第二話
『特徴は合致するが残念かな青蛙神ではない』・上
ある日のことです。湯浴みをしようと浴室のドアを開けるとカエルがいました。人間のような骨格に小学生ほどの背丈をしたカエルが、湯船に肩まで浸かっていました。
少年はドアを静かに閉めました。たとえ荒々しく閉めたところで、事態が好転しないことはわかっていたからです。そんなところに気を回せるくらいの冷静さが、少年には備わっていました。
しかし、その冷静さもこのような異変に直面し続けるばかりに培われてしまったものだと思うと、返って苛立ちが募ります。とりあえずひとっ風呂浴びて気分でも入れ換えるかと思い立ちましたが、肝心の浴槽は見ず知らずのカエルに占拠されているという現実を思い出し、独り頭を抱えました。
ところで、皆様は『かえるの王さま』というグリム童話をご存知でしょうか?
王さまではなく王子さまでは──と思った貴方さまには、それが記憶違いなどではなく日本ではそう呼ばれているケースが多いとだけお伝えしておきます。
さて、ご存知でない方のために要約致しますと、まずお姫様が泉にて一匹の蛙と出会い、そこでひょんなことから蛙と友だちになるという口約を交わし、内心ではあんな蛙とお友だちになんてなってやるもんですか! ぷりぷり! なぁんて思っていたお姫様だったのですが、ことの経緯を聞いた王様に「約束はどんなことでも守らなければ駄目だ」と一喝され、蛙と食事を共にするだけならともかく、何故か明らかに友達の一線を越えているであろう「
ものによってはお姫様が同衾を頑なに拒んだことを蛙に詫び、優しく布団をかけてやることで王子様に戻ったりと多少細部が異なるのですが、兎にも角にも大体の流れはそんな感じです。
何故ここで何の前触れもなく『かえるの王さま』が出てきたのでしょう? 場面を
──別に前述のルビを巧いこと振ってやったぞなんて微塵も思っておりません。
少年はありもしない
そして、テーブルの上にある携帯電話を手に取ると、恐らくはまだコンビニにいる彼女に電話を掛けました。コール一回で出てくれました。驚異的な反応速度です。
「大変だ千影。風呂にクソでっかいカエルの化けモンがいる」
「あら、またですか。陽さま」
携帯電話越しに聞こえる彼女──千影の声色は平素通り澄ましたものでした。その態度を少年──陽は大変心強く思います。
「えっと、今コンビニだよな? あのウチ出てすぐの坂上ったところにある」
「ええ。おっしゃっていたもの以外で何か欲しいものでも?」
「いや、いい。というか、いくら僕でも風呂にカエルの化け物がいるという事実を知らせたいだけで電話したりしない」
それもそうですね、と千影が言います。多分声色には表わさずとも笑っているのだろうな、と陽は苦笑します。
「しかし蛙──ですか。もしかすると、それは河童ではないのでしょうか」
「河童? 河童ってあの河童か?」
「ええ。陽さまのおっしゃる『あの』がどの河童を指しているのか、私には皆目見当もつきませんが」
「皆目わからないのはこっちだって同じだよ。でも、河童って──その、家ン中に出るもんなのか? 普通川とか沼なんかに出るだろ」
「陽さまは
ご存知ないよと陽は
「要約すると運松庵の妻が厠で河童に尻を撫でられる話です」
落ち着け損でした。千影にしては存外簡潔な要約でした。声量が変わった気配は一切ありません。それでいて「河童に尻を撫でられる」などと口走っているのですから、陽はその常識の欠如っぷりに一抹の不安を覚える一方で、この話を手早く終わらせなければと心に誓いました。
「あー、でもそれは厠──トイレの話だろ? カエルがいるのは風呂なんだよ」
「トイレには出られないから、水場繋がりでお風呂なのではないでしょうか?」
「出られない?」
一体どうして──そう訊き返そうとしたところで、陽は言葉に詰まります。先客がいらっしゃいますからね、とどこか悪戯っぽい千影の声が聞こえました。
「しかしあのジジイの守備範囲マジトイレだけなのかよ。使えなさ過ぎだろう」
「トイレの神様ですからね。そういうものです」
両者ともに辛辣な意見でした。
ちなみにジジイの一件は、トイレの上に神棚という新しい「住居」をこしらえ、そこにジジイを封印もとい強制的に住まわせることで一応の解決を迎えました。ただ、千影がそこで「花を摘む」際には陽が神棚に暗幕を被せるようにしています。信仰心も何もあったもんじゃありません。
「ああ、まあ何だ。とりあえずカエルの詳細を今から教えるよ。まだ正体が河童だって決まったわけじゃないし」
「ええ、よろしくお願いします」
落ち着きはらった声に混じる幽かな喜色。つい陽の眉間に皺が寄ります。
「なんか楽しそうだな」
「いえ、そういうわけでは──ただ、手馴れてきたな、と」
手馴れてきた──電話をかける前、そして今も妙に冷静な自分に陽は苦笑します。
「そういう馴れは勘弁だな」
「ただ、やはり陽さまのおっしゃる通り、私は『楽しい』のかもしれません」
携帯電話の向こうで、小さく息を吸う音がしました。
「出てくるうちは──陽さまのお傍にいられますから」
それは──どういう意味なのでしょう?
