『あの日僕は千影と何を約束したのか/あの日私は陽さまの願いをどう解釈したか』
ドアを開けると、意外にも中はいつも通りでした。"浸水"もなければ、ヒト型の気配さえありません。靴は、玄関で自然と脱いでいました。居間に続くドアは開け放たれていて──進むと幼い少女が
部屋には、
陽は、幼少期の千影の姿を知りません。写真などでも見た憶えがありません。ただ、眼前の少女が、幼き日の彼女を模していることはわかります。同時に、ある意味では彼女本人であることも。
陽は、少女の傍に片膝をついて、
「千影」
と呼びかけます。久々に名前を呼んだ心地が致しました。
少女が、顔を上げました。案の定、彼女の面影がありました。頬を流れた涙の跡は、不自然に黒ずんでいます。なるほど、"浸水"の正体はこれか。世界を絶えずしどとに濡らしていた漆黒の──源泉はここだったのかと、陽は独り納得して、心を痛めます。
「陽さま」
どこか幼さを感じさせる、されど年齢不相応に落ち着いた声色。
少女は、俯いたままでした。まるで陽の姿が見えていないかのようでした。
「どうして
──いっそ陽くんにフラれてしまえばとさえ思ってる。
「どうして、そんなふうに思うんだ?」
「陽さまは仰ったではありませんか。視えないままの君でいてくれと」
陽は、目を
そんなことは言っていない。言った憶えがありません。ですが──。
見えないものを──視ようとしないでくれ。
あの言葉の裏に、こっち側には来るんじゃないという強い想いがあったことは確かです。
そうか。そういうふうに、この
「私はもう視えているのです。陽さまの望む千影ではないのです」
「千影、それは──」
悪い方に考え過ぎだ──と。少女の両肩に手を置きます。ちょっとした力を込めるのも
「貴方は、視えない者の苦しみに寄り添おうとはしなかった」
と、背後から声が降ってきます。紛うかたなき千影の声。驚いて振り返ると、ヒト型が直立していました。頭頂部が天井に届かんばかりに背の高い──否、長いというべきでしょうか。いずれにせよ、これまで遭遇した個体と異なる点があるとすれば、それくらいです。
それでも、他とは違う"何か"があると。そう思わせる瘴気がありました。
「貴方はいつも視える者の苦しみを誇示してばかり。自分こそが悲劇の主人公であると疑わなかった。視えない者の苦しみを過小に評価していた」
視えている自分が一番つらいのだ。だから、周りは憐れな自分に力を貸すべきだ。この世の誰よりも可哀想な自分は、皆から情を注がれて然るべきなのだ。
陽は、立ち上がろうとしました。立って、少女の手を取って、目の前のこいつを"左手"で怯ませることさえできれば、とりあえずは逃げられるかもしれない。それが根本的解決に繋がるかどうかはともかくとして、とりあえずは──この瘴気から離れられる。呑まれなくて済む。
けれど、そう思ったときにはもう。
躰が言うことを聞きませんでした。
立つことも、少女の手を握ることも、"左手"を突き出すことも。
何一つ叶うことはなく。
ただただ、怠い。途方もなく気力が湧かない。
目を開けていることも、音を聞いていることも、今を認識していることさえ、現実にこの身を投じていることさえ、酷く億劫で。
だからこそ。
──
愚かな自分は、彼女の抱えていた苦しみに寄り添おうとはしなかった。
そう、同意を示そうとした、そのときでした。
すくと立ち上がった少女が、陽を抱き締めたのは。細い
「勝手なこと──言わないで」
少女は、ヒト型を
「陽さまは一度だって」
──大丈夫だよ。たかが、歯が折れただけさ。死んじゃあいない。
──僕のために怖い思いをしないでくれ。自分を犠牲にしないでくれ。
──もちろん強要する気はないぞ? ただ、いい意味で君も巻き込んでいきたいって言うか。
