『妖に寄らば尾っぽが増え神に寄らば尾っぽが減る類のロリ』・参

 陽は、床にあぐらをかいて項垂れております。

 あれから──千影は"調べもの"を理由に外出してしまいました。何を調べに行ったのかと言えば、それは無論この異変を解決する手がかりでございます。そのとき、陽は同行したい旨を彼女に申し出たのですが、

「陽さまには陽さまにしかできない情報収集があると思いますので」

 とやんわり断られました。

 確かに、陽が千影について行ったところで調べものの役に立つ可能性は低いでしょう。むしろ、親指とわちゃわちゃする分、返って邪魔かもしれません。彼女の言う通り、陽にしかできない情報収集──つまり王子やジジイ、狐から話を聞いた方が異変解決に向けてとる行動としては余程有意義と言えます。

 とはいえ、そりゃそうだろうと頭で理解できたところで、


「──怒ってたよなぁ」


 人間気がかりが一つあると、中々行動に移れないもので。

 思うに──と、テーブルに頬杖を突いていた王子が口を開きました。

「怒っていたがゆえに同行を断ったのではなく、単に頭を冷やしたくて距離を置いたのではないか?」

 まあ全く怒っていなかったこともないだろうがと、王子は陽に届くか届かないくらいかの声で付け足します。

 陽は、解ってはいるんだよと言いたげな眼で王子の顔を見ました。そんな彼の脳裏に想起されるのは、玄関まで見送った自分に向けて、千影が残した言葉。そして、真っ直ぐな光をともした彼女の瞳。


 ──夕刻までには戻ります。何かあれば連絡を。必ず、解決策を見つけますから。


 おっとこまえだったねーと狐の声が聞こえました。陽は弾かれたように親指を見て、眉間にシワを刻みます。

「まさかとは思うけど、躰共有してるからってまで見えてるわけじゃないよな?」

「まっさかー。でもさ、格好良かったよね。えっちで少女趣味なだけかと思ってたよ」

「──お前、おとら狐じゃないかって疑われたことちょい根に持ってるだろ」

 そんなことないですーと言って、狐はぷうと頬を膨らませます。まあ、あくまでイメージなのですが。

 それにしても、あんなギクシャクがあった直後にも関わらず、この炎天下を自分のため奔走してくれている千影に比べて──。


「カッコわる」


 その恋人である自分は、一体何をしているのやら。

「大丈夫か? 父上」

「大丈夫だよ。ただ、女って大人だよなぁって思ってただけ」

「女がというより、母上が大人で父上が子どもなのだ」

「──なあ、お前今日ヤケに切れ味鋭くない?」

「それだけ父上に心当たりがあるだけの話だろう」

 それもそうかと陽は思います。王子の言葉がいつもより鋭利に感じられるのは、それだけ切られると痛い箇所が、心のそこかしこにあるからか。自らの手で増やしてしまっているからか。


 それだけの話か──。


 よしと言って、陽は立ち上がりました。それから、両頬を両手で二回叩いて、あぐっという狐の苦鳴に身を固くしました。やや間があって、事情を察して、すまんと親指に詫びを入れます。

「というわけで、各自何でもいいから知恵を出せ」

 さっきまでの捨てられた子犬のような有様はどこへやら、左右の腰に手を当てて仁王立ちする陽に、王子はどこか意味深な笑みを零します。

「何だよ?」

「いや、何でもない。ただ、そうだな。朝、母上が言っていた父上の好きなところは、そういうところであると余は思うぞ」

 陽は──やっぱり口をへの字にせざるを得ませんでした。それを見て、王子はまたも笑いますが、小馬鹿にしたふうではなく、むしろただただ嬉しそうだったので、陽としてもいまいち咎める気になれません。

「すまない。ただ、それくらいが丁度良いのかもしれないな。お二人の間柄にとっては。さて、手間はかかる分、恐らく最も単純な案が一つあるのだが」

「ああ、言ってくれ」

「狐は離れようと思えば父上の躰をいつでも離れられる。しかし、ここ四国の地では離れるわけにはいかない。なぜなら宿敵である狸に襲われるから、そして、父上に憑いている限り、狸に見つかる心配はない。そういう解釈で合っているか?」

