第四話
『妖に寄らば尾っぽが増え神に寄らば尾っぽが減る類のロリ』・壱
ある日のことです。目を覚ますと、右手の親指がでっかくなっていました。
突き指で腫れたとか、そういう次元の話ではありません。もちろん、手品グッズとしてありがちなゴム製の親指を装着したさまを喩えているわけでもありません。本当に、親指を根元から引っこ抜いてフランクフルトと挿げ替えたのではないか──と見紛うほどに、それはでっかくなっていたのです。
少年は、しばし身動きがとれませんでした。鬼神の類はそれなりに見飽きて──もとい見慣れていましたが、如何せん自分の身に変化が起きたケースは数えるほどしか経験がなかったからです。
──ええ、生憎とゼロではありませんでした。
携帯電話のアラームで我に返ります。枕元のそれに手を伸ばして──そのとき、巨大化している親指が、携帯電話を掴む動作の妨げにならないことに気付きます。確かに液晶ディスプレイは親指の影に隠れて見えないのですが、その大きさでさえ一度に押せるキーは一つだけ。アラームは難なく止めることができました。
どうやら親指は彼の目に巨大化して見えているだけで、現実の大きさは変わらないようです。何だか当たり判定のいい加減なポリゴンのキャラクターに転生した気分でした。
少年は
「千影」
少女──千影はネギを切る手を止めました。
黒いリボンのついたカチューシャに、同じくウエストの左右にリボンのついた黒いワンピース。それでエプロンを身につけているのですから、何だかそういうカフェーのウェイトレスみたいでしたが、今しがた切っているネギは十中八九煮え
千影は、鍋の火を止めました。肌荒れ防止目的のビニール手袋を外すと、無言で少年を見つめます。決して責めるような眼差しではありません。思案する少年をよそに、千影はそっと瞼を閉じました。
──ああ、そういうことか。
照れ臭さからつい鼻の頭を右手の親指で掻こうとして──ぎょっとします。恋人の愛くるしさに、つかの間本気で巨大化の件を失念していました。胸を数回左手で撫で下ろして、とりあえず気持ちを切り替えてから。
少年は、千影と接吻を交わしました。唇を触れ合わせる程度のソフトなものでした。
「おはよう。千影」
「おはようございます。陽くん」
少年──陽は思わずくらりときました。妖しげな微笑みとともに、小首を傾げる仕草にではありません。いえ、正確にはもういい加減見慣れたと言っていいはずのそれにも大分ぐっときたのですが、問題は──。
「昨日は、えっと、何か色々すみませんでした」
口元を手で覆って、赤らんだ顔を背けるという乙女のようなリアクションをかます陽に、千影もまた口元を両の手で隠してくすくすと笑います。
「申し訳ありません。
「──ただ?」
「しばらくは、これだけで愉しめそうですね」
もはや、ぐうの音も出ませんでした。
陽さまではなく、陽くん。
それは、昨夜二人が事に及ぶに当たって取り決めたセーフワードでした。
セーフワードって何ぞ──と首をお捻りの方にご説明しますと、口では
つまり、冗談抜きでヤバいと判断したときはそのワードを唱えろ──ということですね。はい、これ以上の
ちなみに、セーフワードが要るような行為に及ぼうと先に提案したのは、千影の方です。エロエロですね。とはいえ、いかにも乗り気でないオーラを醸し出していた陽もいざ幕が切って落とされるやノリノリだったわけですが。
つまり、片やエロエロで片やノリノリだったわけです。
──愉しそうですね。
「ホント悪いヤツだな」
「昨夜は陽さまの方がずっと悪い
そう言って、幽かに首を傾けて見せる千影の笑みからは、そこはかとない強者の余裕が感じられます。
悪い男。その言葉の意味するところを察して、陽は頬を引きつらせます。昨夜の反動でしょうか。立場が完全にスイッチしていました。ちなみにスイッチというのはそういう界隈で言うところの責め手と受け手のポジションが──もう止めましょうか? この話。
「なあ、言っとくけどアレは、通知とかで、その、盛り上がってるところ邪魔されたら
そこで、陽の唇は千影の人差し指と中指に塞がれます。
「ところで、どうされたのですか? 親指」
千影にそう指摘されて、陽はサムズアップしたままの右手に目線を落とし、ようやっと彼女の元へ向かった当初の目的を思い出します。
陽は、親指を千影に見せました。解放された唇から言葉を紡ぎます。
「これ──どう見える?」
千影は目をぱちくりさせると、
「はあ」
と気の抜けたような声で呟いて、陽と同じように親指を立てました。
あまりにも──唐突かつ与えられている情報が少な過ぎたので、本気でどうしていいかわからなかったのでしょう。陽からすれば、その反応だけでこれもまた彼女には視えない鬼神由来の異変であると、確信を持つに充分だったのですが。
「でっかくなってるんだ。親指」
