『幸福論またの名をシリアス回あとボブではない方のサップ』・下

 千影は目を覚ましました。

 こっそりと陽の腕の中を抜けてとこを離れます。テーブルの携帯電話を手に取りました。液晶の時計は丑三刻うしみつどきを指していました。

 短縮ダイヤルに登録している彼に電話をかけます。頻繁に連絡をとる相手ではありません。できることならたとえ急用があったところで、口を利きたくない部類の相手です。

 にもかかわらず、彼の名前がそこにあるのは──こと鬼神の関わる事象において、こと命に関わる事態において、間違いなく彼が役に立つからです。

 そう、命に関わる事態。歯が折れただけだと陽は言いました。しかし、それは今日に限った話です。明日は違うかもしれません。極端なことを言えば一分後、一秒後だって。

 もう、隣に居ないかもしれません。


 居て──くれないかもしれません。


 コールを数えながら、千影は肩越しに振り向きました。陽はまだ寝息を立てています。本当は、彼が眠るまで狸寝入りでやり過ごして、眠り始めたらすぐこうして連絡をするつもりでしたが──どうにも普通に寝入っていたようで。

 それは、ひとえに恋人の腕の中が心地良かったからであると我ながらどうにもこそばゆい責任転嫁をしたところで、電話が繋がりました。

 相手の返事を待たずして、千影は固い声で伝えます。

「貴方に、頼みたいことがあります」


 どうして──中華料理店こんなところにいるのでしょう。

 カウンターに頬杖をついて、忙しない厨房の風景を見るともなしに眺めながら、陽は自問します。リベンジに来たのかと問われると、それは何やら違う気が致します。そもそも、やり返せる次元の相手ではないでしょう。

 たかが雪隠せっちん、されど神様──より突き詰めれば、相手は神様の下すばちそのものなのです。古今東西神様に喧嘩を売るお話は数あれど、神様が起こす現象や変化を迎え討てというのは──神そのものにあだをなす以上に、何だかとてつもなく途方もないことであるように、陽には思えてならないのです。

 恐らくは、神様という単語を聞くと何とはなしに人型をイメージできるのに対して、罰という単語からは──それなりに色々と候補が頭を過ぎりはすれど、人型へ結び付けることが難しいからではないでしょうか。


 否、難しいというより、罰という単語に人の型をあてがうこと自体が、ふさわしくないと言うべきでしょうか。


 形さえある相手なら、さて何か手立てはないものかと策を練るゆとりも生まれましょうが、形さえもないというのであれば──それはもうお手上げという心持ちが致します。

 さて、一頻ひとしきり話が逸れましたが、結局のところ何故ここにまた足を運んだのかと訊かれたら、陽の脳裏に浮かぶのは何処いずこかへ電話をする千影の姿。

 恋人に危ない橋を渡らせないため──とでも言えばいくらか格好もつきましょうが、単に千影が電話をしていた何処ぞの彼がちょっとばかし気に喰わないという思いもありますし、神様だろうが何だろうがやはり一矢報いてやりたいという浅はかさも隅っこに潜んでいるような気がします。

 陽は、隣に目を向けました。一つ席を空けて座るこの大学生風の青年には、自分がどう見えているのでしょう。これから戦地におもむかんとする、つわものに見えているでしょうか。油染みがあちこちに跳ねた白い制服に、まだあどけなさの残る顔付きをしたこのスタッフには──。


 見えていないか。


 どちらにも。

 いや、視界にこそ入っているのでしょうが。

 せいぜいアンニュイな顔付きのまま、いつまでたっても注文しないおかしな客という位置づけくらいで。

 どうにも──自意識が過ぎます。それほどまでに、自分が他人の意識の中心にいるはずがないでしょうに。

 彼らは知りません。店のトイレに何がいるのかを知りもしないし、恐らくは今後知覚する運命にもないでしょう。

 ああ、そうか。

 陽は、改めて思います。


 自分以外にとって、アレは「いない」のだな。


 陽は席を立ちました。トイレに向かうその足取りは特別重くもなければ、軽くもありません。

 ドアが閉まり、鍵がかかると──程なくして中から物音がしました。

 それは、近くの席でラーメンを啜っていた男性客が箸を止めて、しばしトイレの方を注視する程度には大きな物音でしたが、だからといって不審に思いドアをノックするまでには至りませんでした。

