『あの日彼女は彼の願いをどう解釈したか』・急(玖)

 陽の案内で、二人は喫茶店に入りました。来たことあるの──という千暁の問いに、陽はしばし考えてこれが三回目だと答えます。現実で一回、そして千影のいない世界で一回。

 陽は、ふとカウンターに目を向けて、ぎっと下唇を噛みました。

 ──しまった。

 千暁に訊きたいこと、自分の特異体質に関すること、何より千影の今後に関すること。兎角相談の中身に脳のリソースを割き過ぎていたせいで、カウンターの女の存在がすっかり抜け落ちていました。

 振り向いた陽が、

「千暁、ここは──」

 と声を掛けようとしたときにはもう、千暁は彼の横を抜けて、二名ですとウェイターに伝えているところでした。ウェイターは営業スマイルとはちょっと違った感じのスマイルを浮かべながら、こちらのテーブル席へどうぞと千暁を案内します。

 千影と瓜二つの美貌に、お世辞にも彼女にあるとは言い難い外向性と人当たりの良さ。加えて、比較的一般ウケしやすいファッションセンス。もしかしなくても、コイツ最強なのでは──と密かに舌を巻きつつ、陽は彼の後について行きます。


 二人が着いたのは、奇しくもあの世界でトリと座ったテーブル席でした。


 案の定、カウンターの女はこちらを──正確には千暁を見つめています。陽に向けていた眼差しとは、明らかに類が違いました。威嚇する獣の眼光。ただし袋小路を背にしているかのような──そんな弱々しさを感じます。

「あっちから仕掛けて来ない限りは何もしないよ。──何頼む?」

 メニュー表を見ながら、千暁は陽に尋ねます。

「マンデリン以外。苦くないコーヒーってどれだ?」

 千暁が、思い切り眉をひそめました。大方何だその頭も舌も悪そうな質問は──とでも思っているのでしょう。

「──砂糖入れたら?」

「いいから、どれだよ」

「うーわ何この男面倒臭っ。キリマンジャロとかイイんじゃなーい?」

 じゃあそれでと陽は即決します。こういう他人を信じやすいところが、善くも悪くも周りが彼を放っておけない理由の一つなのかもしれません。

 二人ともが注文を済ませたところで、陽は話を切り出しました。


「千影は──視えてると思うか」


 自分でも、語尾が幽かに震えているのがわかりました。

 千暁は一瞬目を瞠ったあと、軽く肩を竦めて見せます。

「どうして、そんなふうに思うの?」

「僕は──今回のアレは千影がんだんじゃないかって思ってる」

 千暁はお冷の入ったコップの縁をなぞりながら、

「呼び出しくらったもんだから、僕はてっきり陽くんが僕のせいだーって勘違いしてるのかと」

 そう思ってたよ──とどこか物憂げに少し笑います。

「やっぱり、もう視えてるんだな」

「だろうねー。それに──証拠があるわけじゃないけど、僕も塗り壁を喚起したのは十中八九千影ちゃんだと思ってる」


 ──塗り壁?


「──あの、はんぺんみたいな?」

「多分陽くんの持つ情報量だったら、そういうキャラとして現れてたんだろうね。けど、千影ちゃんの場合は現象としての塗り壁に着目してしまった」

 キャラではなく現象──陽の眉間にみるみるシワが刻まれてゆきます。

 胸中を察した千暁は、こう続けました。

「塗り壁って言ったって、昔の日本にマジであんな生き物が居たワケないでしょ? 時間帯とか、地形とか、体験者の精神状態とか、色んな要因が合致して特別迷いやすい"スポット"があった。そこが、ある種の警告として塗り壁って命名されただけだよ。初めからキャラだったワケじゃない。で、当然ながら千影ちゃんはそういうことを知ってた。だから、塗り壁を──無意識とはいえ召喚して、陽くんを迷いやすい"スポット"に閉じ込めたんだ。自分のいない世界にね」

「無意識とはいえ──か」

 陽は、噛み締めるように呟きました。

「好きでやったと思ってるの?」

「いいや、そうじゃない。見た感じ、千影には自分が喚起したっていう自覚もないだろう。ただ、何か──伝えたい意図はあったんだと思う」

 しばし天井を仰ぎ見ました。それから項垂れるように頭を下げて、再び千暁を見据えました。

「あの世界に連れて行かれる前のこと憶えてる?」

 千暁の質問にやや間を置いてから、陽は静かに頷きます。

「朝──起きたら千影がいなかった。何の連絡もなしにいなくなるやつじゃない。だから、とりあえず家を出ようとして、ドアが開かないことに気付いた。全くびくともしなくて。そのとき、やっと自分がまた何かの異変に巻き込まれてるんだって気付いた。携帯は使えねぇし、隣の部屋や窓の外に誰かいる気配もしない。椅子を掴んで窓を割ろうとしたとこで、こうブツンとさ。途切れた。意識のスイッチを僕じゃない誰かに押されてオフになった、そんな感じだった。で、目が醒めたら──」


