『妖に寄らば尾っぽが増え神に寄らば尾っぽが減る類のロリ』・伍

 居間の床には、ジジイと王子が将棋盤を挟んで寝そべっております。

 ──そこは、囲碁ではないのですね。

「お前ら、喧嘩はどうした」

「陽ちゃんこそ。おしっこはどーしたの?」

 陽は親指に目を落として、引っ込んだよとだけ何故か小声で返します。

「ご覧の通り継続中だ。第一ラウンドが引き分けに終わったので、今は第二ラウンドに移っている」

 盤面に目を留めたまま、王子が近況報告を寄越しました。

「で、将棋か。もうただの仲良しだろ」

 陽は半ば呆れた口調でそう言いながら、ルーズリーフ一枚とシャープペンシルをテーブルに用意します。何するの──と心底不思議そうに尋ねる狐に、陽は椅子に座ってからこう答えました。


「狐耳の生えた女の子の絵を描く」


「──はい?」

「言ったよな。フツーの狐の絵じゃ憑依できないって。だから、僕が代わりに絵を描く」

 狐は、いやそんなの憑依対象にできるワケないじゃんとほぼ反射的に出かけた言葉を飲み込みました。そう、恐らくではありますが、のです。

「な、なるほど。でも、陽ちゃん、絵心あるの?」

「ねぇよ。けど、やる価値はあるだろ。憑けなかったらそのときはそのとき。どのみち他の方法なんて思いつかないんだ」

 陽は両腕を組み、短く息を吐きました。

「正直言うけど、姉ちゃんの術をどうして抑えられてるのかは、僕にもよくわからん。だから、いつ再開するかもわからない。お前は今のうち、憑依できるだけの力を回復しとけ」

「姉上の術?」

 この家に仕掛けられたものだけではなかったのか──と言いながら、王子は陽の傍まで来ます。

「そうなんだよー王子ちゃん」

 かくかくしかじか。狐は廊下で起こった出来事について、王子に説明しました。

 さて、王子の後ろには、変わらずジジイが横たわっているのですが。

 どういうわけか、ぴくりとも動きません。考えてみれば、トイレという力の源泉を離れた時点で、ジジイは絶不調でした。そんなジジイが長考必至の盤上遊戯などに臨めば──結果は言わずもがなでしょう。

 陽は、王子の方を見て目を細めます。

「なあ、お前アレ──」

「長考中だ」

「いや、どう見ても動いてすら」

「長考中だ」

 やや間があって──。


「長考中だな」


 と陽は話を締め括りました。この件に関して、考えることを放棄しました。

「つまり、術式の発動条件はまだわかっていないのだな」

「あっ、そういえばそうだね~」

 憑依が長時間に及んだことで、陽の負担になると判断されたのではないか──。狐はそう推測しましたが、あくまで推測です。彼女自身それに確信を持っているわけではありません。

「狐から邪悪な気を感じないことは、余にもわかる。何よりそういった存在であれば、すでにこの家の結界に弾かれているはずだろう。父上に施された術式には、何らかの発動条件がある。それさえ解れば、再起動を阻止できるかもしれない」

「そうすれば──」

 続きを促すように、陽は王子を横目で見ます。王子が、力強く頷きました。


「ああ、時間が稼げる。狐が助かる確率は今よりも高まる」


 親指が小刻みに震えました。感極まった狐が身震いをしたようです。

「な、何かスゴイ! あたし、イケそうな気がしてきたよ! ねぇねぇ円陣組もう! 円陣!」

「組めねーよ。実質僕と王子が組むだけじゃねーか」

 些か興奮気味の狐をやんわりあしらいつつ、陽は颯爽と絵を描き始めます。躰のあちこちで、何かがざわついていました。恐らくそれが、術の発動を無理矢理抑えている影響なのでしょうが、だからといって何ができるわけでもありません。


 ただ、何かをできる時間は稼げている。

 それだけです。


 ──この躰に、術式か。

 一体いつ施されたのやら皆目見当もつきません。しかし、それのおかげで今の陽があることは、疑いようのない事実でしょう。これまで知らないところで、自分を護ってくれていたこと。そのことについて、陽は素直に心の中で感謝を述べます。

 しかし、今。この刹那だけは。


 ──勝負だ、姉ちゃん。


 生まれて初めて、決意を以て貴女に挑もう。

 姉の術式と弟の──多分ただの根性論。今この瞬間、どちらが上か。

 陽は、手の動くまま、心の赴くままにそれを描き上げました。

              

「これって──」

 絵を覗き込む狐の声は、幽かに震えていました。ごくりと固唾を飲んだのは、王子でしょう。陽は、手を太腿の上に置いた格好で何故か目を閉じています。まるで判決の瞬間を待つ他ない罪人のような佇まいです。


「何で、ミジンコ描いちゃったの? 陽ちゃん」


 ──ミジンコ。

 陽は、目をちらとだけ開けて、渾身の力作を見ました。

 ──確かに見えなくもない。そう、思いました。

「違う。それは、断じて微生物じゃない。違うんだ」

 そう、自らに言い聞かせるかの如く。

 頭を振る陽はなおも頑なに目をつぶったままです。

「陽ちゃん。右利きだよね? ちゃんと右手で、目ぇ開けて描いてたよね? いくら──いくら親指が大きくてアレだからって、そんな、こんなことって。こんな──かわいそうだよぉ」