「──耳ではなく?」
「ゴメン。気持ちはすごくよく分かるんだけど、その返しは求めてない」
すっごくよく分かるんだけどなと念を押してから、陽は話を続けます。
「ハンマーで叩いて腫れたとか、ハチに刺されたとか、そんなもんじゃないんだ。親指とフランクフルトが入れ替わったみたいなレベルでさ」
「何と、申し上げたらよいのでしょうが──」
千影は、下唇辺りに指を添えて思案の面持ちを浮かべています。本音では、お前本当にネタに事欠かないヤツだなくらいは言ってやりたいところでしょうが、陽には甘々な彼女のことです。きっと言葉を選んでくれているのでしょう。
「陽さまは本当にネタに事欠かないのですね」
「ああ、全くもって否定はしない」
はい、そうでもありませんでした。ちょっと口調が丁寧なだけでした。神妙な顔付きこそそのままなので、千影なりに言葉を選んでのこれなのかもしれませんが。
「しかし、親指の大きさが変わるというのはまた妙なお話ですね」
独り言のように呟きながら、千影は味噌汁の入った鍋にフタをして手を洗い出します。
あ──と、陽は思わず声を上げました。
「何か?」
「いや、その、僕から声掛けといてなんだけど別にそんな急がなくていいんじゃないかって」
千影が、幽かに眉根を寄せます。残念ながら、陽はまだこの表情の変化に気付いておりません。
「ほら、親指が大きくなっただけなんだしさ。しかも、大きくなったように見えてるだけ。ケータイだって普通に操作できるし。だからさ、気にせずご飯作っててくれよ。今回のこれだってきっと大したことじゃない──んじゃないかな。うん、その、経験からの予想なんだけど」
陽の声量が次第に
「えっと、千影さん?」
「何ごとにも初めてはあります」
ああ──と陽は固い声で言って、小さく顎を引きます。
「その初めてが、これではないとどうして言い切れるのですか?」
この馬鹿げた異変が、どうしてこれまでと同様、命に関わることはないと断言できるのか。
知らず──歪になった奥歯を舌でなぞっていました。忘れたわけではありません。軽んじていたつもりもありません。ただ、千影ほど重くは捉えていなかったといいましょうか。
「陽さまの私に負担をかけまいとするお気持ちは大変嬉しく思います。ですが、そういったお気遣いの仕方は、返って心苦しいばかりです」
二人の間に、沈黙が降ります。居心地が良いとも悪いとも言い切れぬ、複雑な雰囲気です。
何と口にしていいものやら、掛ける言葉を探しながら、陽が千影の薄い肩に手を伸ばした、そのときでした。
──ちゃん。
陽は、弾かれたように周囲を見回しました。最初に彼が疑ったのは居間のテレビでした。電源は点いておりません。次いで窓に目を遣りますが、こちらも開いてはおりません。
陽は、不思議そうな面持ちでこちらを見る千影にこう問いかけます。
「何か、喋ったか?」
千影は、いいえと言いながら小さく
それはそうでしょう。今しがた陽の耳に届いた声は、千影のものにしては些かピッチが高過ぎました。当然、居間でモーニングティーを嗜んでいる
陽は、恐る恐る顔をトイレの方へ向けて──。
いやいや流石にそれはねーよと自分に言い聞かせました。あのジジイがあんな幼女に片足突っ込んだみたいな声域の持ち主であるはずがありません。というか、心底あってほしくないです。
そもそも、あのジジイは喋らないではありませんか。
──はて、冷静に考えてみればどうして喋らないのでしょう。それとも喋れないのでしょうか。トイレの神様におしゃべり機能なぞ不要であると、そういうことなのでしょうか。
当惑する陽の耳へ、それは再び届きます。
今度ははっきりと、意味のある言葉の連なりでした。
「陽ちゃん? 聞こえてる? 陽ちゃーん!」
ちょっと舌足らずで、どことなく悪戯っぽさを感じさせる少女の声。
陽は──絶句しました。もちろん聞き覚えのない、実在するかもわからない存在にいきなり名指しをされれば、大抵の人はそうなるでしょう。しかし、理由はそれだけではありませんでした。
少女の声は、巨大化した親指から聞こえているのです。
「ねぇ、ぜったい聞こえてんじゃんかぁ~! 陽ちゃーん! ムシすんな~!」
フランクフルト大の親指が、ロリの人格を宿して自分に話しかけてくる光景。
陽は、思わず物理的にくらりときて──。
何とか壁に手をついて堪えました。
色々な衝動もひっくるめて、飲み下しました。
「前言撤回だ。千影、協力してくれ」
陽の素直な申し出に、千影は優しげに目を細めて、
「陽さまのそういうところが、私は好きですよ」
と言いました。
陽は、しばし彼女を見つめてから、ゆっくりと口をへの字にしました。一体どこに好意を示されたのか、皆目見当もつきませんでした。
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