第29話・熊の爪が目の前を掠めていった

熊の爪が目の前を掠めていった。強く、だが鋭くはない振り。

月明かりの下、悠々とそれを見送ったクランは、軽く前に出た。

直立する四つ足は、確かにデカい。

しかし、今度は足元が非常にお留守になるのだ。片足を上げて避けるような器用な真似は出来ず、とても斬りやすいことをクランは学んでいて、この時もそうした。

七層骨剣の威力を十全に発揮し、骨と骨の間を通してやれば黄金旅程は見事に熊の膝を真横に断ち割ってくれる。


「さ、おいで」


膝を斬られた熊が倒れこむ前に、背後からは足音も無く走り寄ってくる熊の気配がある。

野生らしく、と言うべきか。見た目の鈍重さに見合わぬ軽やかな足さばきだ。

何故か立ちたがる熊よりも、四つ足の本領を発揮して走ってくる相手は厄介極まりない。

ステイシー戦士団の若者が八人がかりでも持ち上げられない巨体が速度を乗せて突進してくるのは、非常に迫力がある光景だ。

助走をつけた突進は木の幹を丸ごとへし折り、二本足の生き物なら悠々と砕く威力を秘めていることをクランは知っている。何度か見た。

クランの周囲には膝を斬られた熊の他に、すでに何頭も熊が倒れている。

生き物の視界というものは、横に広く、縦に狭い。

知識で知っていたそれを、クランは実地で学んだ。

地面を四つ足で走る熊の視界は、左右の動きには相当に追従してくるが、軽くジャンプしてやるだけであっという間にこちらを見落とす。

クランは黄金旅程を鞘に収めていた。

軽くジャンプしたクランの左手で帽子を押さえ、右手には魔法を構成。

効果は氷、硬くて頑丈で、先を尖らせたやつ。

視線の先には無防備に晒された熊の首。そこに体重を乗せて、氷柱を全力で突き込む。

高速で走り回る四つ足の骨と骨の隙間を狙う腕は、まだクランにはない。これを黄金旅程でやったら、間違いなく刀身が歪む。

しかし、使い捨ての氷柱を熊の延髄に突き込むくらいなら、こうして悠々とこなせる作業だ。

作業になっていた。

膝を切って倒れていた熊にトドメを刺しながら、クランは舌打ちを一つ鳴らす。

作業でしかなかった。

自分が強くなっている実感がある。

熊なんて、もう相手になっていない。

まとめて来ても、一人で余裕を持って倒せる。

もっと、強い相手が欲しい。


「はあ……」


とはいえ、この場にいるのはクラン独りだった。

敵も、味方もだ。

ステイシー戦士団がこの地へやってきて三日。ちっとも熊を倒せるようにならない彼らのせいで、クランは力を持て余していた。

出るたびにすぐに帰るしかなくなってしまう。

寝るにも寝れないほどで、ついむしゃくしゃして夜に一人で大暴れだ。

強くなっている最中。その自覚があるだけに、足を引っ張られている感覚がひたすらにイライラする。

どうしようか、とクランは呟いた。

月はまだ空の半ば、夜はこれからだ。

このまま戦い続ける、という気分にもならない。

普段なら金貨の元になる魔獣が一人では回収出来ず、ただ働きだというのは非常に気持ちが悪いのだ。

いや、金金金と喚くつもりはクランにはないのだが、ただ働きだと思うとなんだかとびきり無駄なことをしているという気分になってしまう。

かと言ってキャンプに戻ってもな、とクランは思った。

ステイシーはぐーすか高いびき。戦士団の中に話す相手はいない。

大した地力のない彼らは、狼狩りですら終わったら大いに飲み食いし、さっさと寝ていた。

今だっておそらくそんなもんだろう。

親しい者はどこにもいなかった。


「地味に話すタイミング逃してんだよな」


仕方なしにクランは腰につけた小袋から干し肉を取り出した。

カチカチに乾燥させた干し肉を一度塩抜きし、その上で改めて味付けしたこれは、なかなかにおやつとして上等だ。お値段もちょっと高めである。

延々と噛み続けなければ飲み込めないような硬さで、それが逆に口寂しい時には悪くない。

月明かりの下、どうして一人で干し肉をかじっているのだろう、という気持ちはある。

水。虚空にくるりと指を回すと、わずかに氷が浮かぶくらいにキンキンと冷えた水が湧き出た。

酒精の入ったものより、実は冷たい水やお茶が好きだ。

子どものようで誰にも言っていないが、ビールは苦くてあまり好きではない。