 ぴんぽーんと陽に代わって狐が返事をします。


「ならば、父上が一旦この地を離れれば良いのではないか? 狸の結界の外、すなわち安全な場所で狐を解放してやればいい」


「マジかよ。コイツのために今から小旅行しろって──」

 そう言いながら、陽は溜息混じりに、壁へと背中を預けて、

「いやいや、フツーに名案だろそれ。お前どうしてそれ飯食ってるとき言わなかったんだよ?」

 すぐさま王子の方へと前のめりになります。

「今思いついたのだ。言いようがないだろう」

「まあいいや。とにかく千影に連絡しよう。王子、ナイスアイデアだ。今度何か──庶民に買える範囲、あとAmazonで手に入る範囲で何か買ってやる」

 それはどうもという王子の淡泊な返事を聞き流しつつ、陽は携帯電話を手に取りました。そこへ、あのーといういかにもバツの悪そうな狐の声が割って入ります。

「これからまさに盛り上がるぞーってところ悪いんだけど」

「何だよ? 問題あるのか?」

「うーん、試しになんだけどさ、陽ちゃん。一回外出てみてもらえる?」

 外ならさっき出ただろう──と言いかけて、そういえば出たのは玄関までだったなと考え直します。

「ちょびっとだけ、ほんの一〇秒前後でいいから。ただし、ホントそれくらいの時間で戻ってよね? 絶対だよ?」

 ──いまいち、外出に乗り気なのか、そうでないのか判らないことを言う狐です。

 陽は、ちょっとだけ出るわとだけ王子に伝えて、うなじを掻きながら居間を後にしました。

              ※

「──何があったのだ、父上?」

 それが、居間に戻って来た陽に対する王子の第一声でした。

 陽の額には薄ら汗が浮かび、頭髪も出て行く前に比べ気持ち乱れております。僅かに肩が上下していることから察するに、どうも原因は季節柄厳しい日差しのみではなさそうです。

「結論から言えば、僕は平気だ。ただ、コイツが──」

 陽はそう言って、右手でサムズアップをします。何だかこのジェスチャーが不吉を意味する呪いの類に思えてきました。

「うぇ~死ぬかと思ったぁ~」

 読みやすさを重視して表記していますが、実際の狐の台詞は全て濁点がついていると思っていただければ幸いです。

「断末魔みたいな叫びを傍で聞かされた僕も軽い臨死体験だったぞ。危うく腰抜かすところだったわ。で、どうしてこうなった?」

 陽はそう言って、親指と王子の間で視線を行き来させます。とりあえず、心当たりがあるならどちらでもいいから説明してくれ──そういう意図なのでしょう。

 狐がまだ呼吸を整えていることを考慮してか、王子が口を開きました。

「推測の域だが、余が思うに」

 王子はそこで言葉を切るや、眼球のみをゆっくりと動かして、部屋の隅々を見渡します。


「この部屋そのものに何か秘術が施されているのではないかと」


「──は?」

「だよねー。あたしも思ってた。ここチョー居心地いいもん。絶対フツーじゃないよね」

 思いもよらぬ王子の発言と、これまた思いもよらぬ狐の同意に、陽は困惑します。

「ち、ちょっと待て。別にここ事故物件とかじゃないぞ?」

「事故物件かどうかはともかくさ、あたしらみたいなのが生活するのに、この部屋がチョー向いてるのは確かなんだよ。ずっとおかしいなーとは思ってたんだよねぇ。すでにあたしは結界の中なのに、陽ちゃんの躰に宿ってるだけでどうして平気なんだろうって」

「平気って──狸の結界って警報システムみたいなもんなんだろ?」

「それはあくまで結界が持ってる機能の一つね。もう一つ、結界に侵入した狸以外のオバケのエネルギーを吸い上げて、四国の狸たちに配分する的な機能があったはずなんだけど」

「──いや、マジで卑劣過ぎんか、狸?」

「だから、そういう連中なんだってばぁ~。で、いつそこらへん変えたんだろーとか、どうしてその──王子ちゃん? 平気なんだろうなー、もしかして狸の要素混じってんのかなーとか考えてたんだけど、そっか。やっぱ部屋がおかしかったんだねー」

