『妖に寄らば尾っぽが増え神に寄らば尾っぽが減る類のロリ』・肆
とある市立図書館前──玄関脇のベンチにだらしなく腰掛けている
パトリック・ナゲルのイラストがプリントされたTシャツに九分丈のワイドパンツ、
十中八九この清々しいとは言い難い陽射の中、自身をここへ呼び出した姉に対する不満なのでしょうが──もしかしたら、唐突な呼び出しに渋りはすれど何だかんだで来てしまった自分に対するそれもあるやもしれません。
にしても──
「今どき図書館で"調べ物"は時代錯誤でしょ」
千影は黒地にサクランボ柄の日傘を畳みつつ、小首を傾げます。心底不思議でならないとでも言いたげな
「──何?」
「いえ、心根より顔も見たくないとは思っていましたが、こうしていざ顔を合わせると返って諦めがつくのか、案外平静を保っていられるものだなと」
千暁が、幽かに目を
「その感情わざわざ言語化するぅ?」
乾いた笑みを浮かべながら背中を丸めた彼の目つきが。
一変、鋭くなりました。
僅かにたじろぐ千影。千暁は立ち上がると、足早に彼女へと近付いてその頭を両の掌でそっと挟み込みました。姉によく似た切れ長の瞳は、強張った彼女の顔──ではなく、その背後に忍び寄る"何か"をじっと見据えております。
「動いちゃダメだよ。面白いのが
口振りからこそ、幾分余裕を感じられますが──。
ここで言う"憑いてる"とは、紛れもなくそういう意味であって。
だからこそ、動いては駄目と言われた手前、千影は千暁の顔を見るよりほかありません。もしかしたら、眼球の動きすら彼の禁じた
中性的どころか、もはや女性にしか見えない面立ち。もし、千暁が妹でファッションの嗜好まで自分と似通っていたら、見分けるのはいよいよ困難だろうな──と千影は思います。
否、そうでもないか。
弟の方が、同性から見ても異性から見ても、余程魅力的に映るか。
瑞々しいフレグランスの香り。
千暁の手が、頭から離れました。終わったのですか──という千影の問いに、彼は小首を傾げてみせます。
「多分、千影ちゃんが思ってる方で正解だよ」
口許に見えるは、良かれ悪しかれよく似合う、悪戯っぽい笑み。
そうですか──と言うが早いか、千暁から視線を切り、館内に入ろうとする千影。立ち止まり、躰ごと振り返ります。どういうわけかその場を離れようとしない千暁に、
気付いてしまったのです。彼女は視えもしないし、触れもしないけれど。どうして千暁が後をついて来ないのか、どうしてこの猛暑の中を外で待っていてくれたのか。
気付いて──しまったのです。
千影は、拳をぎゅうと握りました。
「千暁くん」
「いいって。最初からそのつもりだったんでしょ」
千影に、鬼神を認識することはできません。しかし、陽と自称白狐のやりとりからいざ自分が事態の解決に向けて動き出した場合、妖怪狸に狙われてもおかしくないことくらいは想定済みでした。
だからこそ、千暁を呼んだのです。彼を呼び出して、起こり得る
「そういうところホント抜け目ないよね」
「申し訳ありません」
「うん」
「──ありがとう、ございます」
「──うん」
千影の背中が館内に消えてゆくのを見届けて──。
さて、ここからは千暁にしか視えぬ世界でございます。
千暁は悠然とした足取りで、"それ"との距離を詰めました。
足許には、踏み
千暁の立ち位置から左眼を確認することは叶いませんが、少なくとも右眼は元より潰されていたようです。「八百八」の三桁が焼きごてで押し当てられていました。
「狐狩りに
狐の頭を爪先で小突きます。頭が砂のように崩れて、元々散在していた赤い切り粉と見分けがつかなくなりました。どうもこの──見ようによってはコケにも見える物質が、狐そのものを"構成"しているようです。
千暁は、辺りを見回しました。肉眼で捉えられる範囲にはまだいませんが、ちらほらとこちらへ向かっているようです。面倒臭いなぁ一斉にかかってこいよと思う傍ら、まあその選択に打って出る可能性は限りなくゼロだよなとも思います。
狸からすれば、ただ"時間切れ"を待てば良いのですから。
傀儡化した狐とはいえ、戦力をわざわざ浪費する必要はないわけで。