 ──と陽は回想を締めくくりました。


 ウェイターがコーヒーを運んで来ました。陽は、それを一口飲んで、

 ──苦酸っぱ。

 と唇の動きだけで感想を述べました。

 陽くんDNAレベルでコーヒー向いてないよ──と笑って、千暁は砂糖もミルクも入れていないコーヒーを啜ります。両手でカップを包むような、まさしく女子の持ち方でした。

「意図があったっていうのはその通りだと思うよ。実際、中身はバグだらけだったわけだし。千影ちゃんの中では、陽くんに忘れられたい思いと忘れてほしくない思いがせめぎ合ってた」

「バグっていうのは、あれか? トリが色々憶えていたり」

「同棲を匂わせるアイテムがちょこちょこ残ってたりね。ねぇ、陽くん。正直に答えてほしいんだけど、あの世界にいて困った?」

 陽は、小さく息を飲みました。目線を手元に落としたまま、言葉を紡ぎます。

「何かが足りないって感覚は、心のどこかにあった。ただ──」

 困りはしなかった。むしろ──。

「便利だったでしょ? 隣に僕が住んでたら、大抵の珍事は解決できる。トリくんといるときはあの愉快な仲間たちとお話しするのに気を遣う必要もない。立ち回りがうまいからね」


 ──都合良いくらい揃ってるよね。人材が。


 噫、全くその通りだよ。

「確かにあれはあれで悪くなかった。けど──けど、僕には」

 千影がいないと──。

「はい、ストップ」

 知ってか知らでか、どんどん前のめりになりつつあった陽の眼前に、千暁が掌を突き付けます。

「それ、言う相手間違えてるでしょ」

 大人しく上体を引っ込めました。少し、冷静さを取り戻せた気がしました。


「要するに千影ちゃんは陽くんが好き過ぎるんだよ。好き過ぎるから陽くんの役に立てない自分が憎くて憎くて堪らない。いっそ陽くんにフラれてしまえばとさえ思ってる。でも、絶対に別れたくはない。何せ大好きだからね」


 言うが早いか、千暁はコーヒーを呷りました。まるで自分が口にした捉えようによってはポエティックな台詞の甘ったるさを、コーヒーの苦味で塗り潰そうとしているかのようでした。

「流石に似た者カップル過ぎない? もしかして、面倒臭い者同士だから慈善の精神で付き合ってんの?」

「うっせーな。まだ若ぇ恋人同士もっとすれ違いさせろや。けど、役に立ってないだなんて。第一損得だけで一緒にいるわけじゃ──」

「だから、そういうこと僕に言うなって!」

 千影ちゃんに直接言え──という一心を込めた蹴りが陽の脛を直撃します。

 普段の陽なら大袈裟に痛がった末、憤慨していたのでしょうが、

「だ、だよな」

 今回に限っては、弱々しく納得の意を表明するだけでした。

 しばらく沈黙が続きます。

 陽は、コーヒーで唇を湿らせるに止めてから、こう言いました。


「千影が視えるようになったのは、僕が移したからなのか?」


 自分と一緒にいたことで、一つ屋根の下で過ごし、睦み合ったことで。

 千影に感染したのではないか。

 そもそも──これはそういうものなのでしょうか。この躰との付き合いは決して短くなく、こんな疑問が頭を過ぎったのは何もこれが初めてではありません。ただ、これまで誰かに質問することだけは避けてきました。言語化して、向き合うことから逃げてきました。

「──そこで僕がイエスって言ったら、陽くん明日からどんな顔して生きてくのさ」

 千影やトリに、これまでお世話になった人たち、そうでなくとも自身と何らかの関わりを持ってしまった人たちに、どんな顔をすればいいのか。

 千暁が、長く息を吐きました。

「移らないよ。僕も一時期似たようなことで悩んたけど、千影ちゃんが視えるようになったのは陽くんのせいじゃない」

「じゃあ、何の前触れもないって言うのか? 何かきっかけが──」

 あるんじゃないのか。

 続けるはずだった言葉は、千暁の冷然な光を湛えた瞳に遮られます。


「あのね。事態は陽くんが思ってるより単純で、壮大で、ずっと救いようがないんだよ」


 ──救いようがない?

