第17話
閉店まで間もないのに、「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」はたいそう賑わっていました。
ジュークボックスの大きな音が外まで聞こえました。
何人もの若い男女が、椅子に座り切れない者は、ある者は立ったまま、ある者は壁に寄りかかって、鮮やかな色の酒を飲んでいました。
店には騒々しい音楽が大きな音で掛かっていましたから、客たちの話し声は、どうしてもそれに負けないように大きくなるのでした。
たばこの煙がもうもうと立ち昇って、店の中は霞がかかったか靄の中を歩いているかのようでした。
とかげがカウンターに近づくと、黙ってシェーカーを振っていたバーテンが、一瞬、目を大きく見開きました。
しばらく見ないうちに、バーテンは随分くたびれて見えました。
バーテンは静かな顔で首を傾けて、「いつもの?」と無言でとかげに訊きました。
とかげもまた静かな顔で頷きました。
そのうちどこかで怒鳴り声がして、グラスの割れる音がしました。
悲鳴も聞こえました。
バーテンは慣れた素振りでカウンターから出ていくと、割れたグラスのかけらを塵取りに乗せて戻ってきました。
そしてまた、別のグラスを洗い出しました。
ビールを少しずつ飲みながら、とかげは店が終わるのを待ちました。
煌々としていた灯りが少しずつ落ちていき、客がひとり、ふたりと笑いながら店を出ていくと、バーテンは言いました。
「よく来てくださいました。お久し振りですね。
でも、今日はもう閉店なんですよ」
「…うん、そうだね。
…おいら、片付けるの、ちょっと手伝いたいんだよ。
今日はそれで来たんだ。
…どうだい?
そうさせてくれないかね?」
バーテンはちょっと考えて言いましたが、やがて言いました。
「ええ、そうしてくださると助かります。
何しろたくさんのお客さまがお見えになるようになったもので」
それで二人は黙って店を片付け始めました。
店は一見きれいに見えましたが、よく見るとだいぶ傷んでいるのがわかりました。
床の隅や窓の桟には埃が溜まっていましたし、椅子やテーブルにも傷が目立ちます。
とかげは、バーテンがまだそんな年ではないのに、髪に白いものが増え、鼻の脇のしわが深くなったのに気づいていました。
顔つきも、どことなく険しさを増しているようでした。
シェーカーを振っていたときも今も、なんだか諦めきって機械的に、仕事ではなく作業をしているようでした。
片付けがすっかり済むと、とかげは思い切って言いました。
「またしばらく通わせてもらうよ。
そうしたら、お店の終わった後、こうして手伝わせてくれるかい?」
バーテンの顔がぱっと明るくなったようでした。
「ええ、ぜひ、いらしてください。お待ちしております」
その晩、マスターにはとうとう会えずじまいでした。
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