その辺り、陽と愉快な
千暁は勢いよくベンチに腰を下ろします。背中を丸めて、頬杖をついて。
「いつまでもコントやってる場合じゃないんだぞー。陽くん」
恐らくは──大半の読者の気持ちを代弁しているであろう台詞を呆れた顔で呟きました。
※
陽は、廊下の床に座って、グラスに注いだコーラっぽい色の液体を飲んでいます。居間へ続くドアからは、国民的SF映画の
片やトイレブラシ、片やサーベル。
一体──この音の
狐はと言うと、何を思ったか、しゅこーしゅこーという独特の呼吸音を声マネしております。色んな意味で触れると面倒臭そうなので、そっとしておくことにしましょう。
「なあ、ここって鎮静作用機能してるんだよな?」
「しゅこー。うん、言ったねー」
「──攻撃性体感五割減でコレって、アイツら何? 戦闘民族か何かなの」
「さあ、温厚な平和主主義者のお狐さまにはようわからんですなぁー。何飲んでんの?」
「ルートビア」
「へー、何か湿布薬みたいなニオイ。美味しい?」
「僕は好き。ただ、好き嫌いはあるぞ絶対」
「ふぅん。──ん? んんっ?」
「何だよ?」
「いや、陽ちゃんそれ。グラスグラス!」
ぐらすぅ──と首を捻りながら、陽は持っているそれに目をやって、
「狐じゃん」
見つけました。グラスには、踊るような筆触で藍色の狐が描かれております。切れ込んだ目尻にぽつりと紅が
「一昨日友だちから貰ったんだ。そのときは、意識してなかったな」
──狐の絵柄がついているだなんて。
「へー、陽ちゃんって友だちから貰ったものちゃんと使うんだ」
「は? 友だちから貰ったものは使うだろ。フツー」
「──ゴメン。何かあたし勝手に深手負ってる。でも、ということはさ」
ああと言って、陽は頷きます。
「お前はこのグラスから喚起されたってこと何だろうな」
そう、いざ言葉にしてみると、一昨日このグラスを箱から出したとき、指先に熱が走ったような、さっと火で焙られたような、そんな感覚があったことを思い出します。
あのとき、狐は図らずもこの身に憑りついたのでしょうか。
「そういうのってピンと来ないのか? 自分はこれから生まれたんだーって」
「いやぁ、全然。あたしを生んだ──っていうか
だよなぁ──と同意して、陽はまじまじとグラスを眺めます。狐の言う通り、歴史ある古物の類には到底見えません。どこの誰でも土産物屋で買える、ただの小洒落たグラスでございます。
こんな──何の変哲もない物体からも、喚べてしまうのか。自分は。
そう思うと、陽は──。
「何か、ゴメンな。喚んじまって」
急に申し訳ない気持ちになりました。
「──ど、どーしたの。いきなり」
「いや、僕以外にも視えるヤツって、その、いるっちゃいるわけだしさ。僕以外の奴に喚起されてたら狸の結界がどうとかで悩まされずに済んだんじゃないか?」
「そうかなー。あたしは当たりくじ引いたって思ってるけどなー」
「ホントか?」
「ホントホント。だって、この家はチョー快適だし、陽ちゃんはあたしを無理矢理追い出そうとしないし。これが江戸末期だったらそんだけで積みよ積み。狐憑きってだけで最悪火責め水責めだよ?」
「マジか。じゃあ、当たりっちゃ当たりだったのかもな」
「そうそう。当たりどころかもう大当たりよ。っていうか、陽ちゃんって自分以外にも視える人がいるってことは知ってるんだね。あっ、お姉ちゃんがそーなのか」
「まあな。姉ちゃん以外だと、千影に弟がいて──」
陽は、そこで口を噤みました。千暁って言うんだけど──とは、続けませんでした。そうでした、彼の立場は。狐のような存在にとって、彼のやっていることは。
「いいよ陽ちゃん。弟ちゃんが何をやってるのかは、今のリアクションで大体お察ししたから」
「──悪い」
「もうっ。陽ちゃんさっきから急にアンニュイになり過ぎー。もっと
「何だよその応援メッセージ。──え? 応援だよなそれ?」
なんとなく意訳しちゃったけども──陽はルートビアの残りを
「そだよー。稲荷界の流行り言葉みたいなもんね。けど、うーん。何でだろうなぁ」
「何が?」
