『いつか俺は陽ちんとちーちゃんを護るために』

 晩夏のわりに幾分日差しのやわらかい、透き通るように晴れた空の下、千暁は一人公園のベンチに腰掛けていました。ニュートラルな表情で頬杖をついて、微風そよかぜに擦れ合うポプラの葉だとか、暑さに負けじと咲く花だとか、汽車をモチーフにしたカラフルな遊具だとか、はしゃぎ回る子どもたちだとか、おしゃべりに夢中なママさんたちだとか──そういう何でもないものの集合に目を遊ばせていました。


 ──しきたり通りの幸せ。


 別に揶揄しているつもりは毛ほどもなく、千暁からすればそれは某寓話でいうところのすっぱい葡萄みたいなもので。

 もう──手の届かないもの。仮に親切な誰かがそれを取って、はいどうぞと差し出してくれたところで。

 きっと、素直に喜ぶことはできない。口に放り込んだって酸っぱさしか感じられない。だからこそ、こうしてやや斜に構えでもしていなければ──やってられないわけで。

 移動式カフェで買ったカフェモカを口にします。基本コーヒーはブラック派なのですが、なんとなく甘さに浸りたい気分でした。

 ふと、足許にピンクのボールが転がります。腰を上げて、芝生にしゃがみ込んで。千暁は、拾ったボールをどこかたどたどしい小走りでやって来た女の子に、どーぞと言って手渡します。

 女の子はおずおずと伸ばした両手でそれを受け取ると、

「おねーちゃんありがと」

 と言ってふにゃりと笑いました。つられて、千暁の口許も緩みます。踵を返して、家族の元へと戻ってゆく女の子。手の届かないに再び溶け込んでゆく、おかっぱ頭の日本人形みたいな後ろ姿。

 女の子の両親と小さく会釈を交わしたあと、まあおにーちゃんなんだけどねと呟いてから、千暁はこう続けます。

「他のベンチ空いてるけど?」

 肩越しに見る視界の端に映っているのは。

「見れば解るよ」

 ベンチの端に足を組んで座る一人の──ええ、体格的に男性ではあるのでしょう。フェザー柄のネクタイとスーツ。ヒトであれば頭部があって然るべき箇所に、立方体型のガラスが浮いております。中は透明の液体で満たされ、鳥類の頭蓋が浸されていました。周囲の人間は、その異様に目もくれません。どうも何らかの認識の歪みが働いているようです。

 千暁もまたベンチのもう一端に腰掛けました。

「意外? 僕がこんなところでぼーっとしてるの」

 いいやと男は即答します。

「自然との触れ合いは副交感神経を活性化させ、創造性を刺激する。芸術家肌の君に適した憩いの場だと思うが」

「そういう科学的根拠エビデンスベースの話ってさ、この躰になった今でも通じると思う?」

「ああ、思うよ」

 千暁は、つい男の方を見ました。

「──どうした?」

「いや、鵜籠うごもりくんが言い切るの意外だったから」

 外見だけならヒトと見分けがつかない自分が言うならまだしも、あなたが言うとは。

 そうか──と男こと鵜籠は言いました。それ以上言葉が続くことはありませんでした。見れば、彼は手にカップを持っています。プリントされたロゴのデザインから見て、千暁と同じ店で買ったのでしょうが。飲むのか。というより、飲めるのか。

 恐らくだが──と鵜籠が前置きしました。


「彼は、薄々気付いているのではないかな。自分が今後どう立ち回るかに左右されず、いつかはこの世界の全人類が目覚めてしまうことに。自分たちと同じ側に立ってしまうことに。どうかしていたのは自分たち視える者側ではなく、世界そのものだったということに」


 それは、あの日千暁が意図して"彼"に語らなかったこと。

 単純で、壮大で、ずっと救いようがない現実。

 そう、陽や千暁の特異体質は、選ばれし者たちだけが有する才能でもなければ、ましてヒトヒト感染するウイルスの類でもありません。この体質は、のです。決して逃れられない、万人に訪れる進化なのです。陽や千暁らは偶々開花するのが早かった──それだけの話です。現状進行を防ぐ手立てはなく、千暁や男のような力を持った者たちでさえ、できることといったらそれを遅延させるくらいのもので。


 もはやこの世界は、緩やかな激変を享受するほかないのです。

 

 全人類が鬼神を感得できる世界って案外楽しそうじゃね──などと思ったそこなあなた様は、陽の身と彼の住まいについてどうか思い返していただきたく。そう、彼の身は姉の使い魔によって護られ、その住まいは仮に鬼神が湧いたとしても施された術式によってその凶暴性が抑止される仕組みとなっているのです。加えて、陽(と千影)には人たらしならぬ鬼神たらしとでも呼ぶべき"天性"が備わっております。

