『あの日憑いたのがおとら狐ではなくお前で良かった』

 王子が斜め前を走り、狐は振り落とされまいと陽の頭に取りすがります。

 炎の壁の向こうで、いくつもの火柱が昇っていました。明王が、背後で何らかのアクションを起こしたのでしょう。それらは炎を纏った竜巻となって、辺りを蹂躙じゅうりん──燃えるヒト型たちを木の葉の如く舞い上げてゆきます。

 左右の壁は陽たちの頭上遥かで合流し、炎のトンネルを築きました。

 陽は、後方を確認します。来た道は炎によって塞がれていました。


 これで後戻りはできません。ジジイのもとに駆け付けることもできません。


 父上──と王子が声を上げました。

「聞こえていたのか? 厠神の声が」

 陽は、小刻みに頷きます。迂闊に口を開けば、熱気にむせ返りそうでした。

「つまり、この世界は──」

「その辺のルールさえ、もうどうでも良くなってるってことだね~」

 巫者シャーマンでもなければ人間に神の声を聴くことはできない。そんなルールでさえ。


「だから、ここが狸の縄張シマかどうかってことも、もう関係ないわけだ」


 狐の物言いに、王子が何かを察したような表情を垣間見せた直後──。

 左右の壁が揺らぎました。炎に包まれた黒い塊が、陽一行の行く手を阻むように雪崩れ込んできました。ヒト型たち──というより集合したパズルのピースそのもの。どうやら物量に物を言わせて壁を突破したようです。

 とはいえ、もはや気息奄々きそくえんえんであることに変わりなし。肝心のロードに踏み込んで来たときにはもう、不格好なヒトの型を形成するのが関の山。陽一行に襲い掛かる余力など、残されてはいません。

 が、それはあくまでこの浄化の炎が絶えなければの話。

 我らが烏枢沙摩明王──ジジイが、挫かれなければの話です。

 狐と王子が、束の間目を合わせました。

「任せたよ。王子ちゃん」

「──ああ、任された」

 狐が後方に身を躍らせます。わざわざ月面宙返りムーンサルトを決めたのは、単に格好つけたかったのもあるとして、一番は戦地に赴く自らへの鼓舞だったのかもしれません。


 狐はスカートを押さえながら、慎ましやかな花の如く地に降り立ちました。


 狐の初登場は第四話ですが、正直なところ全編通して彼女の最も無心で淑やかな瞬間に、陽が目を奪われた刹那──。

 水柱が上がります。何かが目の前に落ちた──と判ったときにはもう、陽は黒い飛沫を上げながら仰向けにすっ転んでいました。衝撃に吹っ飛ばされたというより、驚きで足がもつれたのです。何の訓練も受けていない人間が、咄嗟の受け身など取れようはずもなく。躰に鞭打って上体を起こした陽の目に、飛び込んで来たのは──。

 ヒト型たちとサーベル片手に交戦する王子の勇姿。

 その抜き身を何処いずこより出したかはさておき、問題はヒト型です。所々炭化しているとはいえ、何故にいるのでしょう。上を見ました。頭上の炎の勢いは、左右の壁に比べてやや弱々しく感じられます。恐らくは──そこから突破したのでしょう。化け物屋敷の演出よろしく黒い手足がちらほらと覗いているところから察するに、尚も試みは続いているようです。

「そんなのアリか──」

 陽が、そう口にした直後でした。

 天井を破って落ちて来る火球。火達磨と化したピースの集合体。下敷きになれば全身黒焦げ絶命必至の殺意の塊。突如たる脅威の出現に、陽はもはや呆然とする他なくて──。


 瞬間、視界から塊が消えました。


 一筋の光輝こうきが、それを横殴りに吹っ飛ばしたのです。撃墜された末、白い焔を上げながら崩れゆく塊。間髪入れず飛来したそれは、王子を取り囲まんとしていたヒト型たちの胸部を一斉に貫きます。

 陽は立ち上がって、光の出所と思しき方を見ました。


 白い巫女が和弓を構えて立っていました。


 白い狐耳に白髪はくはつのツインテール。八分の一ではなく一分の一スケールの躰を包む巫女装束は、何故か袴ではなくミニスカート。脚はおろか、へそから肩に至るまで気前よく露出しております。背後ではボリューミーな毛並みの尻尾が揺れ、全身はほの白く煌めくオーラに覆われていました。