帽子を被っているのも、なんだか妙に煩わしくなって普段は納めている髪に風を孕ませた。

帽子に納めるため、縛っていた髪をほどくと肩口まで広がり、少し滲んでいた汗が風に撫でられてさっぱりする。

倒した熊の背に腰かけて、虚空に浮いた水を指に追従させ、ふわふわと夜に踊らせる。

つまらない、子どもの一人遊びだ。

退屈なのか、苛立っているのか、それとももっと別ななにかなのか。クランは自分の心境すら理解出来ない。

クランはほんの少し視線を上げた。

大きな月。半月から三日月に向かおうとする月は、なんとも中途半端だ。

もやもやする。


「お、おお……女神や。美の女神や……」


「……誰だい?」


その声は、思ったよりも近くにいた。

見晴らしのいい平原で、完全に不意を打たれかねない距離だ。

視界の端には遠くにだが熊がちらほらと見えており、クランは自分が完全に気を抜いていたわけではないと、強く断言出来る。

月明かりの下、うっすらと見える人影は人間か。

獣の特徴もエルフの特徴も見当たらない。

枯れ木のように瘦せおとろえ、なんだか妙にふらふらしている少年の姿だ。

クランはとても警戒した。


「アンデットかなんか、あんた」


「い、生きてます……ちょっと十日ばかり飲まず食わずだったもので……」


「なんにしろそれ以上、近付くんじゃない。あたしはあんたを警戒している。わかるね?」


「ち、違うんです。怪しい者じゃないんです」


「怪しい奴が自分は怪しいですって言うのかい?」


「そ、そうなんですけども!……ゲホッゲホッ!大声出すのがつらい」


しかも、街の外でまともに武装もしていない、平服と剣一本というのが怪しい。

頬がこけ、唇はひび割れ、脂の浮く肌は飢民のような有様だ。

黒髪は薄汚れ、髭も手入れをされている様子もなく、山賊に襲われ、命からがら逃げ出してきたかのような姿だが、その割には見えるところに傷一つないのかとてつもなく怪しかった。


「す、すみません、美の女神様。俺に水と食料をお恵みいただけないでしょうか」


「その美の女神様ってのは、あたしに言ってるのかい?」


「はい、冷厳たる月光を受け輝くあなた様の姿は、もはやこの世の物とは思えず、その美しい金の髪は同量の金ですら購える物ではないでしょう。おお……もっと詩文を勉強しておけばよかったもう浮かばないけどあれですあのババアと俺を地獄に送り込んだあの傲慢ないつかぶっ殺す貴族どものいるこのくそったれた世界に降臨なされた美の女神様かと思った次第であります結婚してください」


「キモい。やだ」


「あんまりだよぉぉぉぉぉぉ!どうしてなんだぁぁぁぁぁぁぁぁ!……あっ」


糸の切れた操り人形のように倒れる少年に、クランは近付こうとも思わなかった。

ジェリ姉から学んだ不名誉で不道徳な性犯罪者のやり口に、病人に見せかけて身体を触ってくるというものがあったからだ。

クランはしっかりと時間をかけて、魔法を編んでいた。

規模は最大、火力は全開の火の魔法である。大した技量ではないクランだが、これだけしっかりやれば、熊の巨体だって粉々に出来る。


「最後の、最後にとっておいた魔力を、興奮して暴発させてしまった……ふふっ、フラれ虫の俺にはこの死に様がお似合いってことか。死にたい」


クランはこの旅始まって以来、したことのない目つきをした。

もし、この場にアンジェリカをよく知る者がいれば、よく似ていると評したであろう目つきだ。地獄の底のような目だ。

とはいえ、クランとアンジェリカには決定的な違いがある。

知恵ある生き物の優しさの有無だ。


「……ほら、水やるよ」


「おおおおおおお、女神様のお慈悲や!慈雨や!女神様の慈雨!ゴボゴボゴボゴボうめえ!」


あまりに近付きたくなくて、遠くから放った水球を顔面にぶつけてやったというのに、少年はまるで餌にありついた鯉のように水球を一瞬で飲み干してしまった。

少年は倒れたまま、妙に期待のこもった目でこちらを見ている。

二発目を撃ち込んだ。


「…………」


「ガリガリガリガリ!う、うめえ!氷が浮いてるってレベルじゃなくて、氷そのものだけど、女神様からの施しだと思えばこれまで食べてきたどんな物よりも美味いっていうか、よく考えたらこれ女神様の魔力だから、つまり女神様を食べ」


