愁いを知らぬ鳥のうた

文月(ふづき)詩織

愁いを知らぬ鳥の歌

 餌をねだる雛の声が耳に届くようになって初めて、ベランダにツバメの巣ができていたことを知った。


 思い返せば、せわしなく出入りする親鳥の影を私は確かに見ていたのだけれど、不思議と巣には気が付かなかった。


 カーテンの向こうを親鳥の影が横切る度に、割れた雛の声が聴覚へと押し寄せてくる。


 窓を開けると、飛び去ってゆく親鳥の羽が鼻先を掠めた。土と枯草を唾液で固めたポケットの中、コンクリの天井がつくる影に、黄色いくちばしが五つ、息を潜めて並んでいる。


 巣の直下の床には、撒き散らされた尿酸にょうさんが白く乾いて張り付いている。汚い、と私は顔をしかめた。


 かつて張り切ってベランダを掃き清める任に当たっていた箒が、今は力なくエアコンの室外機に寄りかかっている。風雨と砂ぼこりが箒と室外機の上に平等に時を注ぎ、古ぼけた調和をもたらしていた。私はその秩序を破壊して箒を掴みとり、ツバメの巣を見上げる。


 雛たちは影の中でじっと息を潜めている。私のことなんて気にしていないとでもいうように。


 この箒をツバメの巣に叩きつけてやりたい。実際、そのつもりで箒を手に取った。


 見窄みすぼらしい羽毛の隙間から、黒いような赤いような、不気味な色合いの地肌が覗いている。未だ開かぬまぶたに覆われた眼球が、顔の輪郭からはみ出していた。


 弱々しい生き物を前にして、殺意は足踏みする。まだ雛がいないうちに気付いていれば、躊躇なく叩き落とすことができたのに。


 私は箒を元の位置に戻した。一度秩序から外れた箒は、室外機との噛み合わせが悪くなり、奇妙に浮き上がって見えた。


 部屋の片隅から段ボール箱を引っ張り出してくると、ベランダにこびりついた尿酸の上に乗せた。これ以上汚れることだけを防止して部屋に戻り、窓とカーテンを閉めた。


 日の光とは較ぶべくもないLEDの薄い灯りが、室内にぼやけた陰影を投げかけていた。本に書類、鞄に衣類。床に撒き散らされた物品の成す渦の中心に、炬燵こたつ机が鎮座している。


 炬燵机の前に置かれたクッションは、丁度私の尻の形に凹んでいる。クッションを叩いて中のビーズをならしてから腰掛けた。すぐにビーズは元の通りに寄った。


 壁に架けられた時計をぼんやり見上げる。


 研究室のコアタイムに間に合おうと思えば、もう家を出なければならない。ビーズの潰れたクッションに埋もれたきり、私は動き出すことができなかった。


 ぼうっと時間が過ぎるのを見ていた。時計の針は非常にじれったく、しかし滞ることなく時間を刻む。一秒を刻む針の音の間隔が、永遠の空白を奏でている。


 ベランダで生じたけたたましい鳴き声が空白を埋めた。親鳥が帰って来たらしい。生理的な欲望のみを詰め込んだ醜い歌声が、鼓膜を殴りつけて頭蓋骨に不快な振動を伝える。


 机の裏側にわだかまるうろに潜み、息を殺して、時間が通り過ぎるのをただ待った。コアタイムが始まってしまうと、私は安堵の息を吐く。


 研究室に行けなくなった理由が、私にはよく解らない。誰かの悪意に晒されたわけではないし、過剰な熱意にえぐられたわけでもない。


 ただ失敗をしただけだ。周囲とのコミュニケーションエラーが引き起こしたすれ違い。私にはとても大きな失敗だったが、誰もそれを気にしていない。向けられるのは無関心だけ。


 それなのにある日、私は研究室に行けなかった。その次の日、また私は研究室に行けなかった。昨日はどうしたのだと問われるのがたまらなく怖かった。問われるはずもないものを…。