 皆が皆視えるようになったその日から、そこかしこで喜劇が繰り広げられる──そんな安易な話ではないのでございます。

 

 それでも──。

「案外──上手くやるんじゃないかな。陽くんは。千影ちゃんが視えるようになって、周りにも視える人が増えていって。視える側の先輩として、困ってる後続の力になれるんじゃないかって、そんな役目を見出してさ。千影ちゃんや愉快な仲間たちとそこそこ愉快な生涯を送るんだよ。それこそトリ君が視えだしたら、アメコミよろしくチームなんか結成して活躍しちゃうんじゃない? 千影ちゃん、ああ見えて仲間内でワイワイするのキライじゃないから」

 そこまで語ったところで、千暁は何だよ──と唇を尖らせます。どうにも鵜籠に注視されている気がしてならなかったからです。

「羨ましいのか?」

「──は?」

 思わず、声が低くなりました。

「声がそのように聞こえた」

「いやいやナイからって言いたいとこですけどぉ。──羨ましいよ。ちょっぴりね。でも、それはわぁい僕も輪の中に入れてーって意味じゃなくてさ。純粋に。あー楽しそうだなぁって」

 そこに、他意はありません。幸せのおこぼれを頂戴したいなどとは、微塵も思っておりません。傍観者──外野からの単なる呟き。それ以上でもそれ以下でもないのです。


「彼は──彼女のことをどこまで」


 陽は、千影についてどこまで知っているのか。のことについて、千暁からどこまで知らせているのか。

「言ってないよ。全部は」

 千暁は、空を仰ぎました。入道雲の瑞々しい白さが際立つ晩夏の空。何故だか──涙腺を僅かに刺激されるものがありました。


「言ったとして、今の陽くんにわかると思う? 陽くんは人に表と裏なんてないと言った。人は、表と裏どころじゃあないと。けど、千影ちゃんには"ある"んだ。千影ちゃん自身存在を認識しようがない表と裏が。そして、陽くんが恋人だと想っているのは、陽くんを恋人だと想っているのは裏の方だって。元からいるホンモノの千影ちゃんじゃないんだよって」


 千暁はそこで一呼吸を置きました。小さく息を呑むその顔は、どうにも心憂いものでした。

「僕ね、陽くんと──お姉ちゃんが付き合うこと、最初は反対だった。視える陽くんとの出会いが、凪のような生涯を約束された裏の千影ちゃんに悪い影響を与えるんじゃないかって。あのとんでもない──表の千影ちゃんが目覚めるきっかけを与えてしまうんじゃないかって。まあ、今だって百パーセント賛成はしてないけど。それでも、応援はしてる。そんなふうに心変わりできたのは、この人ならお姉ちゃんの恋人になってもいいかもって思えたのは、陽くんならお姉ちゃんの抱えてるものを知ってなお、独りぼっちにはしないんじゃないかって。お姉ちゃんと一緒にいたいって言い切ってくれると思えたからなんだ」

 千暁は、実姉が置かれている"現状"を知ったとき、傍を離れるという道を選びました。千影を賭けた陽との決闘の果て、彼を完膚なきまでに叩きのめしたことでいよいよ彼女に嫌われて(もっともこれ以前から決して好かれてはおりませんでしたが)──お互い、距離を置く道を選びました。これまで通り、姉と弟として接する自信を喪失してしまったからです。

 けれども、陽なら。

 陽と千影の二人なら。

 脳裏に浮かぶ実姉と未来の義兄の顔に、千暁は──。


 ──ああ、義兄にいちゃんに任せろ。


 露骨に、顔をしかめました。

「どうした?」

「いや、何かもう色々通り越してはら立ってきちゃって。僕らがこんだけ水面下で頑張ってんだから、こうなったら何が何でも幸せになってもらわないと」

 水面下。陽と愉快な仲間たちが千影救出劇に奮闘している間、そういえば千暁は何をしていたのでしょう。

 ざっくり言えば、千影の身命より事態の早期解決──屋敷神の抹消を最優先とする"勢力"を鵜籠と共に食い止めていました。

 此度の件、そもそも陽でなくとも事態を収束することは可能だったのです。その気になれば、千暁や鵜籠にだってできました。もっとも、それは千影の安否を度外視した話。彼女に何の後遺症もなく、事態を丸く収めるためには、陽に託す他なかったのです。