「ほらっ、あたし、その気になったら陽ちゃんから離れられるって言ったよね?」
「ああ、言ってたな」
「うん、とは言ったもののね。いや~どういうわけかできないんだよ。物質への憑依。さっきから頑張ってはいるんだけど」
「それ、憑依してからは大丈夫なのか? 狸に勘付かれたりとかは」
「うーん。この家にいる分には安全なんじゃない? 多分だけど」
多分かよと小声でツッコミを入れてから、陽は口元に拳を添えます。
物質への憑依──。
ジジイは、神棚という住まいを得ることで、便器から生える必要がなくなりました。王子は──陽自身未だによくわかっていませんが、とにかく壁にブチ当たったショックでカエルから王子になりました。つまり、蜮という元々の存在に縛られなくなったことで、風呂場以外でも行動することが可能になったのです。
つい、眉間にシワが寄ります。何かひらめきそうではあるのですが。
「その物質って、何でもイイってわけじゃないよな?」
「うん。ただ、そんなに厳しい縛りがあるってわけでもないよ。たとえば、このグラスなんて狐の絵がついてるからちょうどいいはずなんだけど──」
そこで、狐は言葉を切りました。次いで、わざと臭い咳払いをします。
「ねぇ、陽ちゃん。つかぬこと──じゃあないか。バリバリ関係してるや。ええ~おうかがいしますが、もしかして頭の中であたしのこと擬人化してる?」
「──んんっ?」
思わず、返答に詰まりました。明確な姿を思い描いているわけではありません。ただ、ぼんやりとではありますが。
「こ、声が声だし、そりゃな」
狐耳の生えた、
「あー、だとしたらあたしがグラスに憑依できないのってそのせいかも」
「な、何かすんません」
陽は親指から目を逸らしながら、謝罪の言葉を述べます。何だか、自分が酷く
「第一憑依できない理由って」
狐は小さく息を飲んでから、
「もう──それだけじゃないし」
と言いました。どこか──苦しげな声でしたが、彼女自身隠そうと努めていたせいもあってか、陽がそれを気に留めることはありませんでした。
「そうなのか?」
陽は、洗ったグラスを水切りカゴに置くと、トイレのドアノブに手をかけます。
「えっ」
狐が声を上げました。この一声もまた本来は濁点付きであると脳内補完していただければ。
「陽ちゃん? あたし、憑いてるんですけど?」
「つっても生理現象だし。どうしようもないだろ。それに女狐ならアレだ。人間の男のナニなんて──ほら、浴びるように見てるだろ?」
「いやいや、神の使いだから! 偉い人たぶらかしたり、馬のフンをご馳走だよ~って食わせる連中と別格だから! あと、浴びるようにって何? ちょっと思考を挟んでのそれなの? お前、何浴びてんだよってなっちゃうじゃん!」
「まっ、さらに言えばだ。お前、昨夜の時点で色々見てるだろ。お互い恥ずかしがったってしゃあないって」
そう言って、捻ろうとしたドアノブは微動だにしませんでした。いいえ、正しくは手が微動だにしなかったのです。
え──という驚きの声が、陽の口を突くヒマはありませんでした。なす術なく、その場に頽れます。幸い頭部を強打することはありませんでしたが、どのみち起き上がれないことに変わりはありません。ただ、眼球と口は、かろうじて言うことを聞くようでした。
陽は、うつ伏せに倒れたまま、狐に尋ねます。
「これ、何だ? 狸のせいか?」
ううんと言って、狐は頭を振りました。
そんなイメージが陽の頭には浮かんでおりました。
「狸のせいじゃない。これは、多分陽ちゃんのお姉ちゃんのせい。せいっていうよりおかげかな」
「どういう──ことだよ」
「術式が巡らせてあるのはこの家だけじゃない。陽ちゃんの躰にもってこと。これまで陽ちゃんって躰に直接異常が出るようなヤツとは、あんまり遭遇したことなかったんでしょ? それは、きっと憑かれても気付かなかったんじゃないかな。憑依されたって認識するより早く躰に巡らされたこの術式が、そいつを始末してたんだと思う」
「けど、お前、今の今まで──」
問題はなかっただろう。
もはや、その程度の言葉さえ、絞り出すことは叶いません。
