第24話・月明かりの下、半里を一息で駆けながら

 月明かりの下、半里を一息で駆けながら、禹歩を踏む。

 星の並びに呼びかけるそのステップは、その大いなる力をヴィヴァの身体に降ろした。

 超速からの激しい急制動。大気に物体がぶち当たって、大地が抉れるほどの爆風が巻き起こる。

 そして、いかなる偶然なのか、地面に複雑怪奇な紋様が刻まれたではないか。

 もちろん偶然ではない。完全に風を読み切る目と、身体制御のみによって行われる技である。

 自らの装備のわずかなへこみやでっぱり、マントなど風を孕む全ての部位で大気を動かし絵を描く曲芸。

 刻まれた複雑怪奇な紋様は、地面に落ちた月明かりを飲み込むと、三層にも及ぶ魔法陣を空間に投影し、ヴィヴァの構える弓矢の前に正確に出現させた。

 構成は風乗り、風追い、威力強化、魔法現象強化、雷爆、収束に装甲破壊に反結界。若いエルフでは数え切れないほどに大量の効果。

 それら一切をまったく魔力を使わずに発現させたヴィヴァの表情に、喜色のかけらもない。


「あーやだやだ、逃げるだけの敵なんてつまんねえな」


 弦から指が離れる。

 ぼやきに似た言葉に、自らの神技に対する意識はない。

 ただの普段通りの攻撃に感動する馬鹿はいない。そういうことであり、ニアエンシェントの通常攻撃は一つの技巧のみで支えられていなかった。

 ありとあらゆる技巧、技法を百も千も重ね、とんでもない一撃を生み出す。

 弓に刻まれた魔術は増幅、増幅、増幅。魔力を増幅し、威力を増幅し、衝撃を増幅する。

 ドワーフの大弓すら上回る衝撃能力を持つ、引く方にもそれ以上の力が必要で、若いエルフなら持っただけで干からびるような魔力消費量を誇る、ヴィヴァの普段使いの強弓である。

 それだけの魔法と魔術を駆使し、恐ろしいまでの技巧と物理的な力で放たれた矢は単純な直線を描く。風の影響、重力の落下、大気の抵抗。そういったものを完全に無視した非常に単純な直線。

