『妖に寄らば尾っぽが増え神に寄らば尾っぽが減る類のロリ』・弐

 千影が朝食の準備をしている間、陽は親指から情報収集を図りました。

 全員が一堂に会すると、鬼神の声が聞こえない千影は、どうしても仲間外れになってしまいます。その辺りは──視える立場の陽にできるせめてもの配慮でございました。

 もちろん親指の年端もいかぬ少女然とした口ぶりから、話の内容をある程度まとめておいた方がスムーズに事態を進められそうだな──と思った向きもあるのですが。

 台所にいる千影から声が掛かり、陽は膳を運びます。

 献立は、つやのある粒立ちの良い白米、ネギの緑がよく映える油揚げと豆腐の味噌汁、そして白ごまを振ったキュウリの塩もみ。

 まさに、お手本のような和朝食でございます。

 千影からお握りにしましょうかと提案がありましたが、陽はそれを丁重に断りました。利き手の逆でも問題なく食べられるようにという配慮でしょう。そんな気遣いに、危うく咽び泣くところでした。

 おぉ油揚げだ──と親指から感嘆の声が上がります。

 はい、陽の体内に何が潜んでいるのか、すでに若干ネタバレしたわけですが、何も聞こえなかったことにして話を進めます。

 いつもの席に着き、いただきますと言って手を合わせたところで、陽は口を開きました。


「どうも──僕の親指には狐が憑いているらしい」


 陽には一瞬、本当に幽かだったのですが、千影が吹き出しかけたように見えました。まあ、彼女の立場になってみれば無理もありません。朝餉あさげの席に着いて、恋人が発した第一声がこれでは──。

 どうでしょう。笑えるでしょうか。

 正直、救急車を呼ぶか否か思案するやもしれません。

「狐──ですか」

「なあ、今ちょっと笑ったよな?」

「いいえ、笑っておりません」

「いや、ホントちょびっとだけど」

「笑っておりません」

 そうだなと言って、陽は顔を伏せます。こんな押し問答に時間を費やしている場合ではありません。そう、これは気持ちを切り替えただけ。賢い大人の判断です。断じて、彼女の圧に折れたわけではありません。

「ねぇねぇ、陽ちゃん」

 幼い声色のせいでしょうか。発生源が自身の親指であるにもかかわらず、子どもに袖をくいくいと引っ張られるような錯覚を覚えてしまいます。

「何だよ?」


「夕べはあんなに千影ちゃんに対して強気だったのに、どうして朝になったらそんなにあ痛っ」


 陽は、無言のまま親指の第二関節を指で弾きました。

 どうかされましたか──という千影の問いに、いいや何でもないと食い気味に答えます。

「それで、どうして狐さまは陽さまの親指に?」

「あー正確には親指限定で憑いてるわけじゃないらしい。親指が大きくなってるのは、あくまで憑かれたことで起きた躰の変化っていうか」

「そうそう。親指がでっかくなってるからって、そこに稲荷寿司のお米みたくあたしがつまってるってわけじゃないんだよー」

 お前それ絶対稲荷寿司のたとえ言いたかっただけだろ──と頭の隅で思いつつ、陽はあえて口には致しません。

「そうですか。では、どのようなきっかけで陽さまの躰に?」

「さあ、その辺は憶えてないらしい。昨夜の時点ではもう僕の身体に憑いていて、その──」

「その?」

 いいや何でもないと言って、陽はかぶりを振ります。

 憑いたきっかけは憶えていないが、憑いてからのことは憶えている。そして、昨夜の時点ではもう陽の中にいた。最初から陽のことを名前で呼んだこと、夕べの陽が千影に対して"強気"だったことを狐が知っているのは──まあそういうことです。

「そうなると、何から狐さまが喚起されたのかも、今の段階ではわからないと」

 そこなんだよなぁと言って、陽は腕を組みます。

 陽は、鬼神を視る特殊な眼を持っています。見るどころか言語(ときに肉体言語を含む)によって対話し、触り触られることさえできるので、より正確に言えば体質でしょうか。

 そんな彼が鬼神の発生しやすいスポットやアイコンと接触することで、彼らはそこに顕現されます。事実、これまでトイレではジジイが、浴室ではよくが顕現されてきました。しかし、彼の思い出す限りでは、化け狐にまつわるようなそれに触れた憶えはありません。

