『特徴は合致するが残念かな青蛙神ではない』・下

 陽は通話を切ると、ゆっくりと例のカエルに目を向けました。

 三本足のカエルは、中国において財運の神様として崇められている──偶々寄った土産物屋で銭を咥えたカエルの置物を見かけたとき、千影がそう言っていたことを陽はふと思い出します。

 これが──だというのでしょうか。

 しかし、それではあの──あれほどに鬼気迫った彼女の声の説明がつきません。

 陽は幽かに震える声で尋ねます。

「お前、『ヨク』っていうのか」

 カエルは相も変わらずふんぞり返っていましたが、流石にもう鼻歌は止めたようでした。陽に顔を向け、重く低い威厳のある声でこう返します。


「いかにも。余が蜮であるぞ父上」


 妙でした。

 本来なら鬼神とは視るモノではなく感じるモノ。つまり視られること、形を定められることを忌避する傾向にあります。形あること有限ならば、形なきことそれすなわち無限なり。姿を視られた挙句まして名前まで見抜かれようものならそれなりに自身を警戒してもいいはずって、いやいやそうではなくて。妙なのはそこではなくて。本当の意味でひっかかるべき、問いただすべき箇所は──。

「ち、ちちうえ?」

「そうとも父上。どうした? まさか父上は余が『った』理由を知らぬのか?」

 成った──というのは、恐らく生まれたと同義なのでしょう。

「知るわけないだろ。ってか、お前何でそんなに平然としてるんだ。名前っていうのはお前らにとってバレたらそれなりに痛手なんだろ? 何で動じない?」

「それは赤の他人──見ず知らずのヒトに見破られた際の話よ父上。とどのつまり我らはもう他人ではないのだよ父上」

 もはや「父上」が語尾と化していました。語尾でキャラ付けに走る安易な萌えキャラのようです。

 遠回しに意味深な言葉を並べるカエルに、陽は声を荒げます。

「赤の他人じゃないって──どういうことだ!」

「よかろう。教えようではないか父上。余が──蜮という物のに成るまでのその経緯を」

 陽の脳裏を過ぎるあるいやな予感。

 もしかすると、このカエルは自分の視える体質と何かしら関係が──。


「蜮とは男女が水浴し、水中で『戯れた』際、その淫乱の気が変わって『成る』ものだ」


 男女が水中でする戯れ──その「戯れ」がキャッキャッウフフで済む類のそれでないことは、陽にもすぐさま理解できました。途端、顔が熱くなりました。はいそこ、顔以外のところも熱くなっちゃったんじゃないの、とかそういうオヤジみたいなこと言わない。

 心当たりはありました。だってお若い男女がひとつ屋根の下ですもの。嵐のようなときが過ぎ去り、熱っぽい余韻のある静けさが訪れたところで初めて、これではまるで発情期のお猿さんではないか──と互いに笑みを零し合うなんて日もざらにありました。

 千影がカエルの特徴を聞いて取り乱していたのは、なるほどそういうことだったのです。

 いつだったでしょうか。お風呂場にてな男のソロ活動を日々重ねた結果、迸った何某なにがしが排水溝に溜まりに溜まって、見るに堪えない惨事となった──という話を陽はどこかで耳にした憶えがあります。

 今になってそんな下世話な話を思い出した理由はわかりません。ただ、あのときは確かパイプユニッシュを使っていたはずです。このカエルもパイプユニッシュを使えば、綺麗さっぱり消えて失くなりはしないでしょうか?

「これでわかったろう父上? 言い換えれば──余は汝らにとって、まさに愛のけっ」


「ンなワケねえだろうがあぁっ!」


 陽は喉が張り裂けんばかりに叫びながら、湯船に跳び込みました。カエルの右肩を左手で掴んで引き寄せると、二つある股下の一つに右手をつっ込みます。たった今、陽が仕掛けようとしているこの投げ技──パワースラムは本来なら相手の走ってくる勢いを利用するのですが、怒りというか何というか、複雑な激情によってパワーのリミッターが一時的に外れた陽にとってそれは必須ではありませんでした。そのままカエルを前方へ回転させるように身を捻り、背中から叩き付ける──予定でした。ええ、予定でした。あいにく現実の浴槽はそこまで広くなかったのです。


 ごきんっと地味でいやな音がしました。


 回転の途中、カエルの頭頂部と壁が接触事故を起こしたのです。予想外の衝撃に、今まさに浴槽の床を離れんとしていた陽の足がもつれました。

 いざ危機的状況に直面すると、人は返って頭が冴えるもので──。

 しかしその冴えこそが、この場においては陽の刹那的馬鹿力を奪う悪魔となりました。担いだカエルの重さに耐え切れず、一人と一匹はそのまま仲良く浴槽の底へと沈みました。


 千影がアパートに戻ると、陽は居間でテレビを観ていました。部屋着であることと髪が生乾きであることから察するに、入浴はとうに終えた様子でした。

 千影は首を傾げます。一体カエルはどうなったのでしょう?

「あの、陽さま──」

「ああ、お帰り千影。何か訊きたそうな顔してるな。カエルのことだろ?」

 振り向いてそう言う陽に、千影は幽かな戸惑いを覗かせながらも頷きます。

「あれね、三本足は僕の見間違いだったみたい。あいつやっぱり河童だったんだよ。で、ほら前に言ってたろ? 河童は仏飯──仏壇に供えられたご飯を嫌うって。家に仏壇はなかったからトイレのジジイで代用してさ。あのジジイの前でご飯一杯食うのは苦痛だったけど、それでも食べ終えて浴室に入ったら、そのカエル、僕を見た途端に逃げていったよ。神様と仏じゃ厳密には違うだろうけど、まあそこは神仏習合? ってことで」

 まあいなくなったからいいじゃないか、と陽は話を締め括りました。

 いまひとつ納得のいかない千影でしたが、視えぬ体質である以上視える陽がいないというのであれば、もう反論の余地はありません。

 千影はレジ袋をテーブルに置き、居間を後にしようとします。その背中に、

「千影」

 テレビに視線を止めたままの陽が声をかけました。

 千影がなんでしょうか、と言って振り返ります。


「トイレ使うときは暗幕忘れないように」


「──嫉妬深いですね、陽さま」

「いや、ソレ嫉妬って言うか? けど──かもな。そのスジの奴に僕はもうとっくに憑かれてるのかも。それと──」

 陽は、一端言葉を切りました。そして、頬を掻きながら続けます。

「ごめん。今日はもう疲れたし、ホントのことは明日話すよ」

 やや間があって、そうですかという千影の返事。次いでドアが静かに閉まる音。その声に確かに喜色が混じっていたことを、やはり陽の耳は聞き洩らしませんでした。

 うーんと座ったまま伸びをします。小気味良い背骨の音を聞き、ゆっくりと息を吐きながらテーブルに突っ伏しました。レジ袋の中には自分が頼んだものも入っているのですが、今はどうも手を付ける気がしません。頬杖を突き、テレビ横の"空間"に目をやって──結局またテーブルに顔を伏せます。

「意味が──わからん」

 つい漏れるのは、呻くような声。

 その"空間"には──。


「どうした父上。具合でも優れないのか?」


 気品のある笑みを湛えたまま、陽にしか視えないアンティークな椅子とテーブルで、陽にしか視えないティーセットで優雅に紅茶を嗜む──メルヒェンの世界から飛び出してきたかのような「王子さま」がいましたとさ。

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