『あの日トイレに現れたのが埴安神の男女ペアではなくお前でよかった』

 男の手が引き抜かれます。頽れそうなところを踏み止まって、陽は胸元を確認しました。やはりと言うべきか、傷一つありませんでした。

「あんた──」

 誰なんだよと言い終えるより早く、男の姿はすっと掻き消えてしまいました。

 陽はシャツの胸元を摘んで、眉間にシワを寄せます。血ではない何か──水にしか見えない無色無臭の液体によって、丁度掌大のシミが形成されていました。よく見ると、さっきまで男が立っていた地面にもまた濡れた形跡があります。

 マジで何だったんだと困惑する最中──。

「──オイ」

 地味な痛みによって、陽は現実いまに引き戻されました。

「オイはこっちの台詞だよ。なにボーッとしてんの?」

 右肩を特等席にしていた狐が、陽の耳たぶから手を離します。陽は(別に大して痛くありませんでしたが成行き上)耳をさすりながら、彼女に尋ねました。

「ボーッとってどれくらいだ?」

「十秒くらいだと思うけど」

 十秒。あの出来事は、その程度に収まってしまうのか。

「あー、ちょっと人生について考えてた」

「──大丈夫?」

 狐の声色は、茶化すふうではなく、本当に身を案じているようで──。さらには王子とジジイまで安閑あんかんとしてはいられない、何だか保護者っぽい眼差しをこちらに注いでいたので。

 なるほど軽口のつもりだったが、状況から見てそうでもなかったなと陽は素直に反省致します。

「大丈夫だよ。ホントに。あと、多分先に進めるんじゃないかって思う」

 自信があるような、ないような。明瞭としない発言をよそに揺らぎ始める街並み。陽たちを除くあらゆる物の輪郭が、墨流しのようにほどけていって。

 おー空間転移だという狐の間延びしたリアクションから察するに、どうやら慌てふためく必要はないようです(単に成す術がないだけかもしれませんが)。これといって快・不快もなく、陽一行が到着したのは──。


 から自宅まで徒歩一五分といったところにある交差点。そのど真ん中でした。


「脱出──できたのか」

 あの空間的異常ループから。ゴールの近くまで移動したのは、関門を乗り越えた恩賞みたいなものでしょうか。

「皆で行けばマジで何とかなるもんだねー」

 右肩から下りて、きょろきょろと辺りを見回す狐に、陽はどう返事をしていいものやらわかりません。そっと隣にやって来た王子が、

「何があったのか訊いても」

 と気持ち抑えた声で言いました。

「──悪い。隠してるとかじゃなくてマジで何とも。強いて言えば、友だちのそっくりさんと話してきた」

左様さよか」

 そう相槌を打つや、王子は顎に拳を添えて何やら考えに耽ってしまいます。いや、今のどこに頷けるポイントがあったのか、陽には皆目見当もつきませんでしたが。

「にしてもさぁ、空間転移ショートカットしてくれるんならもうちょい近所で良くない?」

 狐の不満に僕もそう思ってるよと同意を示したところで、陽は足許を見ました。


 踝まである水面が、幽かに波打っていました。


 側溝や先の見えない曲がり角、開け放たれていた建物の出入り口や窓、ありとあらゆる死角から黒い波が溢れ出ます。ジクソーパズルのピース。道の左右から押し寄せたそれらは、ぶつかるや互いを捻り合わせ大きく隆起してゆきます。

「おいおい──」

 陽は、よろめきながら後退りました。

 三階建てのアパートに匹敵する全長を誇るそれは、まさしく巨人の手でした。手首から下は、地べたでうねるピースの群れへと繋がっています。あんなものに引っぱたかれたが最後、自分たちは一瞬で挽肉になってしまうでしょう。

 指の一本一本がぬるぬると動いて、そこから剥離したいくつものピースがヒト型を量産します。相変わらず彼女らに顔はありませんが、敵意むき出しの形相が目に浮かぶようです。


 これまでとは明らかに違う、外敵の排除を最優先事項としたモード。


 狐が、無言で陽の肩によじ登りました。

「──走る気ゼロかよ」

「えっ、あたしこの格好でこのスケールだよ? 歩幅的にチョー不利なんですけど?」

 サイズ感はともかく衣装は陽がチョイスした手前、強く出るに出られません。

「王子は?」

「どこぞにぶつかって三本脚に戻らない限りは」

 それなりに走れるだろう──と言外で伝えているのでしょう。

 千影の元へ辿り着く物理的最短ルートは、言うまでもなく正面突破。一旦退くにせよ、陽一行はまだ敵の本気の走力を知りません。それが仮に脅威に値しなかったところで、敵の出現パターンを見るにそもそも速いとか遅いとかそういう次元の話なの──という気も致します。

 走り出そうにもさてどっちへ行ったものかと考えあぐねる他ない、その折でした。

 ジジイが、ふわりと音もなく。

 陽たちの前に降り立ったのは。

「な──何やってんだジジイ!」

 陽の魂の叫びなどどこ吹く風、ジジイは顎髭を撫でつけながら、


「ふぅむ」


 と

 ──唸った?

