2019年 月の下
怒鳴り声が耳から入って抜けていく。視線は相手のネクタイの結び目へ寄せる。そうすればこのゆでダコが、目を背ける無礼に感づくことはない。
入社当初は同情的だった新入社員たちも、俺が使えない先輩だとわかると、あからさまに侮蔑の視線を寄越してきた。隠しもしない嘲笑が、背後の席からご丁寧に届いてくる。同年代ならさらに遠慮なく、先輩方なら当然に。
大事なのは空洞になることだ。怒鳴りも嘲りも俺の中には留まれない。そうすれば、決して心は傷つかない。
もっとも、それは自分で心を潰しているのかもしれないけれど。
高校時代に引きこもり生活をして、同じ学年の連中から一年遅れて大検を取り、入学をした。
交友の輪は広げずに、黙々と勉強をして、就職もした。
誇っていいはずだ。実際、両親は涙まで浮かべて喜んでくれた。それなのに、喜びは今ではすっかり薄れている。
最寄りのコンビニが深夜営業を止めたというのが、先月報道されていて、どうやら今日から施行だったらしい。店内は消灯されて誰もいない。スーツ姿のやつれた俺がガラスに映り込んでいる。腹が鳴った。自動販売機は稼動していたので、温かいコーンスープを手に入れた。いかばかりかの栄養補給は、すぐに枯渇した。
一人暮らしをしている部屋に、戻りたくなくて、夜の街を歩くことにした。
住宅街は静かだ。月が明るい。黄色く照り映える光は太陽を反射したものだ。本当の月は灰色なのだと、知識では知っている。昔、夢の中でもみたことがあった。
今から五年前の引きこもり時代に見た夢をたまに思い出す。小学生くらいの女の子と、ただ話すだけの夢。まっすぐな瞳をしていたあの子の力強さに圧されて、社会に出ようと思った。変な気合いを入れてしまった。
月を見ると、そのことを思い出す。背筋を伸ばしてみたくなる。気恥ずかしいけれど、数少ない、大事にしたい思い出だった。
*
怒鳴り声が響いて、夜の街の空気が凍る。
「どこ見て歩いているんだよ」
一瞬、心臓が跳ねるけれど、自分のことじゃないとすぐにわかった。
ジャケットを着流した男が、スーツの禿頭の男に掴みかかっていた。歩行者天国の道の真ん中だ。ジャケットの男の耳で揺れているピアスを、禿頭は凝視して固まっていた。
蒼白な禿頭の緊張感とは裏腹に、人々はすぐに興味を失って歩き始めた。ジャケットの男は舌打ちをひとつして、禿頭を解放し、歩き去り始めた。街道は元どおりの喧騒を取り戻していく。丸く収まったように見えた。
「うるせえな」
小声で禿頭が呟いたのを、俺は耳にしてしまった。
「おいバカ、あんた」
うっかり声を上げてしまったことを後悔した。
失言をしたのは禿頭だが、ジャケット男は俺に敵意のある視線を向けていた。
「なにお前。そこのハゲの知り合い?」
否定したかったが、裾を引かれて思いとどまった。禿頭が俺の背後で顔を青くしていた。俺とは目を合わせない。引け目は感じているのだろう。
小さく呟いて抵抗するしかない、気弱な男だ。
そんな奴を、俺は嫌いにはなれなかった。
「お前がふらついてるから、ぶつかったんだ」
どうせ守るものもない人生だ。たまには勇気を出してみたくなった。ただの偽善だと謗られてもいいと思えた。
「ここで喧嘩をすると、すぐに警察がくるぞ。面倒なことになる。な、社会人は疲れてるんだよ。勘弁してやってくれ」
強気に出るつもりで、いつのまにか懇願していた。禿頭が頷いている。ジャケットの男は、白けた顔で立ち去ろうとした、かのように見えた。
怒声とともに、ジャケットが翻る。推測が甘かった。警察の名前を聞いて、怖がる人もいれば、そうでない者もいる。何も考えていないか、怒りで失念しているか。分析している暇もなく、拳が目の前に迫ってくる。
危機的な状況だというのに、乾いた笑いが口から漏れている。俺自身でもよくわからない。血の味を想像する。
少しいいことをした、それで十分に思い、目を閉じた。風が逆巻く。予感していた痛みは、来なかった。
奇声と悲鳴が一緒に耳に入ってきた。
目を開いた光景は、ややこしかった。ジャケットの男が倒れていて、それを踏みつけるようにして、制服姿の女子がいた。
「勢い余っちゃった……あっ」
最後に添えられた音節と同時に、俺も「あっ」と口にしていた。
見覚えがある瞳。馴染みのある声。いつも思い起こしていた姿と少し異なり、だけど明らかに同じ人だった。
「て、てめえ」
ジャケットの男が呻いて、彼女がどいた。その隙に俺が彼女の手を引いた。
「え?」
「逃げるぞ」
勢い余った、その代償だ。禿頭がすでに駆け出していたので、迷いはなかった。
明るい駅前から、逸れて、路地へ。追いかけてくる声がする。一人のものじゃない。仲間でもいたのだろう。状況は最悪なのに、彼女は隣で笑っていた。
「なあ、あんたってもしかして私のこと知ってる?」
「よくわからんけど、たぶん合ってる。気づいて助けたわけじゃないのか」
「全然。暴力嫌いだから、先手を打っただけ」
「危ない奴だな」
「そうかもしれない。ねえ」
「なんだよ」
「いい目になったね」
「……自分じゃわからん」
アスファルトの道を駆け抜けていく。これは現実だった。だから息も切れてくる。熱がこもり、咳き込みそうになる。
「お前のおかげだよ」
聞こえないように呟いたけれど、制御できたかはわからない。
真正面に浮かぶ月が、俺たちを笑っているようで、無性に腹が立った。
「こちらこそ、ありがとう」
月が投じる明かりの下で、灰色のアスファルトさえも輝いて見えた。
ただ話すだけの夢 泉宮糾一 @yunomiss
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