『喚起されたのが埴安神の男女ペアでなかっただけマシ』・下

「ガン見だったよ」

 それが、戻ってきた陽の第一声でした。

「肝心の用は足せたのですか?」

「うん、足せた。けど──ガン見だった」

 陽の口許には柔らかな笑み。けれど眼は笑っていませんでした。何か大切なモノを失ってしまった、ほんの少しばかり老いた顔をしていました。

「そうですか。邪魔はされなかったのですね」

「えっ、ああうん、まあね」

「でしたらそれは──トイレの神様でしょう」

 トイレの神様──と陽は訝しむような声音で復唱します。


「ええ、トイレには『厠』と呼ぶほかにも『ニシ』、『ウラ』、『セッケ』、『センヤ』など多様な呼び名があります。これらはすべて家の裏側を意味する言葉なのです。かつての農村社会において、トイレは家の背後──すなわち裏に建てられていました。『表』は玄関──言わば道に面した外の世界との繋がりを持つ場所、対して『裏』は山と接している場所のこと。そして、人々は山を動物のみならず妖怪たちが住む場所と考え、畏れていました。すなわち、電気のない時代トイレに行くことは妖怪の世界に踏み入ることと同義だったのです」


「──話が長いよ千影」

 陽に言われ、千影は小さく眼を見張りました。それから照れたようにもじもじと身を縮めました。用を足せたこともあり、幾分気持に余裕が生まれていたこともあってか、陽はその仕草を素直に愛くるしいなと思いました。

「──とどのつまり、トイレとは異界の入り口なのです。そして、以前も申し上げたように妖怪や神などの鬼神の類は、陽さまのような視える者に引き寄せられる傾向があります」

「で、僕みたいな体質の人間プラスただでさえ妖怪やら神様やらの霊的なあれが出やすい場所ってのが重なったからあいつみたいなのが出てきた──ってこと?」

 恐らく、と千影は頷きました。言葉の割に確信めいた表情でした。

 陽はゆっくりと溜息を吐きました。そして、再び千影の隣に胡坐を掻きます。

「千影、何であのジジイが出てきたのかはわかった。うん、わかったよ。でもね、まだ何も問題は解決していない。だってあのジジイはまだあそこに居るんだ。その瞬間は見てないけど、もう多分定位置の便器に戻ってる。僕はこれから用を足す度、あのジジイにナニをガン見されなくちゃいけないのか? すいません排泄させて下さいって頭下げなくちゃいけないのか? そんなのってないだろ? 第一僕は男だから未だいいとして千影はどうするんだ?」

「陽さま、話が長いです」

 いや、このタイミングでその返しは要らないよ、と陽は言いました。

 血色のすぐれない千影の顔に、僅かばかりの紅が差します。やはり愛くるしい娘でした。

「しかし陽さま、私にはそのお爺さまが視えません」

「そういう問題じゃないんだ千影。僕が視える以上それじゃあダメなんだ」

「──何故でしょうか?」

 千影が心底わかりませんとばかりに首を傾げました。

 陽はその反応に戸惑いを覚えました。勘の良い千影ならなんとなく察してくれているだろうと思っていたからです。しかしこの様子を見る限りでは言葉にしないと伝わりそうもありません。思ったより鈍い女子おなごです。

 陽はごくりと息を呑みました。意を決しました。


「千影の“そんな姿”を僕以外の人間に見せたくない」


 ここであえて二人の反応を記すことは致しません。何だそれは手抜きじゃないのか、オイこの小説を書いたのは誰だ呼んで来い、とこれをお読みになっている貴方さまは憤慨なさるかもしれません。

 しかしこればかりはご容赦下さい。瞭然はっきりと見えぬことが良い結果を招くことも世の中にはあるのです。

 それに、読書とは単に書いてある文字を読み進めるだけの作業ではありません。では、真の「読書」とは何ぞや? と、ここでは言及致しませんが、ただひとつ言えることがあるとすれば──それは、読書が決して受動的な行いなどではないということです。

「でも、あのジジイが神様だっていうなら──ええっと、どうすればいいんだ?」

「どうするも何も陽さまはすでにご存じではありませんか。妖怪と神様──その対処法の違いを」

 そこになぞらえて考えれば必ずや良い結果がついてくるでしょう、と千影はにこやかに断言します。

 妖怪と神様への対処法──「対処」という響きが、陽にはどこかバチあたりに聞こえましたが、まあ千影が言うからそういうものなんだろうと勝手に納得しました。

 ややあって、陽は大いなる天啓を得ました。

「そうか! わかったよ千影!」

 小さく手を振る千影を背に、陽は居間を飛び出すとトイレへ向かいました。ドアを二回ノックすること──西洋でいうトイレノックは忘れず、静々とドアを開けました。

 やはりジジイはそこにいました。流罪るざいにかけられても妖術で空を飛んであちこちの霊山を訪ねていそうなジジイでした。しかし、その表情は先ほどよりも心もち穏やかに見えました。

 陽が口を開くよりも先に、ジジイは便器からどいてくれました。そのまま家からも出て行けよという叫びを作り笑いでなんとか殺し切り、陽は便器と向かい合いました。

 まず、陽はトイレ用洗剤を手に取ると、それを便器にかけました。眼の届きにくいふち裏の奥や隙間にまで、あますところなくかけました。本来ならばそこで二、三分ほど間を置くのですが、陽はあえてそれをせず、早速ブラシで磨き出しました。その方がなんとなく一生懸命やっている感が伝わるだろうと思ったからです。

 自分の姿をガン見してくるジジイは極力視野に入れないようにしました。一見無礼に思われるかもしれないこの態度を、それだけ熱心に掃除に向かっているのだと解釈してほしい、と陽は心から願いました。

 そう、トイレの神様だというのなら──きっと自身が日頃の掃除を怠ったが故に、このジジイは現れたのでしょう。そういえば、部屋の掃除は風呂掃除を除き大抵千影に任せきりでした。磨きながら、少年はそのことを深く反省しました。内心ちょっぴり悔しいけれど、このジジイの存在は同居人の大切さまで自分に教えてくれたのです。

 ありがとうジジイ。

 でももう二度と出ないでくださいジジイ。

 あと放尿中の自分のナニを見下ろして鼻で笑うのマジで止めて下さいませんかねジジイ。

 やがて──掃除が終わりました。そこには生まれたての便器がありました。我ながら阿呆な表現だとは思いますがお許しください。阿呆でも馬鹿でも間抜けでも、なんとなくニュアンスが伝わる表現ってあるでしょう?

 陽の心にはこれまでにない達成感がありました。いや、これまでにないというのは流石に言い過ぎたかもしれません。陽にとって人生最大の達成感、それは千影と初夜を過ごしたときのことだったのですが、まあこれは今の話の流れとは欠片も関係ないので割愛させていただきます。トイレという空間に那須高原を彷彿とさせる爽やかな風が流れているようでした。今ならここで深呼吸をして、空気が美味い! くらいは言えそうでした。そして、陽はゆっくりと、ジジイの方に顔を向けました。


 陽がドアを開け、帰ってきました。顔には満足げにみえないこともない笑みを湛えています。

「いかがでしたか? 陽さま」

 千影の問いに、陽はふっと落とすように笑いました。

「ジジイが小綺麗になっただけだったよ」

「それは残念です」

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