『あの日男は彼と彼女を護るために何を犠牲としたか』

 外に出ると、辺りは静寂に包まれていました。陽は足を止めて、ゆっくりと視線を巡らせます。静かだねぇ──という狐の声色が平素より固く聞こえたのは、決して気のせいなどではないでしょう。

 パズルのピースで造られた漆黒のヒト型たち。大学から複合商業施設に至るまで、ジジイと物陰に身を潜めつつ進む程度には、あちこちを彷徨ほうこうしていたはずなのですが──。

 一体全体どこに行ったというのでしょう。

 陽は、肩越しに振り向くと、

「どう──思う?」

 随分漠然とした問いを王子に投げかけます。

「何らかの意図があって撤退した──にしては"残滓"がなさ過ぎるな」

 ここで言う"残滓"とは、鬼神がそこにいた痕跡。されど足跡ほどに定かではない、かそけき残り香のようなものでございます。

「これは僕の経験則っていうか、千暁──千影の弟が鬼神と戦ったあとってこんな感じの空気なんだよ。"退治"っていうより"掃除"を済ませたあとみたいな。だから、これは滅茶苦茶こっちに都合のいい解釈なんだけど──」


 もしかしたら、喫茶店を脱出した千暁が先回りをして、ヒト型を一掃してくれたのではないか。


 流石に──言葉にすることははばかられました。あまりにもご都合展開が過ぎる。そう思えたからです。やっぱナイわと雑に話を打ち切って、正面に向き直った陽の視界に飛び込んできたのは。


 一〇メートルほど先で、棒のように直立する人の姿。


 暗い青地に灰色がかったフェザーを散りばめた、中々に攻めた柄のネクタイとスーツ。身体つきからして、恐らくはヒト科であり、健康的な成人男性であると思われます。

 ──はい、"断定"にやたらと苦しんでいるのは、頭部のあって然るべき箇所に立方体型のガラスが浮いているからです。中には、コンテンポラリーアートの一種でしょうか。何か動物の頭蓋めいたものが浸漬しんせきされております。

 それと目が合ったような感覚に襲われた途端──。

 陽は、全身を強張らせました。

 ただの人間や鬼神とは異なる、明らかに千暁や姉寄りの──力ある存在。

 男を視界に収めたまま、後退ろうとする陽の耳に王子の声が届きます。

「どうしたのだ? 父上」


 ──どうしたのだ?


 真っ正面にヤバそうなヤツがいるだろと声を荒げようとして、

「なにー? おしっこなら先済ませといてよー」

 右肩の狐が垂れたまっこと緊張感のない文句に、陽はいよいよ押し黙ります。

 まさか、眼前のこの男は。眼前のこの脅威は。

 自分の眼にしか映っていないのか。

 と、小突かれたような衝撃。目線を胸元に落としました。

「え」

 いつの間にか、間近に詰めていた男の腕が。

 手首まで隠れるほどに、胸板へめり込んでいました。

 陽は、徐に顔を上げます。

 得体の知れぬ液体の中、ガラス越しにこちらを見下ろすその頭蓋は──。

「──鳥?」

              ※

 陽は、大学の食堂にいました。

 とはいえ、また振り出しに戻されてしまった──というわけでもなさそうです。いつの間にやら着席していて、向かいにはトリが座っていました。彼ら以外、人の姿はありませんでした。

「何で──」

 こんなところにいるんだと、尋ねようとして。やっぱり止めました。どうせ目の前のトリは、鳥越琢也その人ではないのですから。

「逃げないんだね」

「──逃がしてくれる雰囲気でもないだろ」

 陽のごもっともな返事に、トリに扮した男は柔和な笑みで答えます。

 さて、そうとはわかっていても、せめていつでも距離を取れるよう立ち上がるくらいはしていて良さそうなものですが、何故か陽にその選択肢はありませんでした。ただ、何となく。悪いようにはならないだろうという、確信めいたものがありました。

「陽ちんの思ってる通りだよ。俺は鳥越琢也の形と声を借りているに過ぎない」

「何で」

 男は自身の胸に手を当てると、

「この方が話しやすくない?」

 けろりとした顔でそう言いました。

「──だからって、で呼ぶ必要はなくないか」

 陽ちんと。

「なるほど一理ある」

「一理どころか十理あるわ。あと気持ち喋り方似せるのも止めれ」

「えー、そんな意識してないけどなー。でも、そっか。似てるんだ喋り方」

 そっかそっか──と小さく頷きつつ、何やら自己完結する男。リアクションまでいちいちトリっぽいなと思う一方で、陽は彼の存在をすんなり受け入れている自分に内心首を捻ります。