「そこは、よくわかんない。単に白狐だからなのか、たとえ神の使いでも長いこと憑依して陽ちゃんの負担になるようであれば排除する。そういうシステムだったのかも」
「僕は、何をしたらいい」
陽は、歯を食いしばりました。皮肉なことに、その程度の余力はありました。どうあがいても、結局自分はどうするどうすると、誰かに答えを求めるほかない。そんな自分が、情けなくなります。
狐は笑って、
「うーん、特にないや」
とあっけらかんとした調子で言いました。
「何を、言って」
「思えば、でっかくなってる時点で察するべきだったかなぁ。親指に変化が現れたなんて人、
狐の言っていることが、陽にはいまいち理解できません。
「今、一体──」
「どういう状況って? 突如としてアグレッシブになった陽ちゃんの体内の"使い魔"によって、もう息も絶え絶えって感じよ。声のせいで説得力に欠けてるかもだけど。あっ、あとゴメンね。いや、何で謝ったかって言うとさ。あたし、陽ちゃんに嘘ついちゃってたから。あたしがこの躰を離れて、五分もしたら狸がここにやって来るって言ったでしょ? あれ、ホントだけど今となっちゃデタラメなんだ。だって、もう今のあたし五分も持たないから」
陽は、顔を上げました。上げることが、できました。親指を、狐を視界に収めて。目を瞠ることができました。
頑張るなぁと狐はやはりあっけらかんとした口調で呟きます。
「陽ちゃんの中に居座るだけで、案外力使っちゃったみたいで。だから、安心して。もうじき、あたしは陽ちゃんの外に出て、消えて無くなる。出てすぐのことだから、きっと狸たちは嗅ぎ付けようがない。陽ちゃんたちが巻き込まれる心配はない。じゃあね、陽ちゃん。王子ちゃんとおじいちゃん。あと──」
あとは──。
「えっちで少女趣味なカノジョちゃんによろしふがががっ」
陽は、親指を鷲掴みにしました。ついさっきまで、言うことを聞かなかったはずの左手で。
「は? 絶対イヤなんだけど」
狐は、言葉を失いました。否、どのみち陽に掴まれているのですから、満足に喋ることはままならないのですが。
にしても、この状況下で。体内の術式の稼働にリソースを割かれるあまり、身じろぎ一つできなかったはずの肉体で、何故これほどまでに。
流暢に話せるのでしょう。この人間は。
狐は、周囲を見回しました。この場合の"周囲"とは、陽の体内のことです。
そして、目を疑います。
さっきまで自分を攻撃していた使い魔が、一体残らず、いない?
なるほど、術式にリソースを割かれることがなくなったから、こうして動けているのか──いやいや、違くて。そういうことではなくて。
「陽ちゃん。どうやって──」
あくまで術者の支配下にある使い魔を、あくまで鬼神を感得できるだけのこの人間が。
どうやって──。
陽は、親指を左の人差し指でぐいと押しました。狐が人型であれば、ちょうど彼女の鼻先を押すイメージでしょうか。
「寝覚めが悪い」
「はい?」
「ここ最近でわかったんだ。千影限定だと思ってたけど、どうやら僕は結構引きずるタイプらしい。そんな僕が、ここでお前を見捨ててみろ? 寝覚めがくっそ悪いだろーが。まだ僕二〇歳迎えたばっかなんだぞ。人生これからだっていうのに、何であーあそういえばあのとき僕ロリを見捨てちゃったなーみたいな後悔の種植え付けて、これからの人生歩まなくちゃダメなんだよ。それに、何だ。将来千影と、その、家庭を作ってだな。子どもができて、その子と遊んでるときにも、僕って今はこんなふうにお父さんしてるけど、過去にロリを見殺しにしたんだよなぁ、とか頭の隅っこに留めてろってか。イヤ過ぎるだろ、そんな人生」
だからと強い口調で言って、陽は立ち上がりました。今はもう効果音の聞こえない、居間へ続くドアノブに手をかけます。
「お前の言うカノジョちゃんだって、頑張ってくれてるんだぞ。僕が諦めてないのに諦めてんじゃねえ。僕の人生を豊かなものにするために、お前は生きろ」
陽は、勢いよくドアを開け放ちました。
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