 そして、激しくかき鳴らされるリュートに似た音よく似た弓鳴りと、着弾の音は完全なる同時。音速など優に超えた速度は、聞く者の耳を疑わせるような結果を生む。

 そして複数だ。鉄板を雨だれが打つ音によく似た、それを数万倍にしたような音を立て、巨大な人型の魔獣へと突き刺さる。

 特殊な魔術を刻まれた矢は、乗っていた力すべてそのままに十や二十にも分裂し、同時に魔獣への背中へと着弾して数々の爆発を生み出す。

 闇夜に太陽が現れたかのような光景。


「あーもう本当にめんどくせえ!ひたすら相性が悪い!逃げんなボケこのタコ!」


 しかし、その闇を溶かしたような魔獣の表皮が激しく波打つと、背中から足先へと衝撃が流れ、激しく地面を打ち砕く。

 魔獣が生まれ持った能力、対衝撃装甲である。


「いやまぁ師匠に追われたら逃げるんじゃないっすかね、ふつー。俺なら迷わず逃げないで土下座しますけど。即行きますよ。任せといてください」


 そう言って苛立つヴィヴァの横に立つのは、一人の人間だった。

 どこにでもいるような黒髪の少年である。疲労で蒼ざめた顔色はひたすらに悪く、唇からは水分が失われ、ひどくカサついていた。

 装備らしい装備はなく、寝巻きような麻の服と腰の一本の剣だけが武装だ。

 かたや聖銅銀をベースに、数々の輝石により魔術を発揮する鎧を着込むヴィヴァとは大違いだ。

 豊満な上半身の要所を飾り、長い足が覗くスカート型の鎧は非常に扇情的な装いではあるが、少年はそんな肌色に興味を持つ気配はない。

 ヴィヴァ本人もエルフらしい整った顔立ちに、火山エルフ特有の淡い茶色の肌である。

 今でこそ苛立ちで口元が歪んでいるが、微笑みを一つ浮かべれば彼女を求める男たちで列を成しかねない妖艶な女だ。

 少年はそんなどうでもいいことより、ぐっすりと眠りたかった。

 出来たら、この口の悪い老人から遠く離れたところで、切実に。


「うるせー、ボケ。ちっとは師匠に楽させようとは思わねえのか」


「はい、無理です!そろそろ限界だと思います!俺、水なしで三日三晩走りっぱなしなんですけど!」


「あと一週間はいけんだろ。いけよ、私の弟子ならよ」


「人間はそういう生き物じゃないです!」


「ちっ」


 矢筒の中は、空だ。

 しかし、舌打ちと共に矢筒の中の虚空が矢によって満たされ、即座に放たれる連射は、もはや一筋の光だった。

 ひたすらに連射に連射を重ねられる矢の群れ。着弾の寸前に大きく広がり、人間の街なら更地になってお釣りがくるほどのそれらがいっそ無造作に放たれ続けていた。

 しかし、ヴィヴァ本人が言うように相性が悪いのか、巨大な人型の魔獣に異様なまでにダメージが与えられていない。

 これが貫通重視の装備であれば、おそらくではあるが粉々に出来ている感触があった。

 鈍器の攻撃は耐えられるが、剣や槍の刃物での攻撃を受け流せるタイプではないだろう。

 流体の魔獣というわけでもなし、単純にひますら相性が悪いだけだ。

 貫手ならいけそうだが、なんか汚そうでヴィヴァはいやであった。

 衝撃を受け流している最中は走れないらしく、足を止めた魔獣は激しく振動して足元に衝撃を撒き散らし、削れた地面がどんどん沈下していくのだが、これにどこまで意味があるものかとヴィヴァは思う。


「このまま埋めてやろうか」


「そのうち元気にこのサバンナを駆け回るんじゃないっすかね、どうせ」


「だろうねえ。どうすっかなあ、これ」


 単純にめんどくせえ、というのがヴィヴァの感想である。

 大氾濫を《首都》で迎えていたヴィヴァは、いつものように大暴れをしていた。

 いつもように食いでのある大魔獣の群れの中で暴れていたのだが、そこで始めて見たのが、この巨大な魔獣である。

 表皮はひたすらに黒く、ゼリーのようにぷるぷるしている。

 顔に当たる部分は赤い目があるだけの雑な造詣だ。

 特殊な攻撃をしてくるわけでもなく、殴る蹴る以上はしてこない。

 まぁなんとでもなるよな、というのが最初の評価である。

 岩が落ちてくるような拳をわざわざ近寄って受けてみたが普通に受け流せる程度——普通は死ぬ——踏み付けも大したことがない——上空から落ちてくる山を防ぐ程度——まぁいけるだろう、と思っていた。