 ──これがもし神使の正式な衣装だとおっしゃるのであれば、日本のサブカルチャーに些か毒され過ぎではないでしょうか。稲荷神様。


「よーやく、それっぽい格好お披露目できたね」

 そう言って、狐は平素と変わらぬ茶目っ気のある笑みを見せます。

 すかさず反転、弓弦ゆづるを引きました。と言っても、そこには一本の矢もつがえられてはおりません。そもそも、弦すら実体のない、単なる一条の輝きのように見受けられます。この辺りは、実物の弦を──より正確には弦のを狐が忌み嫌うという言い伝えに基づいているのやもしれませんが、それはともかくとして。

 相対するは、浄火に焼かれてなお喰らい付かんとする、黒い軍勢。

 リリース。弦が不可視の矢を真っ直ぐに押し出して──虚空より現れた一筋の光輝は。対象との距離を縮める過程で分裂。いずれもが変則的な軌道を描きながら、四方八方より"的"を射て、爆発四散させます。


 もはや指矢さしやの名手も真っ青とかそういう次元ではない、人外ならでは絶技。


 まさしく神術の類でした。

 狐は、練習サボってたわりにはイケるじゃんと自身にしか聞き取れないほどの声量で呟いてから、

「さあ、行って! 陽ちゃん!」

 と声を高らかにしました。陽ではなく、迎え討つべき敵を見据えたまま。

 有能。ジジイと同様、あまりにも有能です。だからこそ、陽は痛感せざるを得ません。ここに自分が残ったところで、できることは何もない。

 拳を固く握りました。こんなことを訊いている場合じゃないだろ。そう、頭では解っているのに。

「狐ぇ!」

 肚の底から、力いっぱい声を出します。狐の耳がピンと立ちました。


「後悔──してないか?」


 この時代に、陽のもとに喚ばれてしまって。

 その問いは、大して張った声でもないのに、何故だかすんなり狐の耳に届いて。

 狐が、肩越しに振り向きました。滅茶苦茶不服そうな顔でした。たとえるなら、親に大嫌いなピーマンを食べるよう強いられたときの五歳児みたいでした。


「さいっあく。勝手にフラグ立てるの止めてくんない? こっちは──生き残る気満々だっつーの」


 狐の漢前な笑みに、陽もまた笑みで応えて──。

 王子と顔を見合わせました。互いに力強く頷きます。意思は、固まりました。

 目的地に向かって駆ける陽と王子。できることなら、見えなくなるまで見つめていたいその背中から、狐は颯爽と視線を切ります。

 蠕動ぜんどうするパズルのピース。集合が渦を巻いて、模るは宙に浮かぶ巨人の手。直前に見たそれと比べれば二回りは小さい有情サイズですが、それでも──デコピン一発で成人男性を二〇メートル前後はぶっ飛ばせそうな図体を誇っています。

 胸中にて、いやいやその形態あたし相手でもやるんかいとツッコミを入れつつ、狐は──頬を抓りました。


 どうして、笑っているのでしょう。


 久々に全力で戦える喜びを噛み締めているとか、そんな古き良き少年漫画のかたき役じみた思想に由来するそれでないことはわかります。ただ、強いて挙げるとするならば──。

 この世界は陽と千影の"合作"です。二人で喚び出した屋敷神たちによる創造物です。屋敷神とは地所の神であり、稲荷を祀る土地も少なくありません。むしろ、多いと断言して良いでしょう。

 狐は、これまで神の居場所は少なくなったと思っていました。かつて日本のどこにでも存在した神が、時代とともに社や祠へ挙句、打ち捨てられ、忘れ去られ。神の持つ力は不可逆的に衰退しつつあるのだと、そう思い込んでいました。

 が、今対峙しているこれは。展開しているこの異界ときたら。


 笑ってしまうくらい全力です。


 全力で、自分たち異分子を叩き潰そうとしています。居場所がなくなったとしても、力が衰えてしまったとしても、人々の心から消え失せたとしても。

 それでも、自分たちは。神はのだと。力を合わせれば、これくらいのことは朝飯前なのだと。そう、主張しているように思えてならないのです──。

 狐は、ばしばしと頬を叩きました。らしくない想念を頭の外に追い出しました。

「あっぶな。あたしがフラグ立ててどーすんの」

 巨人のビンタを大きく後方に跳んで回避します。空を裂く音でわかる、掠めただけで部位欠損は免れない威力。続け様、未だ宙空へいる狐目がけて迫り来るゲンコツ。前言撤回。強敵と戦える喜びとやら──なくはないかもしれません。

 弓弦を引きました。

 そこには、彼女にしか視えない星の数ほどの矢がすでに番えられております。


「正一位稲荷大・大・大明神の使い! ナメてんじゃねーぞっ!!」


 放たれたそれは、されど千々に分かれることなく。

 光輝が像を結んだ、一匹の凛々しき流星アマキツネと成りて。

 巨人の拳と真っ向からぶつかりあいました。

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