第19話・息が止まっていた

 息が止まっていた。クランの自発呼吸だ。

 それに気付いたステイシーは、慌ててクランを抱えて走り回った。

 ダメージはあったとはいえ、クランのようにだばだば血を流していたわけではないのだ。

 白目むいたエルフを抱え、夜の街を走り回るオークがどう見られるのかなんて、ちっとも頭に残していない激走であった。


「あっはっはっは、死ぬかと思ったぜ」


「笑ってる場合かね!?」


 外傷の治療に関しては、どの列強種族も十分なものを街ごとに備えている。

 骨が折れた程度で、腹の中でちゃぷちゃぷ音がする程度で戦闘能力が落ちて生産性が失われるようなことになれば、街が滅びる可能性がある世の中である。

 そのようなこともあり、回復魔法と薬学に熟達した者を集め、庶民がかかれる値段で医療を提供するのは、一般的な為政者の義務と考えられている。

 黄泉の淵に指一本かかってるだけの瀕死の重傷でも、時間と魔力さえあれば結構なんとかなるのであった。

 そんな病院の一室で、クランは一週間ぶりに目を覚ましていた。


「いやぁ、まさか死にかけるとは思わんかった」


「いや、今になって考えると、割と死んで当然の傷だったさね」


 馬車に跳ねられてトドメにもう一度跳ねられたような傷を負いながら、大した治療もせずに夜まで話し続けていたのだ。

 普通は死ぬ。

 生き延びているのは、生き汚いエルフゆえか。それともクラン本人の生命力か。


「……え、あたしそんなひどかったの?」


「まぁうん、脾臓が破裂して、全身の骨という骨が折れてて、右腕なんて骨が弾けて肉にめり込んでたさね。こう……ぐしゃっと。ついでに何故か目も破裂寸前だったさね。あと、あんたが無理矢理繋いだ骨に筋肉の繊維がぐちゃぐちゃに絡み合ってて」


「やめろ、生々しい想像させんな!?」


「……本当に生きててよかったさね」


「しみじみ言うなよ!?」


 はあ、とため息をついたステイシーは、お見舞いに持ってきたりんごを剥き始めた。

 するすると手際よく剥かれていく皮は、見ていて小気味よさを感じるほどだ。


「ほら、食いなよ。食欲はあるんだろ」


「いや、切れよ。まぁ食うけど」


 あんがと、と言ってクランが齧り始めたりんごは、皮を剥かれただけで丸々一個だ。

 ステイシーもりんごを齧り始めるが、二口で芯まで食い終わっていた。


「それでさ」


「ん?」


「どこに行く?」


「ん?」


 どこに行く?なにが?


