『あの日彼は彼女と何を約束したのか』
ドアの開く音で、千影は我に返りました。どこでもない一点に注がれていた瞳が揺れて、薄い肩がびくりと跳ね上がります。居間へと続くドアを背に、トリが立っていました。優しさの中に
「──鳥越様」
「そろそろ帰るよちーちゃん。お土産のこと、迷惑かけてゴメンね」
「いえ、そんな。あの、もしよろしければ──」
ご一緒に夕食でも。
そう二の句を継ごうとして、手許に目線を落として。千影は──言葉に詰まってしまいます。夕食の支度は当に整っています。整った上であえてここにいるのです。あの輪には到底溶け込めそうもないから。知らず、エプロンの裾を握り締めていました。
「あの──」
「トリー! 狐がイケメンまた遊びに来てねーだってー」
元よりか細い彼女の声を掻き消すように、陽の声がドア越しに割って入ります。
「あはは、バイバーイ。今夜はもうイケメン帰りまーす。何せイケメンですからー」
「──いや、意味わかんないからだってー」
「ねーえー。それマジで狐ちゃんが言ってる? 陽ちんが言ってるだけじゃないのー」
軽口の応酬を交わしながら、トリは千影の横を通って、玄関に向かいます。スニーカーを履いたあと、躰ごと振り向いてから、彼女にこう言いました。
「いつもだったらお言葉に甘えるんだけど、今夜は止めとく。色々あったし、陽ちんもちーちゃんも疲れてるでしょ? 団らん楽しんでね」
──団らん。
その言葉が
平素とは明らかに異なる彼女の様子に、トリも中々出るに出られません。一度ドアノブに伸ばした手をポケットに収めて、大人しく彼女の言葉を待つことにしました。
「私は、鳥越さまのようになりたいと思うときがあります」
トリは一瞬目を瞠ってから、酷く短い吐息混じりの笑みを落とします。
「俺があんなふうに振る舞えているのは、陽ちんとずっと一緒にいるわけじゃないからだよ。好きなときに好きなだけいられる俺と、陽ちんと一つ屋根の下のちーちゃんじゃ状況が違い過ぎる。ただ、今陽ちんが笑っていられるのは、間違いなくちーちゃんのおかげだよ。俺だけじゃあとても」
「いえ、そんな、ですが」
申し訳ありません。すみません。ごめんなさい。
反射的に口を突いて出そうになった、謝罪の数々を飲み下してから、
「──ありがとうございます。鳥越様」
千影は深々と頭を下げました。顔を上げたとき、その表情にはほんの幽かではありますが、明るみが差しておりました。
※
平素より少しばかり静かな夕食が終わって、今陽と千影はべランダに出ています。洗濯物を干す以外でまず使用することのないスペースでしたが、そこで二人──とりとめもない時間を過ごすのに抵抗を覚えない程度の清潔さは、どうにか維持しておりました。
千影は欄干に両手を乗せて、狐さまは──と陽に尋ねました。欄干に肘をついた陽は、今王子と将棋やってるよと返答します。
「どうして、助けようと思ったのですか」
身を呈して、狐さまを。
意図的か主語は省かれていましたが、これが解釈できないほど、陽は愚か者ではありません。されど──。彼は、ゆるりと肩越しに背後を確認致します。
「申し訳ありません。どうしても──」
「いや、いいんだ。そりゃあ、気にして当然だよな。うん。正直──女の子だったからってのは大きい。あれがオッサンだったりしたら、きっと」
「それでも──」
千影は、陽の方ではなく大して見晴らしも良くない景色に目を留めています。
「やはり何らかの形で、陽さまは手を差し伸べると思います」
陽は照れたふうに笑って、欄干にもたれかかると千影にこう尋ねました。
「そんなに僕って善人に見える?」
「陽さまのおっしゃる善人の定義はわかりかねますが、陽さまのことは素敵だと思います」
千影がこちらへ目を向けるのに合わせて、陽はすぐさまそっぽを向きました。鏡を見ずとも、自分の顔面がじわじわ紅潮してゆくのがわかったからです。
「どうされました?」
