第3章 檻の蝶

視界が真っ暗になったのを最後に、目を覚ましてみれば次のシーンへと切り替わっていた。記憶のフィルムがすっぽりと抜けている。とりあえず、今自分は横になっているようだ。意識が朦朧としている中でそんなことを思った。遠くで声がする。


「…もちろん、その通りだよ…だから言ったじゃないか、仲良くするんだよって…」


 グリアは何が起きたのかを思い出そうとして、記憶のフィルムを遡っていく。それが、ある一つの映像で止まった。


赤い炎と熱気。 かつて彼女に纏わりついた、死。


「そう…だったか…」


 回想はすぐに過ぎ去っていく。煌々と照らされた照明が真上からグリアを威圧していた。


「ここは…」


「私の研究室だよ。君にはお馴染みのね」マクレーンがナビの電源を切る。誰かと通話していたらしい。


 無数のスクリーン、頑丈そうな壁と一体化した引き出し式の薬品棚、今自分が横たわっているリクライニングチェア型の装置……マクレーンが言ってからようやく、3年ほど前から見知った風景を認識できた。


「念のため君の体を検査しておいた。異常は特に無かったよ。もし君の中の回路や部品が焼かれていたら君の生命維持に支障が出るかもしれなかった。お手柄だ。後でリアンにお礼を言っておかないとね。まあ、それが彼の仕事なんだけども。大丈夫?起き上がれるかい?」


グリアはゆっくりと上体を起こす。頭から霧が晴れていく。


「ここまでは彼が運んできてくれた。重量操作は解けてないから、君のことはリアンにはバレてない。彼も何も言って来ないだろうから、気にせず自然に対応するように」


「人体実験がバレると困るのはお前達の方だろう…」


そう言うグリアに対しマクレーンは反論した。


「命を救う代わりに実験に協力すると言ったのは君だ。そういう取引だったよね?」


事実を突かれて、グリアは言葉を押し戻されてしまった。悔しい話だが、こちらの生殺与奪はこの女の手にある。


「その身体、なかなか気に入ってくれてる様じゃない。ナビを介さずとも魔術を使える…脳の神経をネットと接続出来る君だからこそなせる技だよね。世間からしてみたら羨ましい話だと思うよ?」開発者はちっとも羨ましくなさそうに言った。


「三年前に君を襲ったあの事件…君の研究室が放火され、魔術式のデータを盗まれた事件の真相を明かさなくてはね。君が私の研究に協力してくれてるんだ、私も全面的に協力させてもらうよ」


 グリアは少しもありがたみを感じることはできなかった。捜査協力、居住提供、メンテナンス…そのどれもが、エドワルダ・マクレーンが自分を支配下に置いている証のように思えてならなかった。マクレーンが保安局の一員として法と秩序を保とうとする気持ちは紛れもなく本物だ。しかし、グリアが秩序を乱す存在だからこそ、利用価値のある研究材料としか見ていないだろう。そう思うと余計に、彼女が命の恩人という事実が腹立だしくて仕方がなかった。


 まだ過呼吸気味で気分が優れない。いくら機械の身体といえど、唯一残った脳には酸素が必要だ。それと、少しの安らぎも。


「悪いけど、もう少し休む」


「うん、そうした方がいい。栄養カートリッジの交換もしておくよ」


 それから彼女は言った。


「やっぱり、火は克服しておいた方がいいんじゃないかな。魔術師にとって致命的じゃない?よければトレーニングメニューを組んであげてもいいけど」


マクレーンは提案したが、


「いらない」


グリアは首を振った。


「俺は一度火で死にかけたんだ。そう簡単に克服出来る話じゃない。それに…」


脳裏に熱い恐怖が蘇る。逃げ場を無くし、ただ生きたいと叫んだあの瞬間。


「それに?」


「…これ以上俺から何も奪わないでくれ」


マクレーンは残念そうに微笑を浮かべる。


「……実にもったいない話だよ」

グリアはゆっくり目を閉じた。


人形のように何も反応しないグリアを横目に、マクレーンは誰に聞かせる訳でもなく1人憐れむように呟いた。


「君は…怖いと思うことで生きている事を実感するんだね。脳以外全て機械である君は、自分が人間である事を確認出来ない。だからその不完全さで人間だと証明しようとしてるんだ」


マクレーンは続ける。


「それもよく分かるとも。でもね、人はいつだって高みを目指してきた。誰よりも強くありたいと思い、老いと死の運命さえ超越したいと願ってきた。君はその証明にもなり得るんだ。人の願いを叶え、より限界を目指したいと思うのは、我々研究者の性というものじゃないかな?」


目を閉じたグリアはネットの海に潜り、二度と叶わない夢を探しに行く。

見つかると同時に辛いミントが煙のするりとした喉越しと共に脳に届いた。


現実に浮上してしまえば使うことの無い味覚を呼び覚ましたからか、それとも遠すぎる過去に懐かしくなったからか、不意に泣きたくなる。しかしそれは彼女の今の体には備えられていない機能だった。


3年前、炎から逃げ惑い、気がつけば世界を覆う渦に飲み込まれていた。

開けられない鉄の瞼の裏に泡のように浮かび上がるデータの群れ。タイプは要らない。ただ想うだけでいい。それだけで望むものが手に入る。彼女は全身火傷を負って助かる見込みが低かった上、機械の身体に人間が適応できる可能性が限りなくゼロに近い中で、奇跡的にそんな権能を手に入れてしまった。しかし、その代償は大きかった。


ある程度身体が自由に動かせるようになって、身体中を見回してみる。何処にも人間である証拠は無かった。


それでもまだ、生きていたい。

  全てはあの日の真実を確かめる為に。


 グリア・ブレイスという人物は存在しない。過去の彼女ももはや存在しない。しかし確かに自分はここにいる。


俺は、人間だ。だってこんなに脆くて不完全なのだから。


鉄の檻に入れられた魔術師の魂は、誰にも届かない慟哭を上げていた。

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