「やだ、本気で気持ち悪い……」


「すっみませんでしたー!調子に乗ってましたー!土下座何発くらいで許していただけるでしょうか、本当に申し訳ありませんでした!死ぬ寸前だったもんで、めちゃくちゃハイになってました!このゴミ虫めの腹切りショーとかどうですか?任せといてください!何度もやらされてきましたからね、得意ですよ!」


「絶対にその場から動くなよ。いいな?」


この少年が口を開くたび、無性に背筋がぞわぞわする。

例えるなら、ちょっと大きな石を持ち上げたら、その下にたくさんの虫がいたのを見つけてしまった時のような気分か。

なんかこう、どこがいやというより……全体的に嫌い。


「はい、よろこんでー!」


やたらと綺麗な土下座のまま、少年はピクリとも動かなくなった。

もし、このまま首を刎ねたとしても動かないままなんじゃないか、というくらいの微動だにしなさっぷりである。

その微動だにしなさっぷりに、この少年のやたらとしっかりした体幹と技量がうかがえて、クランは非常にいやな気分になった。

鍛えていないと、二本足の生き物は絶対にふらつくのである。

それがまったく見抜けないとなると、この気持ち悪い生き物はクランより格上だということになる。


「……あと干し肉を恵んでやる。それであたしには二度と近付くなよ。近付いたらあたしは大声出しながら、キャンプに逃げ込む」


戦士としての誇りより、耐え難い生理的嫌悪に背筋が粟立つ。

どんな戦士だって血と臓物に塗れるのを誉れとしても、糞便の中に顔を突っ込んで喜ぶ趣味はあるまい。

なんかこう、この少年はクランの中でそういうレベルの相手として認識されている。


「ガチ対応!?めっちゃ心に来ますね、これ!?ゴミ虫、めっちゃ傷心です!」


干し肉を投げつけても、少年はまったく顔をあげようとはしなかった。

じりじりと、変質者を刺激しないようにゆっくりと後ろに下がるクランに、少年は声をかける。


「あ、すみません、美の女神様!二つだけお話が!」


「言ってみろ」


「あ、なんだか声が遠くなってる。頭を下げてても、なにしてるかよくわかるなあ」


少なくとも話している最中に襲われることはあるまい。

そういう判断の下、クランは少年に話させることにした。

出来たら今すぐ背を向けて走って逃げたいくらいの生理的嫌悪。


「黒くてぷるぷるして、なんかデカい魔獣がいたら気をつけてください。衝撃吸収して接近戦しかけると結構ヤバいです」


「わかった!」


「ヒュー!さらに声が遠くなってるぅ!あともう一つなんですが」


全身の強化はとっくに使い、どんな状況でも最低限の対応は出来るようにしている。

視力の強化もしていた。それなりに距離を取った今、月光の下でも顔を上げた少年の表情がはっきりと見えるくらいには。


「レウズ・ミノスは美の女神様に、この命の恩を必ず返します!絶対に、命に代えてでも!」


嘘なんてこれっぽっちもなさそうな、真剣な表情を浮かべていた。

最初からその表情で来てくれれば、クランがここまで警戒する必要もなかっただろう真剣さだ。


「いらねーよ、あんたの命なんて」


「そう言わないでください!命果てるまで、あなたと共に在ることが俺の悦びであり、生まれてきた意味はこの瞬間にあったんだなあ幸せだなぁってうわぁ!?」


ひたすら遅延していた最大規模の火球を全力でぶち込んだクランは、この瞬間に出来る最大速度で背中を向けて逃げ出した。

なんかもう生理的に耐えられなくなったのだ。













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