『うちの愚弟がお世話になっております^^』

 階段を三階まで上り切ったところで、陽は自らの足につまずきました。幸い大きくバランスを崩した程度で、転倒こそ免れましたが──。

 ゴーストタウンを彷徨い、ヒト型の群体に追われ、炎のトンネルを抜け、一歩間違えれば死ぬような事態に直面した──そんな慣れないし慣れ親しみたくもないイベントのオンパレードに、すでに全身が悲鳴を上げていました。

 未だ足許を浅く流るる黒い液体。未だ乾くことを知らない、陽と千影と屋敷神の世界。“これ”の根本はもしかしたら自分のウチかもしれないな──なんて、陽は何とはなしに思います。

 一望できるは、色彩の氾濫──あまりにも境界の判然としない景観に、どこまでも続く純黒の空だけが際立っております。

 なるほど、これほどに異界化が進んでいては、交戦中の王子の気配を感じ取れぬはずです。“我が子”の身に何が起きているのかを察知できぬはずです。

 陽の脳裏を千影との美術館デートで目にしたクロード・モネの『菊』が過ぎります。あれもまた美しき色彩の氾濫でした。

 言うまでもなく──は流石に失礼かもしれませんが、陽は特別美術に関心があるわけでもなければ、記憶力に優れているわけでもありません。それでも、彼が絵画のタイトルを、作者の名前まで憶えているのは。


 千影と一緒に観たからに他なりません。

 彼女が観に行きたいと言ったからに他なりません。


 こんな孤独の淵で目にするものでさえ、彼女との思い出に繋がっているだなんて──。


 行く先に目を向けました。

 陽と千影の部屋は、廊下を進んで最奥の左手にあります。立ちはだかるはヒト型たち。されど、両腕が付いておりません。ここに来て手心を加えるというのもおかしな話。恐らくは、なけなしのピースでこしらえたのでしょう。

 追い詰めたぞという気持ち半分、もういいだろという気持ち半分。こんなことになるなら、一階に住んどくんだったな──と苦笑して、陽は左の掌を見ました。

 鬼神の自由を一時的に奪うなんちゃって霊符──懸念すべきは、ギリギリまで対象を引き付けなければならないこと。それから、はたして二度も“同じ手”を喰ってくれるのかということ。

 ヒト型は複数にして単一。各々が一つの集合意識めいたものを共有していると考えられます。ゆえに。一度経験したそれに、対策を講じてこないはずがありません。

 足を前後に開きました。スタンディングスタートのポーズ。先ほどは王子がいたからこそ全力で突っ込めましたが──。

 もう、やることは変わりません。彼女のもとへ続くのは、正真正銘この一本道だけです。いざスタートを切らんとした、そのときでした。陽が、異変に気付いたのは。


 足許が、自身のつくった陰りが、ごぼごぼと泡を立てている──。


 そこから、羽衣のように揺蕩たゆたいうねり現れたのは、百足か蛇かはたまたウツボか──兎角躰の長い生き物の群れ。それらは、宙を泳ぐようにヒト型へと向かうや、頭部や胴に巻き付いてゆきます。

 ピースの集合であることを思えば、容易に抜け出せそうなものですが──。即効性の毒でも注がれたかの如く、ヒト型は原形を崩し、活力を失ってゆきます。

 唐突に現れた新手の鬼神めいたもの。カンブリアだか、デボンだか、遠い遠い昔のだいに、いたかもしれない海洋生物めいたもの。

 悪霊が憑依したシダ植物というか、妖怪化したサボテンというか。形容に難儀するビジュアルを見ているうちに、記憶のそう奥まっていないところから浮上するものがありました。


 ──ねぇ、陽ちゃんってカンブリア紀の生物とか言われてピンとくる人?


「使い魔──」

 人に仇なす悪鬼羅刹から陽の身を守護するため、姉が寄生させたという、あの。


 あの──使い魔か。


 RPG風に言うところの状態異常効果でも付与されているのか、動きを封じられたヒト型は、見る見るうちに石化してゆきます。否、なれの果ては路傍の石にあらず。赤にピンクに紫、豊かな色彩が織り重なった末にできた珊瑚──身じろぎ一つ叶わぬ有機の宝物ほうもつ。こうなってしまっては、再構成による復活という十八番おはこも不可能でしょう。


「えっげつないな」


 ──相も変わらず。

 異形のうち一体が、陽の方を向きます。顔と思しき部分には、滅法長い睫毛に縁取られた単眼がついていて。それが、半月状に妖しく歪みました。

 姉は、おっかない人です。年齢だけなら青年に差し掛かった今となってなお、陽は彼女を心底恐れています。声を掛けるなどもってのほか、彼女のいないところで名前を挙げることさえはばかられます。


 ただ──こうして生きている今を思えば。


 今日まで千影と愉快な仲間たちと共にあれたことを思えば。

 姉は、決しておっかないだけの人ではありませんでした。

「ごめんな。姉ちゃん」

 そこはありがとうだろ──と陽は一瞬思いましたが。本当に、一瞬だけでした。ありがとうという言葉は、どうもしっくりこなかったので。

 さて、これで使い魔が全て出払ったとしたら、陽という城にはもはや陽という城主がただ一人、無防備に鎮座するのみです。

 つまり、これより先は独り。本当の意味で、千影と二人きりになるわけです。


「なら、言ってくれたら良かったんだ。最初から」


 こんなものを創らなくたって、二人で話がしたいって。そのサインを自分は見逃していたのかもしれないけれど。


 僕は、君は、そういうところのある、どこにでもいる、時々すれ違いのある恋人同士。


「それで──いいじゃないか」

 ふと、空を見上げました。

 純黒が珊瑚の天蓋てんがいに覆われようとしていました。紛い物めいた月もまた、もうじきその半分を珊瑚に蝕まれようとしています。もはや何者をもかたどれない、宙を迷う烏合の衆と化したピースたちが、宝石となってどこまでも墜ちてゆきます。

 ああ、通りで。

 あの姉が、弟のピンチを助けるなどと可愛げのある所業だけで満たされようはずもなく。


 姉は、ただのです。


 自分とその恋人と図らずも顕現されてしまった神々の合作を無に還しに来たのです。

 そんな姉に向けて、弟から幽かな苦笑を添えて贈る言葉は一つ。


「姉ちゃんが弟の恋路に首突っ込むのはよくないと思うぞ」

 

 ──そうだろう? あや姉ちゃん。

 珊瑚の侵攻が、ぴたりと止みました。これは、優しさではなくきっと気紛れ。虹色の蹂躙がまたいつ再開するとも知れません。ただ、ちょっとばかし尻を叩かれたような心地に浸りながら。

 珊瑚を踏み越えて、そして、そして──陽はドアノブに手をかけました。

 鍵は、かかっていませんでした。

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