千影の言う「出てくるうち」とは、恐らく「視えているうち」と同義なのでしょう。視えているうち──千影と出会ったきっかけは陽の視えている特質にありました。二人の始まりは鬼神であり、今の二人を繋ぐ一因もまた鬼神にあると言えます。
では、もし鬼神の類を視る眼がなかったとしたら。
はたして、千影は今も傍にいたのでしょうか?
傍に──いてくれたのでしょうか?
「陽さま?」
千影の心配そうな声で、陽は我に帰りました。頭を振って、これが表情や仕草を把握しづらい電話越しの会話であることを幸運に思いました。
「ゴメン、何でもないんだ。──っていうか千影さん? 今いるのコンビニですよね?」
「ええ、コンビニです」
「そういう発言は時と場所を選んでくれ。そこ結構二人で行くんだからさ」
「では、二人きりのときなら構いませんか?」
「もはや家で二人だけの空間の方が少ないけどな。トイレにはジジイで風呂にはカエルだ」
まるで大家族ですね、と千影がころころ笑います。完全に他人事です。視えぬ人間にはわからぬ苦労です。ただ、千影の場合ならたとえ視えていたところで同じことを言ってのけそうだなと陽は思います。そして、奇跡的に話が戻っていることに気付きました。
「あーそうだそうだカエルだったな。えーっとだな」
言いながら、陽は再び浴室へと向かいます。案の定カエルはそこにいました。浴槽の縁に両肘を置き、鼻歌めいたもの何ぞを我が物顔で歌っておりました。苦い顔をした陽と眼が合います。カエルは鼻歌をぴたりと止めると、陽から顔を背け、口許まで湯に浸かりました。
──恥ずかしかったのでしょうか。しかし、毛ほども愛くるしいなどとは思いませんでした。
青緑色の体色に水かき、頭に皿こそありませんが河童に近い「何か」であることは見て取れます。
と、陽はそのカエルの正体を決定づける重要な特徴を発見し、思わず声を上げました。
「三本だ! 足が三本ある!」
そう、そのカエルにはどういうわけか足が三本生えていたのです。
その時──千影が息を呑む気配がしました。
「足が、三本?」
「ああ、足が三本だ。どうした? やっぱり河童じゃないのか?」
ただならぬ千影の反応に、陽も心なしか不安になってきます。
「まさか──
「ヨク?」
このカエルの名前でしょうか? しかし陽には聞き覚えがありません。ただ、その名前が漢字一字でしかも常用漢字でないことはなんとなく察しが付きました。
「いいえ、何でもありません。──陽さま」
「ん? ああ」
「今すぐ家に戻ります」
はぁ? と陽は素っ頓狂な声を上げました。
「いや待て待てどうした急に? そんなにヤバいのかコイツ?」
「とにかく対処法については私が帰ってから検討致しましょう。それゆえ──」
「それゆえ?」
「興味本位などから決して蜮については調べぬよう」
その念押しを最後に通話は切れました。
かつてない程に真剣味を帯びた、耳に残る声でした。
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