「泣くな! せめて笑え! 笑い飛ばしてくれ! 王子もほら、何か──言ってください。頼む。もう何でもいいから」

「いや、何か反応を示したいのは山々なのだが」

 王子は、陽の"ミジンコ"に目を留めたまま、ぴくりとも動きません。その額には、いくつか汗の玉が浮かんでおります。

「どうやら父上の描いた図柄が、何らかの霊符に近い効果を発揮したようで、さきほどから身じろぎ一つままならないのだ」

「そこまでか? そこまでおぞましいか?」

「おぞましいよ! どう見たって処分にお焚き上げを要するレベルだよ!」


「それと、これはたった今思いついたのだが、何故父上が絵を描く必要があったのだ?」


 え──という陽と狐の乾き切った声がハモります。

「いや、狐の耳が生えた少女の絵であれば憑依対象となり得るかもしれない、というのであれば、何も父上が描かずとも、その、画像検索とやらをすれば出てくるのではないか? 画面越しに憑依は可能なのかという疑問の余地はあるが」

「お前もうちょっと早くそれ言えよ!」

「だから今思いついたと言っただろう!」

 陽は、テーブルに両手を着き、立ち上がろうと試みて──。直後に、椅子ごと床に倒れました。理由は言うまでもありません。躰が言うことを聞かないということは、すなわち。

 背筋を、うそ寒いものが駆け抜けます。

「狐ぇ! 無事か!」


 術式の第二波が、姉の使い魔が、狐に迫っている。


 今のところは──という狐の声が聞こえました。本当は、もっと何か喋っていたのかもしれませんが、ノイズ混じりで聞き取れません。

「お前、ある程度回復したよな? だったらもう外に出ろ!」

 ええ? 回復。霊体。行動できる。でも。五分。

「僕はもう五分も無理だ! だったらせめて長い方に賭けよう!」

 五分。あくまで。目安。もしかしたら。もっと。早くに。来るかも。

 陽は、雄叫びを上げました。僅かでも力むことが可能な部位はないか、意識による捜索を試みます。否、そんな部位があったところで、そもそも力んだところで、事態が好転する保証は全くないのですが、それでも──。


 何もしないよりかは。


「──わかった。出るよ」

 はっきりとした狐の声が、陽と王子の耳に届きました。しかし、続く言葉はやはりノイズに呑まれてしまいます。

 頭の上。光る穴。これから。外に。

「光る、穴?」

 王子が、大きく目を見開きました。そのとき、彼の脳裏を過ぎったのは。

 虎列剌コレラ──というジジイの意味深な一言。手遊びの末、ジジイの頭に天啓の如く舞い降りた、たった一つのヒント。


 ──ああ、そういうことだったのか。厠の神よ。


「狐! 穴が見えるのか?」

 ノイズの中、幽かに聞こえるうんという返事。

「父上! 親指を縛ることはできないか?」

「はぁ? 何で」

「どんな縛り方でも、使う糸は何でもいい。とにかく、縛ることさえできれば──」

 恐らく、術式は停止する。

 狐は霊体で外に出るという真似を、狸を呼び寄せるかもしれない無謀を冒さなくて済む。

 ただ、唯一絶対の問題があるとすれば。

「くそがぁ!」

 肝心の陽が術式の停止まで──すなわち狐が消滅するまでは、もうまともに動けないということ。いくら吠えたところで、親指を縛るというちっぽけな動作さえ、もうどうにもならないということ。


 そのときでした。鍵を開ける音が聞こえたのは。


 ぱたぱたと廊下を走る足音、勢いよくドアを開けて現れたのは、

「陽さま!」

 額に汗を滲ませて、小さく息を弾ませる、千影の姿。

 陽は、すうと口から息を吸いこみます。経緯を知らない彼女に、この状況を打破するすべを、可能な限り簡潔に伝えなくては。声を、張り上げました。


「千影ぇ! 僕を縛れぇ!」


 余裕がないとはいえ、色々端折り過ぎでした。千影の立場からすれば、急いで帰宅して早々、床の上で苦悶する恋人から物理的な縛りプレイを懇願されたわけです。並みの女性であれば理解を早々に放棄し、回れ右と洒落込んでいるレベルでしょう。

 ですが、千影は。

 陽の傍に両膝を着くや、持っていた黒い糸を彼の親指にくるりと回して。


 きゅっと蝶結びにしました。


 陽の親指が、みるみるうちに萎み、元通りのサイズへと戻ります。

 穴が閉じた──という狐の声が聞こえました。

 陽は、信じられないといった面持ちで、千影の顔を見ました。


「どうやら、辿り着いた解は同じだったようですね」


 千影はそう言って、肩の力を抜きました。それから、無言で陽を見つめます。意図は掴めませんが、責めるような眼差しではありません。思案する彼をよそに、千影はそっと瞼を閉じました。

 ──ああ、そういうことか。

 陽は鼻の頭を右の親指で掻いてから、身を起こして。


 千影と接吻を交わしました。唇を触れ合わせる程度のソフトなものでした。


「おかえり。千影」

「ただいま帰りました。陽さま」

 から、ひゅーひゅーという狐の口笛もどきが聞こえました。

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