「うるせーわかってるくせに。いや、なんつーか、勝てないなぁ──と思っただけ」
千影が、くすりと笑みを零します。思えば、彼女と出会うまで、現実にこんなお上品な笑い方をする女がいるなどと、陽は夢想だにしていませんでした。
「いつから勝負をしていたのですか? 私たち」
陽は千影の方を見て、ずっとだよ──と答えました。
千影は変わり映えのしない夜の住宅街から、陽へと目を移します。
「これからも、ずっと」
千影は小さく目を見開いたあとで、はいと頷きました。静かな瞳はすっと夜景に戻ってしまいましたが、その横顔はどこまでも穏やかでした。
陽もまた彼女に倣って、面白みのない景観を眺めることにします。何の変哲もありません。それでも、では虚しいのかと訊かれたら。きっと、別段そんなこともない──と答えるのでしょう。
「僕からも一個いいか?」
「──どうぞ」
「朝言ってた僕の好きなところってどこなんだ?」
千影が、弾かれたように陽の方を向きました。
「──忘れてると思ったか?」
いえ、と小さく頭を振って、千影は目線を手許に落とします。それから、真っ直ぐ陽の瞳を見つめました。
「他人に頼み事ができるところです」
思いもよらなかった答えに、陽は首を捻らざるを得ません。
「いや、それ当たり前じゃないか。誰だってできる」
「そうでしょうか。誰かに愚痴を零す人は世の中に大勢います。あれがつらい、これが苦しい。けれど、愚痴はそれだけです。解決を目指してはいません。けれど、陽さまの場合は、あれがつらいから力を貸してくれ。これが苦しいから協力してくれ。いつでも、事態の解決を目指しています。前を向いて歩もうとしています。そこが、実に──すごいなぁと」
すごいなぁと。
千影から褒められる機会が少ないわけではありません。常日頃、彼女から掛けられる褒め言葉に疑いを持っているわけでもありません。ただ、彼女が最後に発したその言葉。すごいなぁは。本当に──心からのものであるとわかったというか、陽の知らない千影を垣間見たようで。
「そ、そうか? それは僕の周りが優秀なだけじゃないか? 千影も含めて」
「その優秀な方々を引き寄せているのも、陽さまの魅力です」
「言い切るなぁ。ま、全く悪い気はしないから、そういうことにしとこうか」
「ええ、そういうことにしておいて──」
くださいと。
千影はそこまで言い終えました。その語尾が震えていたことに、しかし陽は気付きませんでした。悩みに悩んだある提案を彼女へ伝えることで頭がいっぱいだったからです。
「あっ、それともう一個。これは質問じゃなくて提案なんだけど、ほらこれまで僕、千影に気ぃ遣って一緒のとき、極力アイツらと話さなかったろ? けど、今日トリと話してて、それって返って君に寂しい思いをさせてるんじゃないかなって思ったんだ。だから、今後は。もちろん強要する気はないぞ? ただ、いい意味で君も巻き込んでいきたいって言うか。──千影?」
千影は、大きく目を瞠っていました。顔こそ陽の方を向いてはいますが、その視線は明らかに彼ではないどこかへと注がれております。
花のように薄赤い唇が、散る間際のように震えて。
陽さま──と。
ただ、その一言を絞り出したとき。
指先が欄干を離れました。足がよろめくように後退しました。
陽は、咄嗟に彼女の背へ手を差し伸べます。後ろへ倒れてしまうと思ったからです。腕で支えた重みから判断するに、その対応はどうやら正解のようでした。
「申し訳ありません。陽さま」
「いいよ、全然。大丈夫か?」
千影は弱々しく頭を振って、陽の顔を見ると、
「はい、何ともありません」
と、言い切りました。
途方もなく、儚げな笑みが浮かんでおりました。
ある日のことです。陽が目を覚ますと、隣に千影はいませんでした。
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