僕と千影と時々オバケ

姫乃 只紫

第一話

『喚起されたのが埴安神の男女ペアでなかっただけマシ』・上

 ある日のことです。家に帰ってトイレのドアを開けるとジジイがいました。頭巾を被った、見覚えのないジジイでした。

 少年はドアを閉めました。ほぼ反射でした。ドアにせなを預け、ずるずるとからだを滑らせるようにして、その場に座り込みました。

 しかし今のは見間違いではないか、電車の中でケータイの落ちゲーに熱中していた結果眼疲労が自身に見せた幻覚ではないか、眼精疲労と眼疲労の違いもわからぬ浅学な輩に前述の「眼疲労」を誤字だと思われてやしないか、いや今そんなことはどうでもいいじゃないか、それよりもジジイだ現実を見なければ──と思い直し、少年は立ち上がると、もう一度ドアを開けました。

 ジジイは、変わらずそこにいました。右手にトイレットペーパーではなく巻物を、左手にトイレブラシではなく錫杖しゃくじょうを持ち、左右に前鬼と後鬼とかいう鬼神を従えていたところで、何ら違和感のないジジイがそこにいました。下半身は洋式便器の中に隠れて見えませんでした。

 少年は、そっとドアを閉めました。今度は反射ではありませんでした。顔には引きつったような微笑が、額にはベトベトとしたいやな汗がそれぞれ浮かんでおりました。

 こうした非日常に直面した際、常人ならばそれでも今のは幻覚である白昼夢である英語で言うとデイドリーム──などと自身に言い聞かせ、どうせ尿意乃至ないし便意もしくは両方は一旦引っ込んだのだから、ちょっと時間を置いてまた開けてみればいいじゃないか、その時もいたらその時だ、ええいままよ、と多分思うところなのでしょうが、少年はそうは思いませんでした。


 なぜならこれは彼にとって非日常ではないからです。


 鼻から思い切り息を吸い込みます。深呼吸。気分を落ち着かせるためのファーストステップです。とはいえ、真にその意図で行うのであれば、最初に息を吸うのは誤りでして。生物は吸うときに緊張、吐くときにリラックスするわけですから、ファーストステップとしては「吐く」を選ぶのが適切なわけです。

 と、博識な竹馬の友が以前そんなことを言っていたのをついつい思い出してしまいましたが──構わず、深呼吸を続けます。細部にフォーカスすることは時として重要ですが、この場合は「焦ったときまずコレをやる!」と心から推せるものがある事実こそ重要なわけでして。

 ゆっくりと計十回の深呼吸を終えてから、少年は居間に続くドアを開け放ちました。


「大変だ千影ちかげ! トイレにジジイがいる!」


 その声は悲鳴に近いものでした。どうやら彼にとって、深呼吸はあまり意味を成さなかったようです。それとも初手に吐くをセレクトしていれば、いくらか違う未来が待っていたのでしょうか。

「あら、またですか。ようさま」

 千影と呼ばれた少女が、手許の文庫本に視線を留めたまま、素っ気なく応えます。黒いブックカバーのせいで何の本かまではわかりません。

 尼削ぎに切れ長の眼をした日本人形のような少女でした。ノースリーブワンピースの漆黒が、露出している肌膚きふの白さをいっそう際立出せております。

「それは、陽さまの想像上のお爺さまなのではありませんか?」

「──そういう人間の脳の構造上否定しにくい返しは勘弁してくれ」

 千影が口許に手を添えて、ころころと笑いました。何だか鈴の音を聞いている心地が致します。

「それにしても、陽さまは本当に色んなモノが視えるのですね。実はそちら側の住人なのではありませんか?」

 千影の平素と変わらぬ抑揚で吐かれる冗談に、少年──陽は呆れたように肩を落とします。

 とはいえ、そんな千影の態度に冷静さを取り戻せたこともまた事実。それを内心感謝しつつ、陽は彼女の隣に胡坐をかきました。

「で、僕はどうすればいい?」

「どうすれば──とは?」

 そこで初めて、千影は陽に視線を向けました。

「決まってるだろ。あのジイさんをあそこから追い出すんだよ。でなきゃ落ち着いて用も足せない」

「そのお爺さまが──」

「え?」


「そのお爺さまが陽さまの排尿乃至ないし排便もしくは両方を邪魔したのですか?」


 千影は、閉じた本を床に置くと居住まいを正しました。ふざけた話のわりに、彼女が陽に向ける眼差しはひたすらに真摯でした。

 とはいえ──排泄は人が生きていく上で欠かせない行為であることもまた真理。そういう意味で、この誠実な佇まいは場に相応しいものとも言えました。

「いや、邪魔されたって──だってトイレから生えてたんだぞ? いや、生えてるって言い方は厭だな。キノコじゃあるまいし。下半身を便器に突っ込んでた? いや、それもそれで厭なことに変わりはないんだけど。とにかくあんな状態でまともに用を足せるわけが」

「それは邪魔された内には入りません」

 千影が口を挟みました。言葉尻を奪われた陽は思わず素っ頓狂な声を上げます。

「はぁ? いや、だっておまっ。──まさかとは思うけど、ぶっかけろとは言わないよな」


「──何をですか?」


 千影が、細い眉をしかめました。

「小便ですよ小便! それ以外に何があるんだよ! 僕があんなジジイの前で苛烈な男のソロ活動にでも励むと思うのか!」

「自慰がお厭ならば──」

「手伝わせないよ? 絶対あんなジジイの手とかその他借りないよ? あとそこは僕の気遣いを汲んで『ソロ活動』とか『ソロプレイ』とかぼかした表現しよう? 思いっきり自慰って言ってるし! ってか、そういう意味じゃないから! 第一僕が性的な意味でしてもらうとかぶっかけるとかそういうのはちか──」

 そこで、言葉は止まりました。口が餌を求める金魚のようにパクパクと動いています。


「ちか?」


 千影が、小首を傾げました。口許には何やら知ったふうな微笑を湛えております。

 陽はぐうっと喉を鳴らして、言葉を呑みこみました。火照る顔をまるで乙女のように両手で包み隠しました。

「陽さまの語彙の豊富さには私舌を巻かずにはいられません。さて、そうまでおっしゃるのであればもう一度お訪ねになってみては?」

「お訪ねも何も、あそこは家のトイレだ。ジジイの棲家じゃない」


「おっしゃる通りです。ですが、ここはぐっと気持を堪え、今はお爺様の棲家であると──そう仮定して下さい。そして誠実な態度で頼めばよいのです。夜分遅くに申し訳ありません。ここでキジを撃たせて下さい、と」


 我が家のトイレで用を足すだけなのに、丁寧以前にそんな古風な頼み方をしなければならぬ現状を陽は大変理不尽に感じましたが、ひっこんだ尿意が徐々に戻りつつあったことを危惧し、結果その重い腰を上げました。

 そして、ぱんぱんと二回左右の頬を叩くと、ぶっちゃけ泣きたいような心持で居間を後にしました。

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