「儂としたことが、忘れておったわ」

 落とすように呟かれた、その言の葉は。ベテラン洋画吹き替え声優さながらの渋味ある声色に彩られておりました。

 ジジイが両腕を広げ、大きく天を仰ぎます。直後、彼の全身が猛火に包まれました。樹齢ウン千年の御神木が如く巨大な火柱。それは、近くにいたヒト型たちを容赦なく呑み込んでいきます。

 熱を帯びた颶風ぐふうに、陽は堪らず顔を庇いました。身を低くし、今にも飛ばされそうになっている狐の背中へぐっと手を添えます。火柱が消え、天をも衝かんばかりに打ち上げられたヒト型たちが、消し炭と化してはらはらと降り注ぐ中、現れたのは。


「──鬼?」


 そう形容するのもごもっともな、げに恐ろしげなる形相。巨人の手に比肩する一面六臂の巨躯。そして、具足の如く纏った烈火。かつてジジイだったそれは、自らの躰に目をやってから、

「やはりか」

 と独り得心がいったような台詞を吐きます。

 目を剥いた狐がわーおと驚きの声を上げる傍ら、


「烏枢沙摩明王か」


 王子は、目を細めてそう言いました。

 ──うすさまみょうおう?

 狐は乱れた髪を手櫛で直しながら、仏様だよと些か簡潔過ぎるアンサーを寄越します。

「にしては──イカツ過ぎないか?」

 そう自分から尋ねておいて──案外そうでもないのかという結論にすぐ辿り着きます。実際、腕が複数ある辺りなんかは実に仏っぽいわけで。そもそも、強面の仏像を全く見たことがないのかと訊かれたら、そんなこともありません。

「明王だからな。仏は仏でも悪を滅する」

「──火属性なんだな。トイレの神様なのに」


「厳密には厠の神ではなく、厠の神だと考え得る神だからな。穢れを焼くという性質が、厠を守護するそれと結び付けやすかったのだろう」


 そう、こんな登場の仕方をしておいてアレですが、烏枢沙摩明王と厠神はイコールではありません。

 烏枢沙摩明王は、穢れを払う炎を操り、ときには糞を喰らいさえする(さらりと書きましたが中々にパンチのある能力です)といういかにも厠神っぽい、そう見なされてもおかしくはない特質を備えている──あくまで、そういう話にございます。

 つまり、ジジイが今この姿に成れているのは、彼の正体が実は烏枢沙摩明王だったんだよ──ということではなく、ここが陽と千影の作ったフリーダム空間だからこそ、ジジイは厠神と呼んで概ね差し支えない烏枢沙摩明王から力を拝借できているわけです。

 明王が軍配団扇ぐんばいうちわよろしくトイレブラシを振るいました。そんな大胆なフォルムチェンジしたなら装備も一新しろよ──とツッコミたいところですが、まあ格好つけ過ぎないところがジジイらしくもあり、この物語の最終話らしくもあります。そういう意味で、彼は空気読みのエキスパートなのやもしれません。

 炎の壁が明王を囲いました。それは全方位に拡散して、しかし器用に陽たちを焼くことはなく、巨人の手を退け、ヒト型たちを道の脇へと追いやります。


 さながら紅海を割るモーセの如し、千影のもとへ続く一本のロードが誕生しました。


 明王は、陽たちに燃えるせなを向けたまま、

けい」

 と命じます。肚の底に響く、まさしく神様然としたお声でした。イイ声過ぎて膀胱刺激されて尿意催しそう──と陽はマジで一瞬クッソどうでもいいことを思いましたが、緊張しているときほど頭の悪い想念が浮かぶのはままあること。無視をして、明王の立ち姿を見上げて──。


 歯を、食いしばりました。


「陽ちゃん」

 狐が軽く陽の耳を引っ張ります。目が合った王子は、静かに頷いて見せました。

 案ずるなと巨きな背が語ります。


「あって然るべき境界なき今、この世全ては儂の掌中しょうちゅう──果てのない厠のようなものよ。敗北はあり得ぬ」


 最高に頼もしい、最悪の喩えでした。

 陽は、狐の首根っこを掴みました。ぐえっという短くも可愛げのない苦鳴をよそに肩車──というより、狐を自らの頭部にしがみ付かせてから、彼女が落っこちない程度に頭を下げました。


「ありがとう。神様」


 明王は決して振り向きません。迎え討つべき敵を見据えたままです。

 しかし、確かに笑ったふうな気配があって──。

「なってない」

「は?」

 思ってもみなかった神の御言葉に、陽は顔を上げます。

「なってない。作法が。だから、やり直せよ。あとで」

 あとでなと念押ししつつ、明王は肩越しにちらりと陽たちを見下ろします。

 具体的にどこがと問われるとわかりません。単にそうだったら良いなというささやかな願望がそう見せただけなのかもしれません。ただ、どこか──。


 ジジイの面影がありました。


「ああ、あとでな」

 陽もまたそれを再会のまじないのように唱えて。スタートダッシュを切りました。

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