ……」

「木幡?」

 ひとりうちひしがれる木幡の頭上に、ぬっと影が差していた。聞き覚えのある声に、木幡は顔を上げる。

 そこに立っていたのは、木幡とツーマンセルを組み、そして木幡の先輩でもある高椋雄斗たかむくゆうとだった。いつも掛けている銀縁眼鏡の向こうに、かすかに疲れた目をにじませている。こうして見る限り、顔だけは完璧な男である。顔だけは。

「何してんだ?」

「……私が食べようとおもって……い、た……」

 冷蔵庫の前でうずくまっているのは、まわりから見ればおかしいことだろう。高椋が疑問を抱くのも当然のことだ。

 そのことに思い至った木幡も、高椋に説明をしようと口をひらく。だがそこで、高椋が右手に持っているものに気が付いた。

「え……そ……れ……」

 木幡は人差し指を高椋の右手に向ける。そこには、空になったガラスの瓶が握りしめられていたのだ。大きさはそう、木幡が食べようと思っていたプリンと同じくらいだ。

 高椋はああ、と手にしていたガラスの瓶を持ち上げる。

「これか。冷蔵庫に入ってたぞ」

 もう賞味期限も近かったし、誰のかわからなかったしな、と続ける高椋は、人のものを食べたという意識が微塵もなさそうであった。

「しかし、これうまかったなあ。どこのプリンだろうな」

 高椋はプリンの味を反芻しているらしく、手に瓶を持ち、しげしげと眺めている。それはもちろんおいしいだろう。何せ普通のプリンの三倍はするものなのだ。おいしいに決まっている。

「……木幡?」

 いつまでも返事ををしない木幡を訝しく思ったのか、高椋は目線を合わせるべくしゃがみ込んできた。そこでようやく、悲しみに沈んでいた木幡の身体が動くようになる。

「……それ、私のプリンなんですけどッ!」

 しゃがみこんだ高椋の顎に、木幡のポニーテールがクリーンヒットしていた。



 * * *



 深夜のしずまりかえった廊下に、蹴りが空を切る音が響きわたる。

「避けるなっ!」

 木幡は渾身の回し蹴りを放ったのだが、高椋はあっさりと避けていった。この男、喧嘩などしないような涼しげな顔をしながら、格闘技全般、特に柔道が強いのだ。己の先輩ながら、苛立つ男である。

「いやいやいや、ちょっと待て待て木幡。話し合おうじゃないか」

「ええ、だから話し合おうとしてるんですけど!」

「えっ、もしかして拳で語ろうとしてる訳、っと」

 高椋は木幡と争う意志がないからだろう、動きがいつもよりも鈍い。それをいいことに、木幡はひと息に間合いを詰めていた。こみ上げる苛立ちをそのまま拳に込めるが、高椋の眼鏡を弾き飛ばそうとする寸前で、拳はあっさりと高椋の掌に収まってしまう。

 いつもの半分も力を出していないだろうに、木幡がどれだけ力を込めてもびくとも動く気配がない。今日は早朝から共に捜査にあたっていたはずなのに、こうして向かいあう限りでは疲れなど見られないのだ。恐るべき先輩である。けれどプリンを食べたのは許さない。

「そのプリン、今日すっごい楽しみにしてたんですけど! ていうか名前書いてたし! 見たんですかっ?」

「え? 名前? 書いてあったかなあ。いや、書いてなかったと思うけど……」

 高椋はちらりと給湯室を見る。木幡にもプリンの瓶は見えていた。かろうじて割れるのを逃れ、そっとシンクの上に置かれたプリンの瓶。

 瓶の腹には、マジックで大きく「きはた」と書かれている。ただマジックはかすれて、かろうじて読める程度だ。

 それでもしっかり、書かれている。

「高椋さん」

 木幡がずいと瓶を指すと、高椋の目も瓶を追う。そして高椋も気が付いたようであった。

「……あ」

 ぽかりと開いた口。それを見た途端、木幡の中で何かがぷつりと切れたのがわかった。

「……高椋さんはいつもいつもそうですよね……今日だって人の話を聞かないで突っ走るし……」

「プリンを食べたことと人の話を聞かないことには関連がないだろう」

 高椋は戸惑いながらも、きっぱりと関連性を否定する。木幡だって、自分が無茶なことを言っているのはわかっている。けれどここ数日の積もり積もった苛立ちは、簡単には引っ込んでくれないのだ。