「その幸せに、君は含まれていないのか?」


 あまりにも──予想だにしない問いかけ。

「そこまで姉のことを思いやれる弟が、他者を気遣える人間が、幸せになることを放棄するべきではないよ」

 千暁は目をぱちくりさせてから、短い吐息混じりの笑みを零します。

「それ、助言できる立場でもなくない? 自分の幸せを放棄してるって意味じゃ、そっちだって他人のこととやかく言えないでしょ」

 幾分刺々しく聞こえる言葉の羅列。されど、それを並べた当人──千暁の顔はどこか哀しげで。

「天神の水。よくを助けるために使ってホントに良かったの?」

「良かったさ。親友の家族を護ることができた。彼と彼女の笑顔を一つ曇らせずに済んだ。だから──」


 俺は幸せだよ──と鵜籠は断言致します。


 強がるなぁなんて、不貞腐れたように言ってみるものの、内心わかってはいるのです。

 千暁には、それが虚勢ではないと、心からの言葉であると。

「ただ、一方でこれが幸せであると、どうかこちら側の"俺"にだけは受け入れてほしくないという思いもある」

 そうだね──という千暁の淡白なそれは、されど本心からの同意です。

 きっとこの男は、このような姿となり果ててなお、陽と千影を見守ることさえできれば、彼と彼女の幸福に貢献することさえできれば。


「が、本音を言えばそこまでの不安は抱えていない。何せこちら側の"俺"にはあの陽と千影がついているのだからね」


 それで、幸福なのでしょう。

              ※

 トリは、声を失いました。足が、その場に釘付けになりました。

 喫茶店を出てすぐのこと、偶々見かけた陳列窓に映り込んでいたのは──。

 奇矯なデザインのスーツを着た男。否、ファッションセンスなんぞはこの際至極どうでもよくて。後方を確認します。該当する人物は見当たりません。となると、男と自分はまさかの同一人物? ありえません。あり得るはずがありません。

 なぜなら、そう、頭。あたまが──。


 何が、どうしてそうなったというのか。


「トリ?」

 トリは、弾かれたように声のした方を見ました。

 今しがた別れの挨拶を交わしたばかりの親友が、怪訝そうな面付きで自分を見ていました。トリは、ゆっくりと目線を元あった位置に戻します。何の変哲もない──鳥越琢也がそこにいました。

「今日ってさ」

「ああ」

「昼からちーちゃんたちと出かけるんだよね」

「そうだけど──何かあったか?」

 この場合の何かあったかは、『その予定だけど何か不都合あるか?』ではなく、『いや、今さっきあからさまに様子おかしかったろ。はぐらかすんじゃねーよ』という意味で問うています。この男、案外他人の機微にさといのです。

「ううん、何でもないよ。楽しんできてね」

 それでも、トリは譲りません。にこやかにされど強引に会話を打ち切るや、陽に向かって手を振りつつ、その場をそそくさと立ち去ります。

 思考が、際限なく頭の中を巡っていました。これまで陽と行動を共にし、奇妙な目に遭ったことはあれど、はっきりと"彼ら"の姿が見えたことはありません。多分その辺にいるんだろうなぁ──と。存在を、気配を感じる程度のものでした。


 もしかして、今のが。その兆候なのでしょうか。


 千影に続き、今度は自分が。特異体質デビュー? 陽には、大先輩が身近にいてラッキーみたいなことを言いましたが。それは、紛れもなく本音だったのですが。それでも、いざ自分の身にそれらしいことが起きてみると。歩く足がもつれそうになります。心臓が、痛いくらいに早く打って──。

「おいっ」

 と、背中に受ける衝撃。のけ反ったトリは、二三歩前によろめいてから躰ごと振り返ります。不服そうな顔の陽が、両手をポケットに突っ込んで立っていました。トリの経験則からいって、衝撃の正体は飛び膝蹴りでしょう。

「いったぁ──何?」

「いや、声掛けても返事しねーから」

「声掛けからニーキックまでの間隔短過ぎでしょ。どうしたの?」

 陽は、トリの胸板辺りをずいと指差します。


「話してたろ? お化け専門のビジネス。バスターはまあするつもりねぇけど。いつか世界がそうなったら、トリの言ってたような仕事、やるのもアリかなーって結構マジで思ってるんだ。だから、トリも何かあったらすぐ僕に言えよ。でだ、お前がもしどうしてもっていうなら、そんときはウチの助手にしてやるよ」


 陽は、軽く握った拳でトリの胸板を小突いたあと、不敵な笑みを置き土産にその場を去っていきました。ジョギングペースの実に軽快な足取りでした。

 トリは、再び陳列窓に目を向けます。そこにいるのは、やっぱり何の変哲もないぽかんとした顔の鳥越琢也。何となく人差し指で口の片端を吊り上げて、笑顔なんか作ってみたりします。

 潔く──視線を切りました。


「陽ちんってほんっと陽ちんだなぁ」


 自分でもわかるようなわからないような。さっきのは俺が女子だったら胸キュン案件だよと心の中で呟きつつ、トリは歩き出します。

 陽とは、異なる方向へ向けて。

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