『僕と千暁とトリと時々──ところできょう晩なに食う?』・参
「で、
「うん。何で──二つあるんだろうね」
トリは、すでに陽の言及したいポイントを押さえているようでした。
そう、烏天狗の赤子を模した箸置きは、黒と紺の色違いで二つ存在するのです。
「変だろ? それに、そもそも僕の土産に箸置きってチョイスも変じゃないか?」
「まあ、大体割り箸使うもんね。陽ちんってコンビニメインの食生活だし」
ボケてたのかなぁと言いながら後頭部を掻くトリ。陽は伏し目がちに、いや──と否定の言葉を口にします。
「実のところ、僕はトリが正しいんじゃないかと思っている」
「──どういうこと?」
「ここ最近おかしなことが家で起こってるんだ。──いや、今さら何言ってんだコイツみたいな顔すんな。するのは、まあ、わかるけども。これまでとは系統が違うんだよ。たとえば、僕一人にしては食器の数が多かったり、買った憶えのない詰め替えがあったり。はっきり誰かがいたって痕跡はないんだ。歯ブラシが一本多いとか、そういう露骨なのは。ただ、匂わせる感じのものが何個かあるっていうか」
「陽ちん──」
トリは、徐に目を細めました。
「大丈夫? 最近クローゼットちゃんと掃除した? 冷蔵庫の買い置きの減りとか早かったりしない? コンセントタップの数増えたりしてない?」
「──そういう路線に持っていきたくなる気持ちはわかるけど、まーもうちょっと続きを聴け」
陽は、天井を仰ぎました。取り立てて痒くもない頬を掻いたあと、酷く言いづらそうにこう言いました。
「僕は──自分が誰かを忘れてるんじゃないかって思ってる。本当は一緒に住んでた誰かがいて。だけど、何かとんでもなくおかしなことが起こって忘れてしまった。ただ、この箸置きみたく地味に証拠が残ってるのは、気付いてほしいんじゃないかって」
居たことを思い出してほしいんじゃないかって──。
陽の前にそっとコーヒーが置かれました。ウェイターがテーブルを離れたところで、陽はそれを一口啜って、
「にっが」
と低い声で呟きます。そりゃマンデリンは苦いでしょとこともなげに言うトリをちらと睨んだあと、カウンターを一瞥しました。女は変わらず、首をかくんかくんさせておりました。
「つまり、陽ちんには同居人がいたけど、何らかの超自然的アクシデントがあって存在を忘れてしまった。加えて、俺も同居人さんのことは憶えていないと」
「──信じられないよな」
「そりゃあ、そう言いたいところだけど」
ややあって、陽ちんだからなーと付け足して、トリはコーヒーを口にします。はて啜っているのは同じ液体のはずなのですが──悔しいかな、ただそれだけの所作でもそこそこ絵になる男です。
トリこと鳥越琢也に鬼神は視えません。が、陽と日々を送る中で、これまでに幾度か彼らの気配めいたものを感じ取ってはおります。その身をもって、彼らの脅威をそれなりに理解してはおります。
だからこそ、陽の告白を
「陽ちんの言ってることが事実だとしたら、忘れてるのは俺だけじゃない」
「ああ、多分誰も憶えていないと思う」
一体誰と同居していたのか、恐らくは世界規模で人ひとりの存在が抹消されているのです。
「アッキーにはもう相談した?」
「千暁には言ったよ。で、脳内彼女でしょ気持ちワルって一蹴された」
「ええっ──いや、でも妥当なリアクションなのか。なら、
姉ちゃんか──と言の葉そのものを口の中で噛み締めるようにして、陽はテーブルに両肘を着きます。組んだ手に額を乗せた、いかにも熟考しているふうなポージングです。程なくして、心臓の辺りを鷲掴みにしながら、
「姉ちゃんなぁ──」
と苦悶の表情で吐露しました。
「わかったよ、もう言わない。言わないから。でも、そっか。気付いてほしいか。確かに、記憶や記録その他諸々を改変できるスーパーパワーの持ち主が申し訳ない程度の痕跡を残しているっていうのなら、そうなのかもね」
気付いてほしいから、痕跡を残した。
トリの口によっていざ言葉にされると、ふと別の考えが浮かんでしまい、陽はつい唸りを漏らしてしまいます。
「どうしたの?」
「いや、本当に気付いてほしいんだよなって」
「──言い出したのは陽ちんじゃん」
「そう──なんだけどさ」
気付いてほしいからではなく、もしかしたら。
忘れないでいてほしいだけなのではないか。
思い出のままそっとしておいてほしい、暗にそう伝えたいのではないか。
「まっ、憶えちゃってる以上何もしないわけにはいかないでしょ。俺にできることがあれば協力するよ」
事が抽象的且つ壮大過ぎて、何から手をつけたものやらといった感じですが、トリの笑顔を前に陽の心境は幾分晴れやかでした。助かるよと言って、箸置きをバッグに仕舞いました。
「とはいえ、絶対俺らだけで解決できる気しないよねぇ、コレ」
「だな。とりあえず帰ったらもう一回千暁に話してみる。現状、アイツぐらいしか頼る先が思いつかん」
「帰ったら?」
トリが、ゆっくりと首を捻りました。
「ねぇ、アッキーって陽ちんのお隣に住んでたっけ」
「は?」
そのときでした。
ぱちりと。
陽の頭の中に、得体の知れない音が幽かに響いたのは。
一体何の音だったのでしょう。そんな疑問をそそくさと片隅に追いやってから、陽はこう返答しました。
「何言ってんだよ。ずっと前からそうだったろ」
「だ、だよねー。お隣さんだよねー」
口では同意を示しつつも、トリの顔を見る限り、何かが引っかかっているようでした。
と、ポケットの中の携帯電話が震えます。液晶ディスプレイにはメールの受信を報せる通知。トイレ掃除おわったよーというやたらニギヤカな絵文字の散りばめられた千暁からのメッセージでした。
喫茶店を出る直前、陽は女の視線にはたと振り返りました。垂れ下がる髪の隙間から覗く瞳は、静謐でそれでいて刺すような光を点しております。恐ろしいというより、何だか遣る瀬ない。
陽は女としばし目線を通わせて、小さく
そんな目で訴えられたってどうしようもない。視えるもの全てに構ってやれるわけじゃない。
先に目を逸らしたのは──女の方でした。再び赤べこじみた運動が始まります。露先に吊るされた垢染みたマスコットたちが、それに合わせてまた揺れ始めました。
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