 うんうんと頷く王子と狐(もっとも実際に頷いているのは親指ですが)に挟まれながら、陽は記憶を辿ります。

 この部屋が、鬼神の生息環境として非常に適している? かと思えばそれは自然発生的なものではなくて、術による人為的なもの? そんなことができる人間、自分の知り合いにいるわけが──。 


「いや、いるじゃん。姉ちゃんじゃん」


 記憶の旅をスタートしてから三秒と経たず、心当たりのある人物にヒットしました。王子が弾かれたように陽の方を見ました。狐も──眼こそ付いてはいませんが、多分王子と似たような目つきをしているはずです。

 陽は手遅れだとわかっていながら、口元をそっと左手で隠します。

「父上、姉上がいたのか?」

「いや、まあ、いるけどさ」

「だとしたら、礼を言っておいた方がいいと思うぞ。世辞ではなくこの部屋の鎮静作用は素晴らしい」


「──鎮静作用?」


 アロマ的か何かでしょうか? そう思いすんすんと鼻を鳴らしてみますが、陽の鼻腔を何かがくすぐることはありません。恐らくは彼らのような存在しか感じ得ない、何かが漂っているのでしょう。ひとまずは、そのように結論付けておきます。

「ねー。個体差はあるだろうけど、もしこれがなかったらあたしら五割増しくらいでアグレッシブになってるよ」

「マジか。今度フツーに姉ちゃんにお礼言っとくわ」

「余が思うに父上の能力を考慮してのことだろう。父上が意図せず鬼神を顕現したとしても、この術式の中では父上に物理的危害を与えられる鬼神など、生まれようもない」

 確かに──陽はこれまでこの体質が災いしてそれなりに危険な目にも遭ってきましたが、言われてみるとそれらは全て外での出来事。

 この家にいて遭遇した鬼神たちは、何だかんだでコミュニケーションが普通に図れるというか、まあジジイとは図れませんが、それでも決して極悪非道な連中ではありません。傍迷惑かどうかは別として。

 とどのつまり、その鎮静作用とやらがなければ、この小説はとっくにほんのり性的なコメディ路線から血と脂でギトギトのスプラッタホラーへとシフトしていて、そもそも『妖に寄らば尾っぽが増え神に寄らば尾っぽが減る類のロリ』まで続いていなかった可能性さえあるのです。

「しかし、これほどの術者が身内にいるのであれば、此度こたびの件、助力を得ることはできないのか?」

「そーだよー。助けを乞おうよー。ついでに狸もこの土地から一掃してもらおうよー」

「おい、どさくさに紛れて人様の身内にとんでもない野望託そうとしてんじゃねぇ。いやぁ、でも──姉ちゃん忙しいっていうかさ、うん」

 陽の歯切れの悪さに、二人、否、二匹? ええいっ、数え方のややこしい連中です。兎角王子と狐は何かを察してしまいます。

「何? お姉ちゃんと喧嘩でもしてるの?」

「姉弟の間で何か確執があるのか?」

「喧嘩っていうか確執っていうか──」

 陽は、どこかふらふらとした足取りでテーブルまで向かうと、そこに両手を着きました。


「ただただ、僕が"隷属"させられているというか──」


「あー、あい分かった。とにかく、その姉上に頼むのは奥の手中の奥の手としよう。幸い父上の身にも狐の身にも今のところ異常はないのだ」

「まあ、そこまで急ぐ理由がないのも確かだよねぇ。人の躰に居座ってる身分が言うのもアレだけど。あーあ、他に誰か案を出してくれるオバケでも──え? 何で陽ちゃんも王子ちゃんもそっち見てんの?」

 狐の言う"そっち"とは、居間の外──正確に言えばトイレのある方角でございます。

「もしかしなくても、今同じこと考えてるか?」

「恐らく。厠神であれば何か知恵を授けてくれるかもしれん」

「なあ、前から疑問だったんだけど、何でお前アイツと話せるんだ?」

 トイレに向かおうとしていた足を止めて、王子は陽の方を見ます。


「余に限らず、そこの狐も話せると思うぞ。我らが厠神と話せるのは、人よりそうした存在に寄っているからだ。神の声を聞く人間がゴロゴロいては何かと不便だろう」


「ああ、そういうことか」

 確かに王子の言う通り街を行き交う人々が皆、神々と交信し、死霊を呼び寄せることができたとしたら、現代社会は立ち回らなくもなりましょう。便利と捉える人も中にはいるかもしれませんが──それと能力を持っていることに耐えられるかどうかはまた別問題です。