「で、親指ここから出て行くこともできなくはないみたいなんだけど」

「そうもいかない事情があると」

「ああ、迂闊に出て行ったら、その──狸にやられるとか」

 そう言いながら、陽はここで初めて箸を手にしました。会話に集中するあまり、箸を持ち忘れていた──というわけではありません。むしろ、手にすることを恐れていたとでも言うべきでしょうか。

 実際に箸を動かしてみると、

「うわぁ──」

 悪い意味で予想していた通りの光景に、思わず声が漏れます。

 あくまでそう見えるだけなので、物理的な支障は皆無なのですが、それでも知覚の大部分を占めているのが視覚であることは事実。まさか箸を扱う上で親指がデカ過ぎて邪魔だと思う日が来ようとは、夢にも思いませんでした。

「陽さま。スプーンでしたら」

「ああ、わかってる。ちょっとどんな具合かなって試したかっただけなんだ」

 元より箸さばきに絶対の自信を持っていたわけでもなし。陽は、用意されていたスプーンに持ち替えます。平皿ならともかく茶碗に盛られた白米をしかもこの年になってスプーンで掬うというのは、何だか妙な心地が致します。

「確かに、この地方は狸王国ですからね」

 陽は一瞬眉根を寄せて──図らずも脱線させてしまった話が戻って来たのかと思い至り、狐と話した内容を思い返します。

「ああ、弘法大師に追い出されたんだろ?」

「よくご存知ですね」

「ついさっき存じ上げたんだよ。コイツから聞いた」

 そう言って、陽は再び親指の第二関節を弾きます。

「いちいち弾くな~目が回る~」


 ──親指限定で憑依しているわけではないと主張したわりに、親指への衝撃に対するこのリアクションは一体何なのでしょう。


 さて、冗談っぽく片付けられておりますが、実際のところこれは彼女にとって如何いかほどの衝撃なのか。ヒトで言う脳震盪のうしんとうレベルでないことを祈るばかりです。

「こっちだって色んな意味で目ぇ回ってるよ。何でもコイツ自身は何の悪さもしてないのに、とばっちりで追い出されたらしい」


「そうなんだよー。あたしなーんにもやってないのにさー。しかもだよ? 狐は追い出すクセに、同じように化ける狸はそのまま住まわせるって言うんだよ? あのボーズ! 狸はバカで愛嬌があるからって。えっ? どういうこと? そんな一昔前の体罰推奨派根性論大好き教師じゃないんだからさ。おバカなヤツほど可愛げがふがっ」


 陽は親指を握りしめることで、狐の発言を強引に止めました。これ以上罵詈雑言を続けられると、然るべき団体からお叱りを受けると思ったからです。

 さて──狐が四国を追放された経緯については大別して二つの説がございます。

 狐は狡賢ずるがしこく悪戯が過ぎるからと弘法大師によって追いやられたという説、もう一つは伊予の国主である河野通直こうのみちなおの奥方に、狐の頭領が化けたことで彼の逆鱗に触れ、他の化け狐もろとも追いやられたという説です。

 この場合、内容が内容なのでどちらが"真"であるかを突き止めるのは、野暮というものでございましょう。どちらがいわゆる元ネタなのかを突き止めることは、可能でしょうが。


 ただ、少なくともこの狐にとっては、前者の説が"真"のようでございます。


「つまり、狐さまは連帯責任によって追いやられた妖狐の一味──ということでしょうか?」

「ピンポーンって言ってあげたいところだけど、半分はブッブーなんだよなぁ」

「いや、狐は狐なんだけど、どうもコイツは妖狐じゃなくて神様の使いってヤツらしい」

「それは、稲荷神様の神使しんしということですか?」

「うん、多分それ。そういうのってさ、あり得るのか? 妖怪だろうと神様だろうと狐は狐なんだし追い出しとけみたいな」

 陽の率直な疑問に、千影は口元に拳を当ててしばし考えます。

 さて、神使とは何をする役職かと申しますと、これは人間の願いを聞きます。

 いやいや、願いごとを聞くのは神様でしょというツッコミがありそうなものですが、こと稲荷信仰において人が神様に直接お願いをするというのはNGとされておりまして。とどのつまり、狐は神様と人の仲介を担うのでございます。