 しかし、自慢の一矢が防がれたことで、イラっとしてしまった。

 装備を切り替えず、ムキになって百矢ばかり打ち込んだ辺りで、後に引けなくなってしまったのだ。

 確かに温存している手札をちょっと切ればなんとかなるだろうが、周囲にいるくそったれの戦友どもに煽られてしまった。


「え、ヴィヴァさん苦戦してるんすか?」


「え、お手伝いしましょうか?」


「え、喜んでお手伝しますんで。いつでもやりますからね。言ってください」


「え、それとも大人気なく本気出しちゃいます?あの雑魚に『百戦謳歌』さんともあろうお方が?」


 エルフに獣人にドワーフ。

 こいつらにナメられたままでは、女が廃る。

 手札を切ることなく、こいつを仕留めた後、自分を煽った連中をぶちのめさなければ、この傷付いたプライドは癒されることはないのだ。

 それにヴィヴァの攻撃が完全に通っていないわけではなかった。

 超高速で振動する魔獣の身体のあちこちから、微かに粉のような物が溢れ落ちている。

 柔らかで衝撃に強い身体も、あまりに長時間強烈に震え続けたことで少しずつ劣化し、崩れ落ち続けているのだ。

 つまり、いつかは倒せる。

 そのいつかがひたっすら……ひたっすらにそのいつかが遠いというだけだ。

 エルフ、『百戦謳歌』の茜・ヴィヴァ・ハルビアは短気な女だ。

 いっそ面倒くせえし、手札切ろうかな……と思った時であった。


「お?」


「珍しい生態してますね」


 ぶちり、と音を立てて魔獣の四肢が千切れ落ちる。

 その動きはまるでトカゲの尻尾だ。その程度の機能を持った魔獣は割といる。

 しかし、珍しいのはその先だ。

 どれが主で、どれが尻尾なのか。

 胴体、左右の腕、左右の足が一斉にバラバラに逃げ出したのだ。

 ナメクジが勢いよく跳ねているかのような逃げ方だ。

 とりあえず、とばかりに胴体を撃ってみれば、同じように振動して攻撃を吸収した。


「くっそめんどくせえー!なんなんだこいつ!」


「あっはっは、どうします?帰ります?帰りましょうよ」


「馬鹿言ってんじゃないよ!こうなったら絶対に逃さないからね!」


 このまま帰ったら、煽られる。

 つまり、ヴィヴァは首都を滅ぼさなければならない。

 自分を嘲笑する奴は全員抹殺しなければならないのだから、その余波でそうなってしまうのは確定的に明らかだ。

 失われるものは悲しいけれど、それを躊躇う気はまったくない。


「私が四本やるよ。あんたは右腕追いな。倒したら帰って休んでいい」


「え、マジすか。師匠、俺装備が剣一本なんですけど。服なんて、いきなり叩き起こされたから寝巻きのままなんですけど」


「だからなんだってんだい!やれば出来るし、やれなかったら死ぬだけだろ!それに大氾濫中は鎧着て寝ろって言ったろ」


「師匠がいるし、余裕だと思って鎧脱いで安心してたんすけど、期待し過ぎてたんすね、俺。すんませんっしたー」


「ここで私に殺されるか、あいつに殺されるか選びな、レウズ」


「はーい、いってきまーす。地獄に落ちろ、クソババア」


 人間、レウズ・ミノス。二つ名はなし。

 百年に一度の才覚の持ち主として、割と人間に好意的な手練れのエルフであるヴィヴァの下に送られてきた少年だ。


(まぁぼちぼちか)


 南へと逃げた右腕を追う少年の背中を見ながら、ヴィヴァは思った。

 十五という年の割には、相当に大したものだ。

 ヴィヴァから見れば乏しい魔力でありながら、三日三晩走り続け、未だに戦う余力を残すというのは悪くはない。

 ついでに徹底的に追い込んでも、生来の気の強さが失われていないのはよかった。言い草にムカついたから、あとでさらに徹底的に追い込むが。

 装備も剣一本だが、本当にあと一週間は戦えるだろう。水だって魔法で出せるくせに、いつまで続くかわからない戦いに備え、徹底的に温存していたのだ。

 悪くて二百、よほどよく見て三百のエルフ並みには育っている。

 短命な代わりなのか、人間や獣人の中からは時たま異様な成長曲線を描く、天才としか言えない者が現れることがあった。

 彼らは英雄と呼ばれ、ニアエンシェントエルフとも戦える存在となることがある。

 身体能力の優れる獣人からはそれなりによく出るが、脆弱な人間からは本当に滅多に出ない存在だ。

 このまま順調に生き延びれば、悪くないところまではいくだろう。


(まぁ無理か)