 聞き捨てならない不穏な響きに、陽が言及しようとした、そのときでした。

 悲鳴が、耳をつんざきました。秘境に棲息する珍獣みたいな声でした。

 声の出所は、髪を振り乱して苦しむカウンターの女。全身からぽろぽろと黒い何かが剥離しています。ジクソーパズルのピースでした。マスターも、ウェイターも、店内にいた他の客からも。悶え苦しむ様子こそありませんが、ピースが剥がれ落ちて行きます。彼らは次第に原形を失い、ついには堆く積もるピースの山となり果てました。

「正直、このタイミングで僕に会いに来ちゃったのは愚策だったかもねー」

 陽は、千暁の方を見ました。それが、言葉を失った彼にできる精一杯の挙動でした。それは、どういう──。

「千影ちゃんと晩ご飯の買い物に行ってた方が、選択肢としてまだマシだったよねってこと」

 突如、ピースの山が隆起しました。お互いを組み合わせ、瞬く間にヒト型を構築してゆきます。顔のあるべき箇所にピースはなく、ただパズルの額縁で飾られた向こう側の景色が覗くのみ。体格は小柄で、女性を彷彿とさせるものでした。──見覚えのあるシルエットでした。

 ヒト型たちが、じりじりと近付いて来ます。

 マズくないか──と陽は目線で千暁に訴えました。まあマズいんじゃないと千暁もまた目線で答えて、十指を巧みに操ります。

 まるで視えないルービックキューブを攻略しているかのような動き。

 と、ヒト型たちの躰が大きく歪み始めました。上半身が一八〇度捻れる個体、埋没した頭部がから出現しオブジェと化す個体、近くにいた個体と足が結合して転倒する個体、異様に伸びた片腕で自らの全身を締め上げたのち横たわる個体──まともな機動力を持ったヒト型が一体残らずいなくなるまで、三秒とかかりませんでした。

 千暁は何喰わぬ顔で、フィンガータットの準備運動ウォーミングアップよろしく十指を波打たせております。

「そういえば、強かったよな。お前」

「弱かったら流石にもうちょっと焦ってるよ。けど、まーた召喚しちゃったみたいだね千影ちゃん。しかも前とは違った意味でややこしそう」

 行動不能に陥ったヒト型たちは、一度自らを分解させます。それから、互いを磁石のように引き寄せ合い、組み合わせて──先ほどと同じ少女のシルエットを再構築してゆきます。

「ねえ、陽くん。お姉ちゃんのこと幸せにしたいって思ってる?」

 あまりにも眼前の現実とかけ離れた質問に、陽の思考が一瞬停止します。

「それ、今」

 ──答えなくちゃいけないのか?

「どうなの? 幸せにできる、してみせるって僕に約束できる?」

 迫り来るヒト型たちを見据えたまま、陽は。


「ああ、義兄にいちゃんに任せろ」


 幽かに上擦った声でそう誓いました。

 千暁はくすりと笑みを零したあと、心底嬉しそうな声音でこう言います。


「バッカじゃねぇの」


 ぴんと立てた千暁の人差し指──その先端が輝きを放ちます。不思議と眩しさは感じず、目を逸らそうとも思いませんでした。ただ、温かくも冷たくもない光に呑まれて。気が付いたときには、もう。

「えっ」

 喫茶店の外にいました。店の面する石畳みの道に、陽は突っ立っていました。

 喫茶店の大きな窓越しに見えるのは、未だ席に腰掛けて、こっちに小さく手なんか振って見せる千暁の姿。その控えめな笑みは、何だかいつもの彼らしくなくて──。

 ちょっとだけ千影の笑い方に似ていました。

「千暁!」

 すがるように両手を伸ばします。窓に、手を着いたつもりでした。

 眼前にあるのは、触れているのは、煉瓦の壁。喫茶店の外壁。横を見ればドアも消えて無くなっていて、出入口はどこにもありませんでした。

 陽は、ふらふらと後退ってから、躰ごと振り返ります。

 日中の明るさはそのままに、空の色だけが夜を迎えていました。否、夜という単語で括れるほど、それは天然の色調にあらず。まさに純黒。星の瞬き一つ赦さない、天鵞絨ビロードのような空でした。

 パズルのピースで造られたヒト型たちは、関節部分の錆びついた、からくり人形じみた挙動で街中を彷徨ほうこうしています。単なる通行人だったか、それともカウンターの女同様一部にのみ視える"何か"だったか、それを特定することはもはや叶いません。

 折れそうな膝を何とか奮い立たせ、空を見上げます。

 自然と、乾いた笑みが口元に浮かびました。

「一体、何を喚んだらこうなるんだよ」

 千影──。


 ──早く帰って来てくださいね。


 折り紙のような三日月が、昏い空に寂しく張り付いていました。

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