 だから、そこであった出来事を目にした者はいません。


「以前にも申し上げました通り、かわやは異界の入り口なのです」

 千影に膝枕をされながら、陽は彼女の声に耳を傾けています。

「ですが、ただただ恐ろしいものとして捉えられていたわけではありません。たとえば身重みおもの女性は厠を綺麗にすると美しい子を授かると言われています。厠の神様は綺麗好きな女性の神様で──荒神さま、箒神さまと共にお産の神様を担っているのです」

 僕にはジジイにしか見えないけどな──と陽が苦笑混じりに口を挟みました。

 千影はそうですねと小さく笑って、陽の頬を指先で撫でます。触れているのかいないのか、しかし決してくすぐったくはない繊細なタッチです。少しだけ2Pにやられた青痣の痛みが引いた心地がしました。

 まるで子守唄か詞の朗読を聞いているような気分でした。いや、如何に優れた歌い手や読み手のそれであろうと、耳を傾けているだけでこんな──心地よさに浸れることはないでしょう。

 だから、これもまた彼女に限った話なのだろうなぁと陽はぼんやり思います。

「便所の年取りや手水場祇園ちょうずばぎおんのように、神仏かみほとけが現世にやってくる日に厠をまつる伝承がこの国には数多くあります。そのような神とご縁のある場所だからこそ、唾を吐いてはならないのです。もうひとつ──厠に唾を吐くことで排泄物の穢れが口から入るのではないかという感覚から、これを禁忌とした部分もあるのですが」

「話が長いよ千影」

 千影が一瞬だけ目を丸くしました。それから、陽の耳たぶを人差し指でやさしく弾きます。

「叱っているのだから当然です」

 陽の瞳には、千影の穏やかな表情が映っています。きっと彼女の瞳にも似たような面持ちが映っているのだろうなと陽は思います。

 説明が一段落したところで、千影は少しだけ困ったふうな眼差しを陽に向けました。彼女が何を訊きたいのか、陽にはわかっていました。だから、彼女がそれを言葉にするよりも先に、口を開きました。


「僕は、きっとアイツに打ちのめされるために行ったんだと思う」


 いつも通り含蓄がんちくを披露してくれたら良かったのです。あの夜、何故トイレに唾を吐いてはいけないのかを懇々と教えてくれたら良かったのです。歯の一本や二本なんて意に介さず、笑い話に変えてくれたら良かったのです。

「打ちのめされて、あんなことはするもんじゃないと、こうして千影に叱られるために、もう一度バチに当たりに行ったんだ」


 だから──言わばこれはリテイクなのでしょう。


 望み通りにいかなかったのですから。

 事態を深刻に捉え過ぎたあまり、彼女はこちら側へ足を踏み入れようとしてしまったのですから。

「僕はこれからもきっとだと思う。普通の人には見えないヤツらと、ときにぶつかって酷い目に遭うんだと思う。だから、千影はそんな僕に付き合ってくれ。ああ、仕方ないな、この人は。私がいないとダメなんだなって。膝枕して、叱って、甘やかしてくれ」

 千影が、僅かに目を細めます。瞳の奥に動揺の色が潤んでいました。


「僕が千影に望んでいるのはそういうことだ。僕のために怖い思いをしないでくれ。自分を犠牲にしないでくれ。見えないものを視ようとしないでくれ」


 君はそちら側でいてくれ。

 誰よりも愛しているから。

 陽の頬に、真っ直ぐ滴が落ちました。手で受け止めなかったところから察するに、本当に知らず零れてしまったのでしょう。千影は堪えるように下唇を噛んで、けれど堪え切れないとわかるやこうべを垂れて。