 そうも思うのだが。

 生き延びることではない。ヴィヴァの位階まで辿り着くことが、だ。

 ただ千年過ごすだけでもそれなりになるエルフの中でも、ヴィヴァはとびきりに闘争を愛するエルフだ。


「やっぱ今年はダルニアのところに行きゃよかったな……くそっ、スタンの奴も楽しそうな死に様しやがって」


『百戦謳歌』、ひたすらに闘争を嗜むヴィヴァへと付けられた二つ名は、そのことを端的に表している。

 同じように戦地に行き続けたダルニアとスタンのコンビは、そんなヴィヴァでも楽しいことになるやつらだった。

 八百歳にもなると明確な格上というやつは、相当に少なくなる。その数少ない明確な格上が、あの二人だ。

『獅子心女王』セガール・レオン。あの山賊と変わらないドワーフの王を打ち倒したあの二人の戦いは、未だにヴィヴァの深いところにずしりと残っている。

 二対一でも卑怯と言えないほど、七百歳ほどの彼らとセガール・レオンには隔絶した差があった。

 だが、彼らは『獅子心女王』倒してみせた。それは武芸でも魔法でも装備でも戦術でもなく、二人の根源的な強さだった。

 果たして自分は、あの二人に届いていたのだろうか。

 それを考えた時、ヴィヴァには紙一重まで届かせる自信はあった。

 だが、その厚い厚い紙一重を、どこまで詰められるか。


「せめて、あと五十年は欲しかったかね」


 そして、よく構ってやったクランも関わっていて、なにやら楽しそうな場になっていたらしい。なんだよ、暗殺集団『恥知らず』って。聞いたこともねえよ。呼べよ、私を。

 どうしても置いていかれた、と思ってしまう。

 そもそも並べもしていなかったというのに、八百歳にもなると知己が減るたびにそう考えてしまう。


 そんな彼らに比べて人間の百年に一人の天才。まぁすごい。で、それが?

 その程度の才覚の人間なら、長い長いエルフの生の中で何度か見かけるくらいでしかない。

 才能に満ち、環境に恵まれ、国からの支援を受けてヴィヴァの下に留学出来ている。これからも彼は最上の環境を与え続けられることだろう。

 本人の性格的に戦地に送られ続ける環境を、最上の環境とは呼ばないと思うが、それはそれだ。どんどん地獄に送れば、どんどん伸びるのが英雄だ。

 ヴィヴァの手元から送り返したらえらい人間に、あいつをどんどん地獄に送ってやれと進言してやるつもりである。

 英雄は本当に大事にされる生き物だ。しかし、本人の意向は関係ない。そんな余裕はあまりに弱々しい生き物である人間にはないのだ。


 しかし、八百年戦い続けてきたヴィヴァに肉薄出来るほどまで伸びるとは、到底思えない。

 上限なく、どこまでも伸び続けたとしても短命種は時間がなさすぎた。

 たった百年にも満たない時間で、どこまでいけるというのか。

 そんな小物を育てても、楽しいことになるとは到底思えない。


「はぁ……なんで私は留学なんて引き受けちまったのかねー。無駄なことしてるよなーやっぱ優しすぎるんだろうなーそういうとこで損してるよなー私さー」


 レウズが聞けば文句しか出ないことを言いながら、ヴィヴァは右腕を除いた四つの部位に攻撃を加え続けていた。

 やる気になれば右腕も押さえ込めていただろうが、レウズへの師匠としての愛だ。

 面倒くさかった。

 どこまで追うのかはわからないが、まぁ彼なら一月はかからずに戻ってこれるに違いない。

 実力と装備からして、ヴィヴァの見立てではその程度だ。

 死ぬほどの苦戦の末。そのくらいだろう。そのくらいでしかない。

 ひょっとしたらくたばって戻ってこれないかもしれないが、それだったら仕方がない。

 手を引かれなければ歩けないのなら、そんな生き物は当然のように死ぬべきだとヴィヴァは考えている。


「あーストレスしかたまんねえー腹減ったー」


 粉微塵になっていく黒い魔獣は、食えそうにもなかった。

 これで帰ってきたレウズが、一皮剥けていなかったら、もっとひどい目に合わせるしかない、とヴィヴァは固く誓った。

 恩と仇は絶対に忘れない。それがヴィヴァという生き物だ。

 この退屈な戦いを、レウズが戻ってくるまでに忘れることは絶対に、なにがあってもないだろう。

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