「関係あります! そうやって高椋さんはいつもいつもいつもいつも自分勝手に行動してるんですよ! 警察学校で学んだ協調性はどこに捨ててきたんですか!」

「残念ながら協調性は培われなかったタイプでね。協調性はともかく、プリンを食べたのは悪かった。だから代わりに」

「いいです」

 高椋は下の階を指さしていた。おそらく下のコンビニで買ってくるとか何とか言っているのだろう。だから木幡は最後まで聞くことなく断っていた。

「だけど」

「いいんです。だって私は今、どうしてもあのプリンが食べたかったんです。今!」

 木幡は言いたいことだけ言い捨てると、そのまま高椋に背を向けた。高椋と向き合っていると、さらにみじめな気持ちになりそうだったからだ。

 高椋から声を掛けられても振り切ることができるように、木幡は廊下を足早に歩いていく。

 予想に反して、高椋が声をかけてくることはなかった。追いかけてくる気配もなく、なんだかそれがさらに苛立ちを増したような気がしてならない。

「あーやめやめ!」

 誰もいないエレベーターホールで、声をきっぱりと上げて気持ちを切り替える。元々の性格から、くよくよと悩むのは苦手だった。

 一度プリンのことを頭に思い浮かべてしまったおかげで、今はプリンが食べたくて仕方がない。ここはもうコンビニで売っているごく普通のプリンでかまわないから、プリンを買いにいくべきだろう。

 木幡は気持ちを切り替えて、コンビニへと足を向けることに決めた。



 * * *



 夜の東京は、賑やかなところもあれば、昼間の喧噪が嘘のようにひっそりと静まりかえっているところもある。

 今日は車の通りは多いが、人通りは少ないだろう。

 木幡は立ち並ぶビルの隙間を縫うようにして、歩いているところだった。

 本来の目的であったプリンは、まだ入手できていない。それなのに外でこうして足音をひそめて歩いているのには、もちろん理由があるのだ。

 はじめはプリンを買うためだけに、外へと出てきた。だがコンビニに行こうとしたところで、見覚えのある人物を見つけてしまったのだ。

 きちんと顔が見えたのはほんのわずかな瞬間だった。それでも見逃す訳はない。なぜなら、その見覚えのある人物は、捜査一課で追い続けている人物だったのだ。

 見覚えのある人物――男は、パーカーのフードを目深にかぶり、あたりを警戒しながら通りを歩いていた。街灯の下、浮かび上がる男の影を木幡はそっと追いかけていた。距離を置き、なるべく音を立てないように歩いているからか、男には気が付かれていないようだった。

 プリンは後だ。高椋に連絡するべきか思い悩む。本当ならば即座に連絡するべき案件だが、ついさっきまで大人げない喧嘩をしていたとあると、躊躇してしまうものだ。

 だがここは、大人としての対応をするべきだろう。木幡はぐっと歯をかみしめると、ショートメッセージを送る。送ってすぐに男が道を曲がってしまったので、返信を確かめることができずに後を追う。

 男は、公園へと入ろうとしているところだった。尾行に気が付かれたか、それとも公園を通ってどこかに行くつもりなのか。緊張に身体がこわばるが、追いかけないという選択肢はない。

 木幡も公園の中に入り、しばらく後を追ったとき、不意に男が足を止めた。

「……、」

 ついに気が付かれたか。木幡は男に近づいたところで足を止める。振り返った男は、近くで足を止めた木幡に訝しげな視線を向けてきていた。

「――さん、ですね」

 男の名を呼ぶと、男はびくりと肩を揺らしていた。よもや見知らぬ女から名前を呼ばれるとは思っていなかったのだろう。

 一気に警戒した男に、木幡は己の名乗りを上げた。

 男は警察という単語を聞いた瞬間、目を見開き、今までの慎重な行動が嘘のように、木幡へと飛びかかってくる。

 木幡もどう動かれても対応できるようにしたつもりであったが、あまりに急なことに、身体が付いていかないようだった。かろうじて最初の突進は避けることができたが、男の身体を掴むことができず、逆につかまれてしまう。