「実際、四国にある多くの稲荷では狸を祀っているので、あり得ない話ではないかと」

「マジか。そこんとこ結構雑なんだな」


「それなー。あとさ、あの、最後に本州と四国を繋ぐ橋が架かったら戻ってきてもいいよって言ったせいで、未来を予知してたーとか大層なこと言われてっけどさー。いやいやないから。あれはどう見てもンなモンできるわけねぇーだろってツラだったから。有情の欠片もなかったから。当時宣告されたあたしらからしたら、は? それ実質永久追ほががっ」


 陽は親指を握ったあと軽く捻ることで、再び狐の発言を強制終了させました。

 ちなみに稲荷で狸を祀っている件については、そもそも四国に狐が生息していなかったからでは──とする説があります。

 考えてみれば、見知った動物だからこそ信仰の対象として据えることができるわけでして。今ほど気軽に調べもののできぬ時代に、姿形のよくわからない動物を祀れなどと言われても、そりゃあ「はあ」としか言いようがありません。だったら、もうここらでよく見る狸でよくね──と。

 流石にそこまで大ざっぱではなかったかもしれませんが。そんなやりとりが四国に暮らす人たちの間で交わされたのかもしれません。

「では、狸にやられるとは具体的にどういう意味なのですか?」


「消されるんだってよ」


 穏やかでない表現に、千影が小さく目を瞠ります。

「消される──のですか? 狸に」

「正直僕も半信半疑だけど、何でもコイツが僕の躰を離れて五分もしたら、居場所を特定して群れでやって来るらしい。で、有無を言わさずボッコボコにされると」

「そーそー、信楽焼みたいな可愛げなんてちっともないからねー」

 狐は寝そべって、両手で頬杖をつき、足をぱたぱた上下させています。むろん現在のビジュアルは親指なので、あくまでイメージでございます。

「どうやって場所を特定するのです?」

「ええっと、四国全域に狸たちの神通力? で作った結界が張ってあるらしくって、そいつが狐の存在を検知するんだとか。──なあ、狸ってそんな危ない連中なのか?」

「狐に比べるといくさ好き──というイメージはありますが。しかし、御大師様の説に由来するのであれば瀬戸大橋が架かった今、狐さまは帰還を許されているのでは?」

「それはそれ、これはこれなんだとよ。徳の高い坊さんが許したからって俺たちが許すわけじゃねぇって話らしい」

「それで──狐さまは稲荷神の使いをされていると」

 千影は、緩く握った拳を口元にあてがういかにもインテリジェンスなポージングで、何やら考え込んでいます。異常事態の解決に対して、いつだって真面目な彼女ですが、今回はいつにも増して真剣に見えます。


 そう、何だか危ういくらいに。


 やはり、異常が直接陽の身に及んでいるからでしょうか。その緊張感を少しでも和らげられればと、彼は意図して楽観的な言葉を投げかけます。

「僕が言うのも変だけど、そんなに焦らなくていいんじゃないか?」

「え?」

「ほら、神様の使いってことは悪い狐ではないんだろうし、今のところ異常──もちろん親指を除けばだけど出てないわけだし」

「父上」

 これまでじっと事の成り行きを見守っていた王子が、唐突に口を開きました。陽は、何だよと言いたげな目線だけを彼に寄こします。

 王子はというと、アンティーク調の椅子に腰掛けて、銀食器に盛られたサクランボを食していました。サクランボは、何も陽たちが"お供え"したわけではありません。どこからともなく、王子が持ち出してきたものです。

 だから──というべきなのでしょうか。彼の愛用する洒落た家具と同様、ヒトが触れることは敵いません。


「随分、狐に甘くないか?」


「ぐっ」

 思わず、呻き声を上げてしまいます。正直、痛いところを突かれたからです。

 たとえば、この親指から聞こえてくるのが至って普通のオジサンの声だったとしたら、どうでしょう? 

