第18話

 その日からとかげはまた店へ通い出しました。

 細い釘や太い釘、小さなハンマー、ニスや刷毛なんか入れた袋を持って。

 そうして、店が終わると、バーテンと二人で丁寧に時間をかけて、掃除と後片付けをしました。

 カウンターの中のことはバーテンに任せましたが、壊れた椅子をとんかんとんかん直したり、絨毯の汚れをきれいに取ったり、椅子やテーブルの傷をやすりで削ってニスを塗ったり、曇った窓ガラスをぴかぴかに磨いたりしました。


 そうして何日かかかって店の中がすっかりきれいになると、今度は外へ出て、看板を拭いたり壁の落書きを落としたり、誰かが蹴ってできた穴を塞いだり、壊れたところを修繕して、はげた窓枠や壁にペンキを塗りました。


 ラジオか蓄音機を買おうと思って貯めていたお金を、とかげはこうしてみんな使ってしまいました。

 けれど、後悔なんてこれっぽっちもしませんでした。

 それどころか、だんだん、とても明るい朗らかな気持ちになっていったのです。


 ある日、すっかり老け込んだマスターが、それでも明るい目をして出て来てくれた時、とかげはどんなに嬉しかったでしょう。

 バーテンも同じ思いでした。


 店の中も外もどこもかしこも、かつてのようにぴかぴかにになった晩、とかげは自分の庭に咲いたとびきりの花を切ってきました。

 そしてそれをカウンターのきれいに磨いた花瓶に活けて言いました。

「ずっと不義理をしてしまったのに、おいらに掃除をさせてくれて、ありがとう」


 マスターも言いました。

「掃除なんて、ずっと忘れていたよ。思い出させてくれて、ありがとう」

 そしてバーテンに向かって言いました。

「きみはずっと店を護ってくれていたんだね」

「ええ、もちろんです。

 この店は、私にとってとても大切な店なんですよ。

 今もこれからも、それは変わりません」

 

 マスターは天を仰ぎました。

「借金は、いつになるかわからないが、きっと返せるよな。

 うん、計算上ではそうなるぞ。

 そうしたら、その時はきっと、また」

「ええ、そうしたら、きっとまた」


「とかげくん、その時はぜひ来てくれよ」

「ぜひ、また、いらしてくださいよ。

 私たちの『フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン』へ」

「それまで、私のこの店は、ずっとここにあるからね」

「どうぞ、お元気で」

「元気でな」


 とかげも元気になって言いました。

「どうぞ、マスターもバーテンさんも、お元気で」


 ふたりは口々に言いました。

「ありがとう。本当にありがとう」

「本当に、ありがとうございました」

「いいえ、おいらのほうこそ長いことお世話になったよ。

 ずっとよくしてくれて、ありがとう」


 とかげは二人を残して外に出ると、店の一番大きな窓の下に座りました。

 そして、ゆっくりとハーモニカを吹きました。


 ドーシラソ ファーソラド シーラソファミー 

 ラーソファミ レーミファ…


 真っ黒な夜空に星々がスポットライトのように光っていました。

 とかげの脳裏にかつての店の様子が、まるで旧い映画のように浮かんでいました。

 静かで心地よい空間。

 マスターや常連の客たち。

 シェーカーを振る音。

 静かに続く会話。

 誰かの咳払い。

 そして、店の中を流れる「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」。


 この世で一番好きな場所で一番好きな曲を聴く二人と一匹の顔には、満足そうな笑みが浮かんでいました。

 そのとき、かつての「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」は、少しも変わっていない元のままの姿で、確かにそこにありました。


 たった一つ吹ける曲を吹き終わる時、一筋の風のようにとかげの頭にある予感が吹き込みました。

 そしてそれがふんわりと花のように開きました。


「おいら、いつの日かきっと、この曲のように大好きで大切にしたい人に巡り合える。

 その人はおいらに向かって小さな手を差し出して、にっこり笑ってこう言うだろう。

 『フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン《私を月まで連れていって》』」

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フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン 紫堂文緒(旧・中村文音) @fumine-nakamura

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