第三話

『幸福論またの名をシリアス回あとボブではない方のサップ』・上

「歯が欠けています」

 互いの口腔内を探り合うような接吻の末、てらりと銀糸を架けながら少年が顔を離したところで──少女は呟くようにそう言いました。

 歯が、。そう、確かに少女の言う通り、上の奥歯が僅かに欠けているのです。接吻の最中、少年の口内を舌でなぞっているうちに気が付いたのでしょう。

「陽さま」

 問い質すような少女の眼差しに少年──陽は一瞬気後れしましたが、それはもう本当に一瞬のことで。一度火が点いた昂ぶりを抑えられるわけもなく、陽は何かしらを紡ぎかけた少女の唇を自らの唇で塞ぎました。


 ──薄赤い花びらのような唇。


 重ねた唇はそのままに、少女の衣類をはだけさせている(さらりと書きましたが、千影がその日身を包んでいたのは英国の野外演劇パジェントを全面にプリントした工芸品さながらのコレットドレスであり、これを目視せず──しかも被服に並々ならぬ拘りを持つ少女の気分を害することなく脱がせるというのは地味に卓越した技術なのです)のですから、当然色も形も見えはしない──というより、気にかけている余裕などないのですが。

 どういうわけか、そんなふうに思いました。

 むつみ合いによる上気がようやっと鳴りを潜めた頃、

「歯が欠けています」

 陽と枕を共にする少女は、艶事の前に発したそれと寸分違わぬ声音でそう言いました。めつけられている陽からすれば、まるで呪詛を唱えられている心地です。もう一度同じ文言を唱えられたら、からだが石になったりするのでしょうか。

 あの──酩酊したかの如く濡れた黒瞳こくとうはどこへやら。心のなかで苦笑しながら、しかしこうなった以上もう誤魔化しは通じまいと悟った陽は、

「千影」

 少女──千影に歯が欠けるに至った経緯を語り始めました。

             ※

 その晩、陽はとある中華料理店にいました。

 カウンター席に着く前から食べるものは決めていたのですが、見ているうちに心変わりするかもしれないからと一応メニューに目を通し、それでもやっぱり心変わりしないことを確かめてから、情熱セットというちょっと口に出すのがはばかられる名前のそれを注文して、そそくさとトイレに向かいました。

 便座に腰を落ち着けます。諸々の事情から小であろうと座って用を足すのが、この上ない紳士の嗜みと言えるでしょう。

 さて──陽がこの店を選んだ理由は二つありました。一つは、ドアのガラス越しに見えた店内が混雑しやすい時間帯だったにしては空いていたこと。そして、もう一つは──これはそもそも陽が外食に至った理由というべきなのでしょうが、家に帰ってもどうせ千影はいなかったからです。


 そろそろ、彼女も友人と夕餉ゆうげと洒落込む頃合いでしょうか。


 家を出る前、早めに戻りますと告げる千影に、自分のせいで友人と過ごす時間を減らすのは悪いから遅くても構わないと陽は言いました。家事全般という日常的要素から鬼神オバケという非日常的要素に至るまで──いえ、陽からすれば後者も充分日常的要素の中に入り得るのですが、兎角何から何まで彼女に任せきりだからという心遣いが、その根底にはありました。

 そう考えること自体は至って真っ当であると思うのですが──このまま二の句を継げないでいると、では夕食の支度をしてから出かけますとまで千影が言い出しかねないので、陽はこう続けたのです。


 ──ほら、たまには躰に悪そうなものを食べたいときだってあるんだよ。


 本能が外食を求めているときだってある。だから、自分の夕食のことなんて気にするな。

 そう──軽いノリで言ってのけたつもりでした。

 つもりでしたが、あの表情は。

 彼女を傷付けたのは明白でした。あのとき、不貞腐れた顔をしてくれたらどんなに楽だったでしょう。機嫌を悪くさせるのはまだい。怒らせるのもまだ善しとして、傷付けるのだけは論外です。


 自分は──こうも鬱々うつうつとした性分だったでしょうか。


 いや、これはあくまで彼女に限った話であって。

 とっくに用を足し切った便座を離れ、洗面台の前に立ちます。正面の壁に鏡はありません。陽は少しだけ安堵します。自分の不機嫌なような、疲れているような顔を見なくて済んだからです。手を洗い、すぼませた唇から息を吐いて、何となく唾を吐きたい衝動に駆られたところで──露骨に、眉をひそめました。


 唾が、吐けない。


 そう、構造的に極めて困難なのです。洗面台の上にはハンドソープと手指消毒用のアルコールを置いた台が壁から出っ張っているのですが、その台と洗面台の幅が──あまりにも狭いのです。せいぜい手を洗えるくらいのスペースしか確保されていません。

 洗面台に唾を出したければ、その隘路あいろに文字通り頭をねじ込ませるほかないのですが、そんな危険かつ屈辱的な橋を渡ってまで陽はそこに唾を吐きたいなどとは思いません。

 陽は、便器の方を向きました。唾を飲み込むという選択肢は頭にありませんでした。


 吐いた唾が、便器に溜まった水に波紋をつくって──。


 直後、便器から煙が勢いよく立ち昇りました。勢いよくと表現致しましたが、具体的には煙を顔面に喰らった陽が頓狂とんきょうな声を上げた末に尻もちをつくという醜態を晒すくらいの勢いでした。