 次の日、その次の日。日が経てば経つほど、研究室への忌避感は増大した。もはや私は大学のある方角を向くことすら怖かった。


 ベランダは、大学の方角に開かれている。


 カーテンに差し込む日の光を背景に、ツバメの影絵が短い歌劇を上映する。醜い歌声がまた響く。利己をがなりたてる五重奏。


 そんなに餌が欲しいのか。誰かが食べるということは、誰かが食べられないということなのに。ああ、意地汚い。あさましい。


 他者を省みないお前たちには、きっと辛いことなんてないのだろう。


 *****


 数日が経過した。やはり私は研究室に行けなかった。


 研究室どころか、大学院卒業のための必須講義さえも欠席した。


 時計を見やると、丁度講義が始まる時間である。私はそっと鳥の巣の如きクッションの窪みを抜け出した。


 このアパートは大学から非常に近い。うかうかと外に出れば知り合いに遭遇しかねないので、生活物資の買い出しにも行けなくなっていた。しかし、今なら知り合いに出会う可能性は低い。


 私は急いで身支度を整えると、戸締りを確認しようとカーテンを開けた。


 ふと目に映ったものが気になって、ベランダへと出る。


 数日前に置いた段ボールの中には、尿酸の山が形成されていた。


 その山の斜面を覆うように、ツバメの雛が落ちている。ぼそぼその産毛が貼り付く体は固く縮こまっていて、そのくせ全く力が入っていない。


 雛は死んでいた。


 巣の中には黄色いくちばしが四つ並んでいた。落ちて死んだ雛と比べて、四つの嘴に付随ふずいした体躯たいくは丸々としていた。嘴ばかりが目立つ小さな顔の両端に、ぱっちりと開いた丸い目が、巣の外を映して輝いている。


 私は箒を手に取った。箒の柄で巣を突くと、黄色い嘴が一斉に開いて欲望に満ちた音の塊を吐き散らす。


 死んだきょうだいのことなど意にも介さず、ゴミのように巣から放逐してうれえず、親の帰還に似た振動に反応して、無邪気に空腹を訴える。なんて醜い生き物だろう。


 今頃、研究室では皆いつも通りに、無言で自分の世界に入り浸っているだろう。


 今頃、学友たちは出席簿に名前を書き込み、真面目に講義を受けているだろう。


 悪意も害意もなく、己の善性を疑いもせず、無邪気に日々を過ごしているはずだ。


 人知れず巣から落ちたもののことなど意識の端にも上るまい。


 餌を貰えないことを察したのだろうか。四つの嘴は閉ざされた。私は箒を定位置に戻し、ゴミ袋を引っ張り出してきて、死んだ雛を段ボールごと投げ入れた。


 自然界ではよくあることだ。強いものだけがあらゆる理不尽を潜り抜けて生き残る。私は人間なので、生存を前提としたぬるい不幸に浸っている。


 私よりも辛い目に遭っている人はいくらでもいる。世界一不幸な人間よりも悲惨な目に遭っている生命は枚挙に暇がない。


 自分の不幸が大したものでないと自覚していることが、私にとって最大の不幸なのだろう。


 私は再びカーテンを閉ざした。


 カーテンがツバメの影絵を描く度、ますます力強く欲望の四重奏が響き渡った。


 *****


 カーテンの外れた窓から、太陽の熱気が流れ込んでくる。


 高くから注ぐ日光はベランダの屋根に遮られて、部屋の中まで届かない。昼の太陽が窓から注ぐ季節は、知らぬ間に通り過ぎていた。


 山積みになっていた段ボールが全て運び出されてしまうと、部屋は思いのほか広かった。


 床には家具の名残が見えた。ここに本棚、こちらはテレビ、あそこには洋服ダンス、そちらはベッド…。生活感が取り払われたこの部屋は、すでに見知らぬ空間となっていた。


 流れ込んでくる外の空気を吸って、私は奇妙に清々しい心地になった。


 ふとツバメの巣のことを思い出して、私はベランダに出た。


 床に貼り付いた尿酸は半ば砂と化している。ツバメの巣はすっかり空になっていた。いつから声が聞こえなくなったのか、私には思い出せなかった。


 室外機に寄りかかって忘却を責め立てている箒を問答無用でゴミ袋に押し込んで、私は額を拭った。


 玄関に残されたツバメの巣に、来年もまた別のツバメが来るのだろうか。この部屋に住むことになる誰かは、ツバメの雛の歌とどのように向き合うのだろう。


 あの小憎たらしい雛たちは、今頃どうしているのだろう。どこかで死んでしまったか、あるいは元気に飛び回っているのか。


 私は窓を閉めて、鍵をかけた。


 玄関から外に出る直前、学生時代を過ごした部屋を振り返る。


 人のいなくなった部屋のベランダに、ツバメの古巣がぽつり、とり残されている。

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