「つまり、一対一サシでジジイと話したいならシャーマンの修行をしろと。誰がするか。いいよ、任せる」

「ああ、では行って来る」

 王子が居間を後にしたのを見計らってか、ねぇねぇ陽ちゃんと狐がひそひそ声で言いました。もし狐に人の形が与えられているとしたら、両の爪先をぴんと伸ばして耳打ちしているところでしょうか。

「訊きたいんだけどさ、あの王子ちゃんって何者?」

「何って──中国のオバケ?」

「そこ何で疑問形だし。いやいや、チャイナ感ゼロなんだけど。何でああなっちゃったワケ?」

「何でって──壁にぶつかったら?」

「はあ──つまり壁にぶつかったら陽ちゃんにとって"無害"な存在になっちゃったと」

 ふうんと狐は何やら意味ありげな間を持たせます。

「何だよ?」


「べっつにー。あっ、あともう一個クエスチョンなんだけどさ、王子ちゃんって陽ちゃんと千影ちゃんのこと、父上母上って呼んでるでしょ? アレってもしかして、二人が昨夜やってたみたいなことの"延長"だったりする? ううん、引いてるワケじゃないんだよ? ただ、郷に入っては何とやらって言うし、もしここにしばらく住まわせてもらう上でそういう役が課せられるんだとしたら、あたしだってそれは守らなくちゃなーって思うし。だとしたら、あたしはさしずめ陽ちゃんの妹ってとこかな? ボイス的に。あっ、一応確認しておきたいんだけど、そうなると陽ちゃんのことお兄ちゃんって呼ぶ、周りにいる? ほら、いたらキャラ被りだし、申し訳ないじゃん? いるならいるで、あたしもお兄さまとかアニキとか、色々練ってかなきゃだし。あーでもよく考えたらあたし今ビジュアル親指なんだよねー。──ねぇ、お兄ちゃん。この超絶愛されボイスで親指からお兄ちゃん呼ばわりされるって、正直どんな気持ふがががっ」


「おー、どうだった?」

 右の親指を素知らぬ顔で鷲掴み、尚且つ捻りを加えながら、陽は戻って来た王子に尋ねます。

 王子は釈然としない面持ちで、

「不思議な報せが一つあるのだが」

 と言いました。

「良いも悪いもなしに不思議って何だよ。反応に困るな」

「いや、その、話す上で出向くと言っている」

「出向く?」

 と、狐がひぎぃと頓狂な声を上げました。

 陽は何だ尾っぽでも踏まれたかと一瞬思いましたが、今の狐は親指なので当然踏んづけられようもなく。何とはなしに目線をトイレのある方角へ向けたところで、絶句しました。


 ジジイが、ドアをすり抜けて居間に現れたのです。それも──何故か匍匐ほふく前進で。


 ジジイには下半身がありません。腰から下が浮世絵の亡霊のごとく透けています。必然匍匐前進となると両腕のみを駆使せざるを得ません。さらに、その両手はお馴染みのトイレグッズで塞がっております。

 はっきり言って、滅茶苦茶動き辛そうです。トレードマーク的な意味で手放せないのでしょうか。

 ジジイが顔を上げました。眼には鋭い点のような光が宿っています。しかし、どうもぎらついているのは眼光ばかりと言いますか。顔面蒼白、息も僅かに乱れているように見受けられます。