 ──はい、念のため申し上げておきますが、御大師様のことではございません。オジサンという表記に引っ張られないでください。ここで例として挙げているのは、本当に至ってフツーのそこらへんにいるオジサンです。

 さて、話を戻しますが──どうでしょう? 

 今、陽の躰を離れれば、狸たちに酷い目に遭わされてしまう。そんなふうに縋りつかれたところで、いかにもモブっぽいオジサンボイスだったとしたら──。

 うるせぇンなこと知るかと言って無理やりにでも肉体から追い出そうとする──その可能性は大いにあります。というか、迷わずそうするでしょう。光景が目に浮かぶようです。

「陽さま」

「うん?」

「本当に親指以外で異常はないのですか? たとえば、左目に違和感があるとか、左足が痛むとか」

「いや、全然そんなことないけど」

「ははーん、おとら狐かな」

 陽は、目線で狐に説明を求めます。

「人に憑く妖狐だよ。憑かれると左目から目やにが出たり、左足が痛くなったりするの。陽ちゃん、今長篠の合戦についてモーレツに語りたかったりする?」

「──ンなことはねぇけど」

「じゃあ、大丈夫じゃない? それがおとら狐に憑かれてる人の特徴だから。というわけであたしは妖狐じゃありません! 紛うことなき神使です! 証明終了!」

「あー、とにかくその、悪い狐じゃないですよと主張している」

「──狐さまの姿は、陽さまに視えていないのですよね? たとえば毛並みの色であるとか」

「毛の色は白だよー」

「ええっと、白だって」


「──視えてはいないのですね?」


「そう──ですね」

 千影自身めるつもりはないのでしょうが、恋人に向けるものとしてはあまりにも鋭利な視線に、陽はつい丁寧語になってしまいます。

「では、そもそも本当に憑いているのが狐かどうかもわからないではありませんか」

「それは──」

 全くもっておっしゃる通りなのだけれど。

「ねぇねぇ陽ちゃん」

 陽は千影から目を離しません。というより、離せません。

 とりあえず、耳だけ狐の声に傾けます。

「あたし、ちょっと黙ってた方がいい感じ?」


 ──そう思うんなら、さっさとそうしてくれよ。


 そう、言ってやりたいところでしたが、ここで語気を強くするのも何だか可哀想といいましょうか、恋人との若干のギクシャクを八つ当たりするようでいやだったので、陽は僅かに肩を落としてから、こう言いました。

 

「いいんじゃないか。


 ──別に聞こえてないんだし。

 あっと陽が声を出したのと、かちゃんという甲高い音が響いたのは、ほぼ同時でした。

 正直なところ、そのかちゃんが何の音だったのかはわかりません。持ち上げかけていた陶器の皿を置いた音かもしれませんし、食器同士を誤ってぶつけてしまった音かもしれません。

 ただ、確信をもって言えることがあるとすれば、それは陽が立てた音ではないということだけです。

 陽は──ゆっくりと王子に目を向けました。

 王子は、何とも言えない面持ちで目を細めました。

「千影、今のは──」

 そこまで言って、陽は言葉に詰まります。

 今のは、何だと言うのでしょう? 自分は悪くないと言いたいわけではありません。言い方が悪かったことも重々承知しています。

 ただ、何をどう訂正しろというのでしょうか。


「お気になさらないでください。事実ですから」


 千影は平素通りの口調でそう述べて、静々と箸を進めます。

 陽もまた、僅かにためらいはすれど、結局それに倣うことにしました。

 沈黙に耐えられなかったのか、はたまた本気で我関せずえんなのか、親指から流れる鼻歌(それも何故かジムノペディ第一番)をBGMに淡々と口へ運ぶ朝食の味など、陽にはわかるはずもありませんでした。

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