「同情を買おうなどとしたことはなかった。私を蔑ろにしたことなんてなかった」
「それでも、寂しさは感じていた」
「好きだから! 愛しているから──小さなすれ違いを寂しく感じるのは当たり前でしょう?」
陽は、少女に抱かれたまま、ヒト型を見ました。徐々にではありますが、ピースが──
少女の躰が、陽から離れました。というより、引き剥がされました。彼女は、パズルのピースでできた、亡者のように細い数多の腕に引っ張られて、声を上げる間もなく沈んでしまいました。いつの間にか、床全体に広がっていた黒い泉の中に。
陽は、声をかけることさえできませんでした。
少女に向かって、手を伸ばす気さえ起こりませんでした。
彼女は仮初の千影──とヒト型が言います。
「千影が貴方に見せたい理想の千影。そして、私は千影を騙っているわけではない。千影の心の裏に確かにあるもの。奥底に千影が意図して秘めていたもの。今しがた届けた言葉は全て、千影の本心の一部。貴方を傷心させるためだけに、つぎはぎした言葉の羅列などではない」
泉から伸びる、いくつもの腕が、陽の躰に群がります。引っ張る力自体は、大したものではありません。が、精神力を根こそぎ奪われた彼に、どのみち抵抗は不可能でした。
四つん這いになります。どうにか眼球を動かして、左の掌を見ました。霊符の働きを持つはずのイラストが、何故だか綺麗さっぱり消えていました。噫、くそっ。一応奥の手だったのにな。畜生。チクショウ。
液面をじっと見つめました。千影は、ここに堕ちて行きました。彼女は向こうにいるのでしょうか。そう思った矢先、あちこちから声が聞こえます。酷く不明瞭ではありますが──。
陽さまと。
名前を呼ばれていることくらいはわかります。
黒い手が陽の顔面を掴んで、ぐいと液面に近付けました。妙な心地良さでした。接触している箇所から、凝縮した幸福感を注ぎ込まれているかのようでした。液面と鼻先が触れ合うほどの距離。噫、君がそっちにいてくれるのなら、それも良いのかもなと陽は思います。
──好きだから! 愛しているから。
せめて自分も言葉でそう伝えておきたかった。まあ、どうせ堕ちる場所は同じか。だったら堕ちた先で、いくらでも言えばいいか。千影の声がします。誘うような、甘やかすような、どんな陽も受け入れてくれる優しい声音。
これこそ──"自分を取り込むためだけに、つぎはぎした言葉の羅列"であると。
そう、陽にはわかっていました。わかった上で、抗うことはできませんでした。
そっと目を瞑ろうとして。囁きの
陽くん。
セーフワード。冗談抜きでダメだと感じたそのときは、唱えるようにと。
陽は、盛大に噴き出しました。無理もありません。こんなシリアス極まりないシーンで、自分の存在そのものが融けて無くなってしまいそうな状況下で、自我を取り戻すきっかけが、再起を図る一手がSMプレイで使ったそれって。
何て馬鹿馬鹿しい。
何て──僕と千影らしい。
そりゃあ、
「放せよ」
言い放ちました。昏い底から手招きする甘言に対して、纏わりつく腕に対して、自分を見下ろすヒト型に対して。
ゆっくりと立ち上がりました。彼を押さえつけていた腕は易々と千切れて、パズルのピースへと還っていきます。
「どうして──」
ヒト型の発する千影の声に、初めて感情の色がちらつきました。
「どうして、愛想を尽かしてくれないのですか」
この人は、視えぬ者の痛みに寄り添ってくれない。私の寂しさに気付いてくれない。私は貴方の力になりたいのに、それなのに貴方は私抜きで問題を解決しようとなさるのですね。何故ですか。不服ですか。私に至らないところがありますか。千暁や鳥越さま、それに
この人は、
おまけに、もう視えている。どうしてか、視えるようになってしまった。この人の拠り所では、平穏の象徴ではなくなってしまった。
どうして──フッてくれないのですか。
