最終話

『僕とジジイと時々(どころではない)ヒト型』

 トイレ掃除を終えた陽の目前に、見覚えのあるジジイが浮いていました。右手にトイレットペーパー、左手にトイレブラシを持ち、どこか威厳ある面持ちで彼を見下ろしていました。腰から下は、浮世絵の幽霊よろしく足先へ向かうにつれて朦朧としております。

 陽は、目を疑いました。同様の"儀礼"を以てして、いつかこの結果に辿り着けるかもしれない──その程度の希薄な望みでしたが。まさか初手で引き当てることができようとは。

 ジジイは両手のトイレグッズを見て、眉間にシワを刻みます。躊躇なく、それらをたもとに収納しました。そんな軽々しく手放すならはなから持って現れるんじゃねぇよとツッコミたいのは山々マウンテンでしたが、そこは──窺い知れぬ事情があるのやもしれません。

 両手にトイレグッズを持って登場した方が、んだ側も「噫、厠の神様だなぁ」と一目で判別できるわけでして。もしかしたら、そういう親切心から持って現れるよう心がけているのかもしれません。

 ジジイが手を上げました。

 陽は、単なる挨拶かと思い悩んだ挙句、自らも挙手をします。

 両雄しばし見つめ合いました。手を上げたままのジジイが──怪訝そうに目を細めます。否、そんな目をしたいのはこっちだぞと思った刹那、陽は──気付きました。ジジイの要望に。多分、

「──したいか? それ」

 ジジイが不敵な笑みを見せます。彼なりの肯定の意なのでしょう。ただ、陽とて本音を言えば悪い気はしません。反撃の狼煙──という言葉がこの場合、合致するのかはわかりかねますが。


「よろしくな。神様」


 千影救出へ向けて、一歩。前へ進めたことは、事実でしょう。

 陽とジジイは、ハイタッチを交わしました。

               ※

 鬼神を感得かんとくする特異体質持ちと厠神が再会の喜びを分かち合う、一〇分ほど前のこと──。

 現世の光をあますところなく喰らう純黒に支配された空の下、陽は大学構内のベンチに座っていました。より詳細に言えば、ベンチの上に胡坐をかいて、粘り気の少ない乾留液タールのような液体に沈んだ石畳を見つめておりました。

 液体の出所は、地面としか言いようがありません。側溝から溢れ出たわけでもなく、突如地面から滲み出し、湧き上がるや──あくまで陽の把握し得る限り、町全域を瞬く間に浸水させてしまいました。

 とはいえ、濡れる心配はありません。触れれば波打ち、滴も跳ねますが、あくまでそう見えるだけ──触っているという感覚さえありません。それでも胡坐をかいて両足を避難させているのは、まあメンタル的な側面が強いです。不快感がないとはいえ、見た目にはどす黒い液体。浸って気分の良いものではありませんし、全くの無害とも限りません。

 構内に、陽は独りでした。

 偶々人気のないところにいるわけではありません。本当に彼以外──恐らくは町の外をも含めて、この世界には誰もいないのです。いるとすればそれは、生きているというよりただ動いている、かおを持たないヒト型だけ。パズルのピースで造られた永遠のジェーン・ドゥたち。

 意外にも、ヒト型たちが襲い掛かって来ることはありませんでした。認識できていないのか、傍を通ったところで、何ら反応を見せません。躰に施された姉の術式が何らかの効果を発揮しているのでしょうか。それとも。


 この世界を展開しているのが、千影だからでしょうか。


 陽だけは、傷付けまいとしているのでしょうか。

「なら、せめて──家には帰してくれよ」

 でなきゃ、話もできないだろ。


 陽がこんなところで途方に暮れているのには訳があります。

 彼は現在に至るまで何十回と自宅を目指して走ったのですが、目的地まで大凡一キロメートル圏内に入ると、途端に妙ちきりんな場所へ迷い込んでしまうのです。

 やたらと多い公衆便所、街灯よろしく等間隔に並ぶバスタブ、乱立する朱塗りの鳥居、そして言葉の通じない仏頂面のジジイと三本脚のカエルが(度々肩パンをしあいながら)売るフランクフルトの屋台。

 ここ数日の集大成もといごった煮のような景観に、目を回しながら歩いているうち、大学の近所に──"振り出し"に戻されてしまうのです。

 いっそ自宅から遠ざかってみてはどうかと試してみましたが、全く同様の現象に見舞われただけでした。

 家に帰る術はなく、携帯電話も当然のように圏外、外に助けを求めることも千影の安否を確かめることも叶いません。

 それでも、この世界が保たれているということは──。


「無事では、いてくれてるんだよな」


 とりあえず足を運んだ大学は、もぬけの殻でした。平日であることを踏まえれば、あのヒト型たちでごった返していてもおかしくはないはずなのですが──。

 もしかすると、鬼神はともかくとしてヒトがパズルのピースと化したのは単なる異界化の"演出"であって、本当にわけではないのかもしれません。真相はどうあれ、そう考えると幾分気持ちが和らぎました。

「結構冷静じゃん」

 自らをそう評したところで、何か妙案が降ってくるわけでもなく。


 ──他人に頼み事ができるところです。


 千影は、それを陽の長所として挙げました。

 今となっては、その言葉そのものに嘲笑われているかのようです。

「結局、その他人がいなけりゃどうしようもないんだよな」

 陽は渋々両足を浸すと、トイレに向かって歩き始めます。いかにも時間という概念が無さそうな世界。だからこそ、この手の空間じゃ生理現象の類はないのがセオリーだろうと勝手に思い込んでいましたが──。

 全く以て、そんなことはありませんでした。幾度となくループをひた走った両足は熱くて怠いし、喉も乾くし、この通り尿意だって健在です。

 そう、尿意。尿意と言えばトイレであり、あのジジイ──言語的コミュニケーションが不可能とはいえ、せめて喚ぶことさえできれば。


 何かが、変わるかもしれないというのに。


 陽は、歩みを止めました。

 あのジジイが喚起された原因は、自身がトイレ掃除を怠った、言い換えればトイレに対する感謝の念を忘れてしまっていたからです。が、本当にそれだけなのでしょうか。それ以外に、あのジジイを喚び出すきっかけはないのでしょうか。

 この奇天烈な世界で、ああしなければ喚べない、こうしなければ喚起できないなどという道理が今さらまかり通るのでしょうか。そんな法則に、自らの異能は縛られているのでしょうか。

 狐が描かれただけのグラスから、神の使いをも喚び出せるこの身なら──。

 陽は駆け出します。唐突に尿意が切迫したわけではありません。トイレに飛び込むや、掃除用具入れの戸に手をかけます。何故か鍵はかかっていませんでした。トイレブラシを持ち出し、和式便器のある個室に入って──。


 一心不乱に便器を磨き始めました。


 ヒロインが創ったと思しき異界に囚われた主人公のやることがトイレ掃除(しかもコレ最終話)──。いや全くこんな作品をここまでお読みいただきまして誠にありがとうございます。ただ、ここでページ閉じてしまいますと、本当にトイレに始まりトイレに終わるだけの物語になってしまうので、できることなら最後までお付き合いいただければいと嬉しゅうございます。

 健闘の末、便器が生まれたて──とまではいかずとも、ある程度アンチエイジングに成功した時点で、陽はそっと床にブラシを置きました。顔をゆっくりと上げました。

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