 天井にぶつかった煙は、そのまま壁を伝って下りるや、瞬く間にトイレ内を蹂躙じゅうりんしてゆきます。

 こうなると発生源が発生源だけに何だかとてもアレな臭気が、あるいはわざと臭いラベンターの匂いなんかが立ち込めていそうなものですが、実際のところ陽の鼻腔を満たすそれはまったくの無臭でした。

 程なくして煙のなかから現れた人のかたちを成すものに、陽は──。


 言葉を、失いました。


 見覚えのあるジジイでした。

 右手にトイレットペーパーではなく巻物を、左手にトイレブラシではなく錫杖しゃくじょうを持ち、左右に鬼神を従えていたところで何ら違和感のない風貌が、そこにありました。

 けれど、陽の知るジジイでないことはすぐにわかりました。瞳の色や生え際とか、そういう些細な違いに気付いたからではありません。


 色です。色が違ったのです。


 肌の色から髭の色、着物の色からその身を飾る小物の類に至るまで。自宅のトイレに暮らす不健康な肌色のジジイとは対照的に、目の前のジジイはつやのある褐色の肌にコンゴのサプールを彷彿ほうふつさせる、ビビットなカラーの着物を着ていました。

 格ゲーなんかでいうところの所謂2Pカラーでした。なので以下、このジジイは2Pと表記することにします。

 2Pが、トイレブラシをゆっくりと頭上に掲げました。いつの間にか、右手にトイレットペーパーは無く、両手でそれを握っています。

 何とも──間の抜けた光景です。本当に、心底間が抜けているのですが。


 陽は、微動だにできませんでした。


 トイレの床に座っていることは不快なのに。このまま動かなければどんな目に遭うかわかっているのに。腰を上げることはおろか、手を使って前後左右に動くことさえ許されませんでした。


 ──上段の構え。


 それは、またの名を「火の構え」とも申します。これと対峙する者は、頭上に掲げられたその切っ先がいつ自身の脳天めがけて振り下ろされるのか──そういった恐怖に晒され続けながら死合しあわなければなりません。

 圧に耐えかね、打たれたくないからと手元を上げれば小手を狙われ、小手をかばえば面を打たれる。先に動くまいとする敵は、動かざるを得ない状況に立たせるまでのこと。どこまでも攻撃的──ゆえに火の構え。猛火の如き気勢をもって、呑み込み、誘い、焼き尽くすのでございます。

 が、たった今、陽の躰を捕らえているそれから焔の如き猛々たけだけしさは感じられません。

 火に焼かれているというよりは、温かくも冷たくもない光に融けてゆく──おそれとおそれの違いとでも言いましょうか。

 何やら──そういった心地がするのです。

 ふと、陽は気付きます。2Pの下半身──その輪郭が浮世絵師の描く幽霊の如く下へいくにつれて薄れていることに。

 自分の輪郭も、肉体も。


 当に、ああなってはいないだろうか。


 見上げれば、途方もない彼方かなたから見下ろされている。

ああ。なるほど、これが。

「神様」

             ※

「そうですか」

 五文字でした。

 陽は、思わず耳を疑いました。てっきりトイレに向かって唾を吐く行いがいにしえの慣習からみて如何様いかような理由でタブーとされているのかを淀みなく語ってくれるものと思っていたのですが、返って来たのはたったの五文字。

 それも、元より喋りに抑揚の少ない千影から出たにせよ、録音を再生したのではないかと疑うくらい無味乾燥とした──五文字。

 千影の表情はわかりません。いつだったか話の途中で背を向けてしまったからです。

 あのあと──トイレの壁にもたれて座り込んでいる状態で、陽は目を覚ましました。どうも気を失っていたのは一、二分の間だけだったようです。妙なタイミングで意識が途切れたのでトイレブラシは寸止めだったのかと安堵したのですが、そう思ったのも束の間、口内に鉄の味が広がりました。

 頬の内側が、切れているようでした。

 そんな状態で情熱セットの麻婆丼を堪能する余裕などあるはずもなく──豆腐をさじで崩せばいくらか熱さは和らぐのですが、つられて辛さが和らぐわけもなし。

 ダメ押しにその相棒も辛味噌ラーメンだというのですから当然箸休めにはならず。今日に限って頼んだメニューの間の悪さを呪いつつ、口内で跋扈ばっこする痛みが視界に影響を与え出した時点で、陽は文字通り匙を投げました。

「なあ、千影」

 試しに名前を呼んでみます。

 返事はありません。以前に、こっちを向いてすらくれません。

 それでも──ただ怒っているふうではないよなぁと他人ひと様に説明できる明確な理由があるでもなし、ただただ恋人としての経験則から判断してそう思っていた矢先、陽は気付いてしまいました。

 千影の薄い肩が、幽かに震えていることに。

 それで、どこか不躾ぶしつけとさえ思える振る舞いの全てに、合点がいきました。


 陽は、後ろから千影を抱きしめました。


 あまりにも恐る恐るとガラス細工を扱うようであったため、見る者によっては陽が千影にすがったように見えたかもしれません。


「大丈夫だよ。たかが、歯が折れただけさ。死んじゃあいない」


 僕は、ここにいるだろう──と。

 そう言い聞かせた相手は千影か、自分自身か。

 やはり、千影から反応はありません。

 ただ、陽の言葉を──ここにいるだろうという言葉を確かめるように、彼の腕にそっと指をかけるのみ。

 その夜は、そのままどちらからともなく目をつぶって。

 どちらからともなく眠りに落ちました。

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