 仮にも親友の姿をコピーされているというのに。不快感というか、抱いても何らおかしくない気味の悪さみたいなものは、ほぼ皆無でした。

 ふと、窓の外に目を向けます。いまひとつ時間帯が判然としません。抽象画じみた日差しは、かすみにけぶる朝のようで、心地よく気怠げな黄昏のようでもあります。

「無駄足だよ」

「え?」


「今の陽ちんじゃ、彼らと行ったって同じことだ。ちーちゃんの元には辿り着けない」


 つまり、あの奇天烈なループからは逃れられないと。

 にしても──ちーちゃん呼びなのか。

 ロールプレイ徹底してんなぁと舌を巻きつつ、陽は愉快な仲間たちとのやりとりを思い出します。とりあえず、皆で行けば何とかなるっしょ。狐の言葉を借りれば、まさに空気こそ良かったわけですが。

「あの流れで結局ムリなのかよ。恥ずかし過ぎんだろ」

「陽ちんの行く手を阻んでるのは、何もちーちゃんに対する思いだけじゃないってこと」

「──僕は、どうすればいい?」

 疑問が、自然と口を衝いて出ました。

「アッキーの言ってたこと、憶えてる? 感染することはないって話」

「──ああ」

 何故あの場にいなかったこの男が、それを知っているのか。引っかかりはすれど、言及しようとは思いませんでした。

「どう思ってる?」

「正直──鵜呑みにはしてない。でも、アイツを信じられないとか、そういうのじゃなくてさ。ただ、移らないなら移らないでじゃあ安心だっていうのも何かモヤモヤして。僕にできることはないのかなって」


 視える体質を得てしまった人々のために、これから視えるようになるかもしれない人々のために、何かできることはないのか。


 言語化して、素直に驚きました。自分の中にそんな想いがあるだなんて、思ってもみませんでしたから。

「陽ちんが負い目を感じているのは、何もちーちゃんに対してだけじゃない。これから出会うであろう全ての──視えるようになってしまった人たち。彼らに対して、何もできない自分に負い目を感じている。だから、あのループから抜け出せない。ちーちゃんともこの世界とも、今後どう関わっていくべきか、見えていないから。アッキーの話を鵜呑みにしてないなら、自分が感染源の一人かもしれないって不安も拭いされていないわけだし」

 陽は、天井に目を向けました。唇を尖らせて、息を吐き出しました。長く、ゆっくりと。

 千影が視えるようになってしまったのは、本当に自分のせいではないのでしょうか。過去自分と接したことがきっかけで、視えるようになった人間は一人もいないのでしょうか。あの日、千影と一緒にいることよりも千暁と話すことを選んだのは、彼の言う通り愚策だったのでしょうか。

 そもそも、あのとき。あのとき。あのとき。

 まずは行ってみよーよ。

 自ずと──口許が緩みました。


「やーめた」


 男が、僅かに目を瞠りました。すぐにニュートラルな表情──落ち着いた笑みへと戻ります。

「それで──いいの?」

「いーよ、それで。第一さ、無理じゃないか? 今ここで全部に答えを出せなんて」

 そもそも僕一人で出していいものなのかもわかんないしと言いながら、陽は頭を掻きます。


「僕には千影がいる。アイツらがいる。だから、皆で考えるよ」


「なーんか、いかにも陽ちんって感じだなぁ」

「いかにもトリっぽい感想ありがとよ。何ならアンタも一緒に考えてくれたっていいんだぞ? どうも僕の長所は、解決のために誰かをきちんと頼れることらしい」

 冗談半分本気半分。陽の提案が余程意外だったのか、男は面食らったような顔をして見せたあと、こう呟きました。


のトリがちょっと羨ましいな」


 心の声をそのまま、零したようなその感想は。

 しかし、陽には到底理解の及ばぬもので。

「こっちの?」

「ただの独り言だよ」

 そう言い切る男の瞳が、どこか寂し気に見えたのは気のせいでしょうか。

 陽は席を立ちます。これからどこへ向かえばいいのか、どうすればこの世界を出られるのか、一から全て指南されずとも何となくわかっていました。男に近付いて、その肩に手を置きました。


「もし、明日視えるようになってたらどうする?」


 するりと、思いがけない言葉が出ました。

 それはどう考えても、トリのそっくりさんではなく、本人に投げかけるべき問いであって。

 もし、視えるようになってしまったら、彼はそれでも親友でいてくれるでしょうか。何もできない、できなかった自分を恨みはしないでしょうか。何故そんな質問を投げてしまったのか、困惑する陽をよそに、男は。


「そりゃ、陽ちんに助けを求めるよ。こっち側じゃあ大先輩なんだから」


 呑気に──笑ってみせました。

 この男は、本当に鳥越琢也ではない誰かなのでしょうか。

「助けてくれるでしょ。陽ちんなら。だから、ちーちゃんのところ。早く行ってあげなね」

 陽はああと頷いて、食堂の外へ、"出口"へと繋がるドアを目指して歩き始めます。そのせなに、時間とらせちゃってゴメンねと男が謝りました。振り返ることなく、進むべき方向を見据えたまま、陽は去りゆく世界にこう言い残しました。

「そりゃあ、こっちの台詞だろ」

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