 顔を──両手で隠してしまいました。

 陽は、そんな彼女の手の甲にそっと自らの手を重ねて、

「大丈夫だよ。たかが、歯が折れただけさ。死んじゃあいない」

 しばしすすり泣く声に、心を傾けていました。


「なんだ結局使わなかったんだ」

 電話が繋がった矢先にそう言われて、千影は思わず辺りを見回しました。

 彼の悪戯っぽい笑い声が耳につきます。

「カメラなんて仕掛けちゃいないよ。カメラはね」

 いちいち──かんに障る言い回しです。

 千影は目を閉じて、自らにこう言い聞かせます。

 動揺を悟らせるな。不快を気取られるな。無に徹しろ。

 別にそうしなければ命を奪われる事態に陥るわけではありません。ただ、悔しいのです。思えば他の人物に自身の行いを先読みし、からかわれた程度でこれほどの不快感を覚えることはないでしょう。そうなるとこの悔しさもまた、彼に限った話であるように思われます。

「お借りしていたものですが、お返しします」

「そう。まっ、最初から使わないってことはわかってたけどね」

 会話が──成立しているような、いないような。


 千影は、傍らのバニティケースに目を向けました。


 西洋画を彷彿させる筆触ひっしょくで描かれた和の花々がボックスを彩る、至って普通のバニティケース。少なくとも彼女の目にはそう見えます。陽や彼のような──視える者の目には異質なそれとして映るのでしょうか。

「あっ、だからって偽物を渡したわけじゃないよ? 今の陽くんに視えてる程度の連中なら、それは充分に対抗し得る。もし使えたんであれば感想を聞かせてほしかったんだけど──ちょっと残念」

 そう言う彼の言葉には、毛ほどの真心も込められておりません。そもそも「もし使えたんであれば」とはどういうことなのでしょう。視えない者でも鬼神を退治し得る手段がほしい──と要求したのは自分ですが、いざというときに「使えない」未来もあったということでしょうか。

 千影はついとこめかみに触れます。何やら頭痛がしてきました。

 ねぇ──と彼が言います。

「どうして止めちゃったの? 声すら聞きたくない相手に頭まで下げて、大事なカレシを傷付けた存在を消してやるって覚悟決めたんでしょ。なのに──あっさり覆した」

 なんて意味のない質問でしょう。

 千影は眠っている陽に目を向けました。寝息は聞き取れませんが、今度こそは正真正銘眠っているように思われます。こうして見つめているだけで、いくらか自分の焦燥が和らいでゆくのがわかります。

 千影は、心持ち長く息を吐きました。陽から──視線を切りました。


「陽さまが、それをお望みではなかったので」


 こちら側にいることが、陽の願いだから。

 電話越しに、彼の短い吐息が聞こえます。

「千影ちゃんはつらくないの? 本当に今のままでつらくはないの?」

 いつもの芝居がかった感じとは、少し異なる語り口。

 何が仰りたいのか理解に苦しみます──と。言ってやりたいのに言えません。

 彼が、彼なりに自分を心配してくれていることはわかっているのです。

「千影ちゃんは視える人の苦しみに寄り添おうとしている。でも、陽くんは視えない人の苦しみに寄り添おうとはしてない。視えない人も苦しいんだって多少察しはついていても、どこかで視えてる自分の方が遥かに苦しいって思ってる。この差は──」

 大きいでしょうと続くだろう発言に、

千暁ちあきくん」

 千影は、頼まれたって言葉にしてやるまいと決めていた彼の名前を重ねます。


「弟が、これ以上姉の恋路に口を出さないで」


 千暁の吐息が聞こえました。実に呆れのこもった、どうにも芝居がかったそれでした。

「わかったよ。お姉ちゃん」

 ──お姉ちゃん。

 流石に、初めてでこそありませんでしたが。

 ひどく懐かしい響きでした。

 そうやって互いを呼び合うことが合図であったかのように、二人は通話を切りました。

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