第五話

『僕と千暁とトリと時々──ところできょう晩なに食う?』・壱

 ある日のことです。目が覚めてトイレのドアを開けるとジジイがいました。頭巾を被った、見覚えのないジジイでした。

 少年はドアを閉めました。ドアに背を預け、鼻から四秒かけて息を吸い、八秒かけて吐き出します。ほぼ反射で試みたパワーブリージングにより、幾分心の波風が落ち着いたところで──ドアの隙間から再び中を覗き込みます。

 ジジイは変わらずそこにいました。右手にはトイレブラシを、左手にはトイレットペーパーを持っていました。

 少年は、徐に眉根を寄せつつ首を捻りました。


「──逆じゃね?」


 どうしてそんな言葉が口をいたのかは、自分でもわかりません。

 ジジイが唇の片端を吊り上げます。よく当てたな──と言わんばかりの面持ちで、すっとトイレットペーパーとトイレブラシを持ち替えました。少年からすれば、だからどうしたといった感じです。その、はずなのですが──。

 下半身を便器に突っ込んだ、その姿が。

 何故だか、妙に──しっくりくるような。

「ンなワケあるか」

 手首のスナップを利かせ、荒っぽくドアを閉めました。トイレを装飾デコレートする趣味はありませんが、するにしたってもうちょいマシな、せめて用を足す妨げにならないインテリアを置くはずです。

 居間に戻り、テーブルの上の携帯電話を取るや、然るべき人物に電話をかけます。四コール、五コール──昨夜壁越しに聞こえていた"物音"が、脳内でリフレインを始めます。

 

 まだ夢の中か、それとも朝っぱらから新たなラウンドが始まっているのか。

 

 電話を切ると、思いのほか自分が催している現実に直面します。アパートから徒歩圏内にコンビニはありますが、徒歩圏内というのはあくまでベストコンディションであればの話。"先客"がいなければ、間に合わないこともないのでしょうが。

 もし、いたとしたら──。

 外に飛び出て、隣の部屋のインターホンを押します。部屋着のままでしたが、そんな些末事を気にする間柄でもありません。換気扇の音が聞こえるに、誰かが台所に立っているようです。昨夜ゆうべのお相手が出て来ると気まずいな──などという考えがちらついた矢先、ドアが開きました。

 出て来たのは、長身の男性でした。センター分けにした前髪に、イケメンよりもハンサムよりも美形という表現がしっくりくる中性的な顔立ち。そして、男性にしては少々フローラル過ぎるフレグランスの匂い。

 今でこそリラックスムード漂うノームコアな装いですが、もっとぱりっとした服装に身を包んでいればやり手のUXデザイナーあたりに見えたことでしょう。

 少年は(美形特有のオーラに)半歩後退りしたあと、

「千暁いますか?」

 と尋ねました。

 推定二〇センチ近くある身長差も相俟って、何だか友だちの家へ遊びに来た小学生みたいです。

 青年は、少年を頭の天辺てっぺんから爪先までまじまじと見たあと、頬に手を当ててからこう言いました。


「あらっ。もしかして、あなたが陽くん?」


 本格的に、友だちの家へ遊びに来た小学生の気分でした。第一声が「あらっ」だなんて。そこまで本格的なロールプレイは求めていなかったのですが。いや、そこじゃないだろうと少年──陽くんこと陽は心の中でかぶりを振り回します。

 この喋り方にこの仕草、もはや疑いようもなく──。

「ちーちゃーん! 陽くん来てるわよー」

 完璧にオネエサンでした。


 ──ちーちゃん?


 陽は、こめかみを押さえます。その辺りに痛みと呼ぶにはあまりにも儚い、違和感めいたものを覚えたからです。

 じゃあね陽くんと多分にこなれたウインクを残したオネエサンと入れ替わりで現れたのは──。

「おはよー。どしたの?」

 尼削ぎに切れ長の眼をした少女──ではなく、少女にしか見えない面立ちの少年でした。否、面立ちだけではありません。ボディラインのわかりづらい、だぼっとした衣類に身をくるめてなお、その体格が少女然としていることは明らかでした。

 一見奥ゆかしい印象を与える容貌ですが、そこは多少なりとも内面が反映されているようで──目つきは、お高くとまった猫を思わせます。福寿草柄のエプロンを着けているところから、朝食作りの真っ最中のようでした。

 甘ったるい匂いが陽の鼻腔をくすぐります。オネエサンのインパクトが強過ぎて、嗅覚が一部マヒしていたようです。この匂いはフレンチトーストでしょうか。

「何? 緊急事態?」

「まあ、ある意味緊急だよ」

 陽は、千暁に一歩近寄ります。オネエサンに聞かれると、何かとややこしいからです。鼻腔を少々フローラル過ぎるフレグランス──さっきのオネエサンとたがわぬ匂いが掠めて行きましたが、あえて触れはしませんでした。

「トイレに知らないジジイがいる」


「──警察呼んだら?」


「いや、リアルよりだったらそうするし。というかリアルだったらもっと焦るから」

 アハハ確かに──と他人事のように(事実他人事なのですが)笑う千暁に、陽は短く息を吐いてから、

「ん」

 の一文字だけを添えつつ合鍵を差し出します。

「出かけるの?」

「ああ、ちょっとな。後は任せる。トイレ使えないって死活問題だしな」

 陽は、りょーかーいという千暁の間延びした返事を聞き流しながら、自宅に戻ろうと背を向けた矢先、くるりと反転。閉まりかけていたドアの隙間に足を割り込ませます。

「ちょっ、怖っ。何?」

「すまん。オネエサンやジジイのショックで記憶から飛んでた。トイレ貸してくれ」

 言うが早いか、陽は靴を脱ぎ捨てて、トイレに直行します。ドアノブをひしと掴んだところで、


「僕のカレシと鬼神を同列で語るの止めてくれるー?」


 つい、動きを止めてしまいました。うなじの辺りからキシキシと音でも聞こえてきそうな挙動で、陽は千暁に顔を向けます。千暁は大層不服そうに陽の靴を整えてくれているところでした。

「カレシなのか?」

「──僕、って言ってなかったっけ?」

「いや、知ってたちゃあ──」

 知ってたけどもとぼそぼそ呟きつつ、陽は居間に続くドアが閉まっていること──恐らくオネエサンの耳には届かないだろうことを確認してから、


「ぶっちゃけ男同士でどうなん?」


 としかめっ面で尋ねました。

 千暁は、人差し指を花のように薄赤い唇にそっと当てて、

「それ、僕で試したいって言ってる?」

 妖しげに微笑んで見せます。

 千暁は、異性も同性もイケるクチです。それゆえ、確率としては二分の一なのですが、陽は昨夜壁越しに聞こえるそれを声の高さなどから安易に女性のそれであると思い込んでいました。

 だからといって、誓って必死に耳を澄ませたとか、そんな惨めな所業に及んではおりません。ただ、耳に飛び込んでくる以上は、そう、人類の可聴域に入っている以上は、年頃の男として反応してしまうわけでして。とどのつまり、昨夜の自分を悶々とさせていたのは──。


「もしかして、もう試しちゃった? "間接的"に」


「バッッッッカじゃねぇの!!」

 陽は、小学生さながらの捨て台詞をブチ撒けてから、トイレに閉じこもりました。ドア越しに聞こえる千暁の笑い声は、昨夜自身を悩ませた嬌声と音程ピッチがそっくりでした。

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