陽は、大して痒くもない頬を掻きながら、こう言いました。
「悪い。どこに愛想を尽かす要素があったのか、さっぱりなんだけど」
まるで、食卓を挟んで交わす他愛のない雑談。どう足掻いても日常──と言わんばかりの空気が、陽とヒト型の間に降って湧きました。
なので、ついヒト型も、
「──はあ」
と思いっきりらしくない返事をしてしまいます。
「そりゃおまえ考えてもみろよ。同棲してる恋人が、自分には視えないものと阿呆みたいに戯れてるかと思いきや、いきなり珍事に巻き込まれて、一般人からすりゃあ茶番以外の何物でもない事態に付き合わされて、挙句解決のため知恵を絞れと言われるんだぞ? 不満持つなって方が無茶だろ。それに──心の裏だなんて言ってたけど、そう単純じゃないだろ。ああ思う千影もいたら、こう思う千影もいる。僕に甘々な君もいれば、不満を持ってる君もいる。どっちも本心だ。表も裏もないだろ」
考えてみれば──人も鬼神も似たようなものです。
ジジイこと厠神は烏枢沙摩明王という顔を持つ一方、神道的には土の神である
狐とて化かす妖狐もいれば、願いを運ぶ
綺麗さっぱり、己の"あり方"が二分されることなどあり得ないのです。
陽は、一呼吸を置きました。さらに言葉を重ねます。
「僕があんまり君の力を借りることに乗り気じゃないのは、その、単に格好つけたいからだ。君に情けない男だと思われたくないって、強がってるだけだ。そういう意味じゃ、僕だって仮初だ。見せたい理想を見せようとしてた。けど──それってそんなに変なことか? 好きな人を前にイイ格好したいって。誰だって思うだろ。だから、僕は君の、千影のどこに愛想を尽かせばいいのか、嫌いになったらいいのか、全然ちっとも理解できない」
ヒト型を構成する、ピースの一つひとつが震え始めます。ヒト型が頽れました。両手で頭を抱えました。今にも慟哭が聞こえてきそうでした。随所より剥離するピースが、泉に波紋を描きます。
陽は、問いかけます。
「千影、君は僕の何が目当てで付き合ってるんだ?」
深層で眠る、否、意図して目覚めを拒む恋人に向かって。
「僕は君の──身も心も目当てだ。心の繋がりだけで満足できるほど聖人でもないし、躰の繋がりだけで満足できるほど猿でもない。僕の知ってる千影は──心だけの繋がりで満たされるような女じゃなかったはずだぞ。こんなところで、溶け合って、一つになってそれで満足するような女じゃなかったはずだぞ」
ヒト型に歩み寄り、片膝をつきます。ピースの鎧が崩れ、黒い泉に余さず溶けていって。中から現れた人影に。顔を両手で覆ってうずくまる彼女の姿に。
手を──差し伸べました。
彼女は、一向にその手をとろうとはしません。
陽は、少しだけ困ったように笑います。
「なあ、この世界って僕らの"合作"なんだってさ。こんな暗い世界が、僕らの集大成でいいのか。こんな世界を君は僕に見せたかったのか。僕と一緒に見たかったのか」
彼女が──小さく
陽は、そっと彼女の躰を抱き寄せます。
「今から
千影。
目を瞑りました。彼女もまた目を瞑ってくれているでしょうか。
思い描くは、理想の未来。とはいえ、わざわざ意識するまでもなく。
次から次へと、込みあげて来るのは。
──なってない。作法が。だから、やり直せよ。あとで。
──どうした父上。具合でも優れないのか?
──もっと
──当てようか。高くても九点止まりでしょ? 一点でも望みがあるならさ、話してみない?
──ねえ、陽くん。お姉ちゃんのこと幸せにしたいって思ってる?
そして、きっと一番やわらかなところに咲いているのは。
──あら、またですか陽さま。
どうにも素っ気ない、けれどひと摘みの喜色を隠し切れない、君の顔。
花が、咲き始めました。
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