 どうやら、この男は柔道か何か心得があるようだった。焦りを覚えつつ、何とか抜け出そうとするものの、なかなか思うように身体が動かない。

 じたばたと暴れているさなか、男の手が首に伸びてくる。

「……っ」

 避けようとするものの、肩をおさえられている身では、避けることも叶わない。

 すぐに首を掴まれて、力を込めて締め上げられる。呼吸ができなくなる中、それでも活路を見出そうと思考を巡らせているときだった。


 頭上が暗くなったかと思うと、男の身体がぐらりと揺れた。狭まりつつある視界でのことだったので、視界が歪んだのかと思ったが、急に喉の締め付けから解放されたので、どうやらそうでは無いことがわかる。

「ガハッ、ゴホ、ゲホゲホ……ッ」

「おい、木幡、生きてるか」

 ひどかった耳鳴りが落ち着いてきたこともあって、聞き慣れた声を拾うことができるようになる。誰かと思えば、高椋であるらしい。そういえば男を追う前に、高椋にメッセージを入れていたことを思い出していた。

 のしかかっていた重みが消えて、ようやく身体を起こせるようになる。暗がりのなかだが、高椋が男に飛びかかって確保したらしいことは分かった。

「生きてます、よっ」

「よしきた。じゃあ本庁に連絡入れてくれ」

「了解」

 油断してしまったが、木幡だって捜査一課の人間なのだ。これくらいでへこたれる訳にはいかない。

 木幡が連絡を取っているなか、高椋は男に手錠を掛けていた。その横顔は、憎らしいほどいつもの顔である。いや、人のプリンを勝手に食べたときもいつもの高椋であったから、いつもと違うのは木幡だけなのだ。まったく憎らしい男だ。

 だが、木幡が連絡をいれてから男に声を掛けるまで、そんなに時間は経っていなかったはずだ。それなのにどうしてすぐここに駆けつけることができたのだろう。

 捜査一課の大部屋を出て、それから外に出て、公園のあるここまでやってくるのに、それなりの時間はかかるはずだ。

 もしかして、木幡を追って高椋も外に出ていたのだろうか。

「高椋さん」

「なんだ。連絡は済んだのか」

「澄みました。すぐに応援がきます。……随分と早かったですね」

 木幡が直球でたずねると、高椋の視線が逸れた。どうやら気まずかったらしい。

「……いや、その。さすがに悪かったと思ってな? よく見たら木幡の名前書いてあるしな?」

「そうですよ? ようやく心の底から自覚したんですか」

「なんかそう言われると腹が立つが……とにかく、悪かったからな、俺もプリンを買いにいこうと思ってな……」

 どうやら木幡が一階に下りたころに、高椋も木幡を追いかけて下に降りたらしい。だがコンビニに立ち寄る前に、木幡が何かを見つけたような行動を取ったので、高椋も怪しみつつ、後を追ってくれたという訳である。

 高椋は捜査一課のなかでも独断専行の人間なので、こうして誰かのために行動するということは非常に珍しい。珍しさと、高椋のような一見冷徹そうな人間がコンビニのスイーツ棚に並んでいる姿を想像するとなんだかおかしくて、木幡は思わず笑みをこぼしていた。

「木幡?」

「何でもないです。取り調べが終わったら、一緒にプリン買いにいってください。……いやその前に朝ごはんかな」

「そうかもな」

 目をそらしていた高椋も、木幡につられてか、わずかに笑みを浮かべていた。

 こうしてプリンを食べられた事件は一度幕を下ろすのだが、同じ手口の事件がまたもや繰り返され、今度こそ木幡は高椋に跳び蹴りを食らわせることになるのだが、それは数日後の未来の話である。

                          (了)


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プリンをめぐる攻防 志水了 @syusuirs

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