 ジジイが王子の方を見ました。王子は頷いて、彼の傍に従者のごとく片膝をつきます。ジジイからの耳打ちを受け、立ち上がった王子は凛とした面持ちでこう告げました。


「やっぱ、しんどい──と」


「見りゃわかるわ! 帰れよ!」

「えっ、ちょ、ナニ? このジジ──ナニ?」

「この家の厠神だ。今は厠から離れているので──その、何なんだこれは?」

 もはや王子ですら説明に困る有様です。

「僕に訊くんじゃねぇ。なあ、神様なんだし、せめて浮くとかできないのか?」

「本来の力を発揮できる場所から離れているのだ。浮くすべ自体は持ち合わせておいでだろうが、居間ここでそれを使うのは酷というものだろう」

「ええっ、飛ぶ? アレ、やだぁ、飛ぶの?」

「いや、そんなやだぁゴキブリって飛ぶの? みたいなノリで言ってやるなよ。流石にちょっと可哀想になってきただろ」

 ジジイはうつ伏せのままたもとに手を入れようとしています。ただ、言うまでもありませんが、彼の手はトイレグッズで塞がっているので、上手い具合にはまさぐれません。

 トイレブラシとトイレットペーパー。

 双方の間をジジイは数回目で往復しました。苛立たしげに眉根を寄せるや、普通にそれらを放り投げました。


「捨てれんのかよ!」

「捨てていいのか!」

「捨てれるんかい!」


 陽と王子と狐による三者三様のツッコミが綺麗──かどうかはさておき、ハーモニーを生み出します。

 ジジイは袂から何かを取り出します。彼の掌には、碁石が四個──白と黒がそれぞれ二つずつ。ジジイはそれらを握り込み、かちゃかちゃと音を鳴らし始めました。

 何かのまじないでしょうか。全く期待していなかった存在が唐突にそれっぽいことをし出したので、陽たちはつい見入ってしまいます。


 かちゃかちゃ、かちゃかちゃ、かちゃかちゃ、かちゃかちゃ。


 どれくらいの間、陽たちが固唾を呑んでそれを見守っていたのかは、オノマトペの数からご推察ください。

「ねぇ、ありえないとは思うんだけどさ」

「ああ」

「これ、アレじゃない? ペン回しみたいな」

「呪いの類ではなく、単に頭を活性化させるための手遊びに過ぎないと?」

「そうそう。とりあえず何かイイ案ひらめくまでやっとくぅーみたいな」

「ははは、いやいや、いくら何でもそんなお粗末な」

 かちゃかちゃが不意に止まりました。


 ジジイは陽と目が合うや、唇の片端だけを吊り上げて──力強く頷きました。


「お粗末なのかよ! あと、しんどいくせにここで粘ってんじゃねぇ! トイレで考えてから出て来いよ!」

 陽のツッコミも何のその、ジジイは王子に向かって手招きを致します。何故か掌を上にしたアメリカンスタイルでした。

 王子は、再びジジイの隣に片膝を着きます。ジジイが彼に耳打ちをせんとしたその瞬間、なけなしの毛髪から、汗ではない"何か"が王子の肩に滴り落ちました。陽の口から思わず、あっと声が上がります。まあ、ジジイの出処でどころを考えれば、何の水滴であるかは言わずもがなでありましょう。

 なるほどと王子は頷いて、立ち上がる際、明らかに故意とわかる足運びでジジイの手の甲を踏みつけました。のたうち回るジジイ。飛び散る得体の──本当は知れているのですが、知れない水分。

 陽はと言えば、もはや喜怒哀楽のどれを示していいものかわからず、ただただ頬を引きつらせる他ありません。

「──何だって?」


「ああ、ただ虎列剌コレラ──と」


 ──虎列剌?

 陽は、首を傾げます。その名称自体は歴史の教科書で見知っている程度ですが、それとこの状況に一体何の関係が──。

 そのとき、親指からあっと声が上がりました。

 トイレブラシを再び手にしたジジイが、先程までの緩慢な動きは何だったのかと言いたくなるような機敏さで王子の足許に詰めるや、彼の脛を強かに打ったのです。

 のたうち回る王子。小さくガッツポーズを決めるジジイ。人外同士のあまりに低次元な争いに目眩を覚える陽。えーこの上空飛ぶとかないわーこのジジイとドン引きの狐。

「父上」

 程なくして、何事もなかったかのように王子が立ち上がりました。手櫛で髪を整えたあと、かつてないほどのアルカイックスマイルを浮かべて──というより、どうにかこうにか顔面に貼りつけて、こう言いました。

「悪いが五分ほど、廊下に出ていてもらえないだろうか」

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