「あー、パンケーキ食べたい。はちみついっぱいのやつ」


「そうじゃないさね。まぁ退院したらまた行こうか」


「うん」


 なんの話だろう。クランは首を傾げた。


「こ、この子ちっともわかってないさね……」


「んん?」


 りんごうめえ。クランは思った。

 そんな馬鹿面を見ているステイシーは、何故だか妙にもじもじと言葉を探す。


「あ、あんたが言ったんじゃないのさ!一緒に旅しようって!なんですっかり忘れてるのさ!?」


「あー」


 決意したように叫ぶステイシーの言葉で、クランはようやく思い出した。

 そうは言っても、クランも割と必死だったのだ。

 途切れそうになる意識を繋ぎとめながら回復魔法を施し、ひたすら話をしていた。

 正直、なんの話をしていたのか、ちっとも覚えていない。

 寸打……?なんですかねえ、それは?という塩梅だ。

 それに頬を染めるステイシーを見ていて楽しい、というのもあった。

 クランは思わずニヤニヤした。


「そっかー、ステイシーお姉さんはあたしと旅がしたいんだな?」


「はぁー?あんたが言ったんだろう?私と旅したいってさあ」


「えー、でも結構乗り気みたいじゃん?そっかーそうなんだぁー」


「くっそムカつくツラしやがって……!どっちが上か、またわからせてやろうかい!?」


「はぁー?あれはあたしが譲ってやったんですけどー?実質あたしの勝ちみたいなとこあるんですけどぉー?」


「はぁー?あんたのへなちょこパンチで撫でられて眠くなっただけさね。まだまだやれたに決まってるじゃないのさ」


「はぁー?」


「はぁー?」


 がっつんがっつん額をぶつけ合い、メンチを切り合う二人の間に、一人の人間の女が割り込んだ。

 恰幅のいい中年の女だ。


「あなたたち、病院ではお静かに」


「あ、はい」


「すんませんでした」


 簡単にひねり潰せそうな人間相手に、二人は素直に謝った。

 歴戦の看護師さんの潜った生死の境は、まだ若い二人とは比べ物にならないのだ。貫禄負けである。


「……まぁなんだ」


「……うん」


「行こうか、一緒に」


「行こうか、遠くへ」


 ごつん、と二人は拳をぶつけ合った。











「S.P.O.E!親愛なる市民のみなさま、ならびに敬愛する元老院議員のみなさま!そして、愛する我らが王!本日も始まりました、あたくし梔・ルディ二十四姫・アンジェリカ・ハビムト護民官の政見放送のお時間ですわ!この一週間、少し暑くなってまいりましたが、体調など崩してなどおられませんか?」


 軽快なBGMと共に流れる怨敵殿の声で、元老院議員、小尾・セガシエル・ノーマは頭が頭痛になった。

 毎週毎週ようやるわ、という呆れと、持ち込まれた案件の数々に押し潰されかけた疲れが、どっと表に現れたのだ。


「では今週のお便りです。静宮殿にお住まいのラジオネーム『恋するうさぎちゃん』さんからのお手紙です。うふふ、可愛いお名前ですね。えーと、なになに?『はじめまして、アンジェリカ様』。はじめましてーもっと気楽にアンジェリカって呼んでくださいましね?」


 何故、生きるということはこんなにも虚しいのだろう。

 セガシエルは、ふとそんなことを思った。

 なんだか、とても疲れを感じてしまった。


「『私には好きな相手がいます。思い切って話しかけてみたいのですが勇気が出ません。どうしたら話しかけられますか?教えてください、アンジェリカ様!』あらあらー、甘酸っぱいですわねえ」


 そういう時代が、セガシエルにも確かにあった。

 好きな相手に声をかける。

 異性に慣れてしまえばなんということもないが、まだ十代だったセガシエルにはそれがとてもとても破廉恥な行いに思えたのだ。

 敬虔な両親の下で厳しく躾けられたセガシエルは街道を歩むように、決められたテーマに基づいた議論を何時間でも続けられた。

 相手をやりこめ、こちらの論を展開していくのは恍惚すら感じられたものだ。

 だが、惚れた少女に話しかける、あのとびきりの気恥ずかしさと来たら!

 百の言葉を悠々と紡げるはずの口が、一つとして動かない。

 わかるとも、『恋するうさぎちゃん』。セガシエルは深く深く頷いた。


「難しい話ですよね、『恋するうさぎちゃん』さん。好きな相手に話しかけるって、とてもとても勇気がいりますのよね」


 初めて、梔・ルディ・アンジェリカ・ハビムトの言葉に、セガシエルは初めて、心の底から同意が出来た。奇跡だ。

 結局、あの時のセガシエルには勇気がなかった。

 図書室で見かけたあの少女の名を、未だにセガシエルは知らない。

 ページをめくる白い指、静かな眼差しは時折うっすらとした潤いを宿し、ほうと息を漏らす淡く色付く唇から目が離せなくなった。

 それはまだ十代のセガシエルにとって、とてつもなく尊い物に思えた。彼女になにか色付いた感情を抱くのが、とてつもなく破廉恥なものに思えたのだ。

 今でこそ若い潔癖だ、と笑えるが、当時は真剣だった。

 それが恋なのか、肉欲なのか。家族にも友人にも相談出来ず、真っ暗なベッドの中で必死に考え続けたものである。

 あの感情に名前を付けることを、セガシエルは未だに出来ずにいた。しようとも思わなかった。

 するのが、触れるのが惜しくて惜しくてたまらない。


「そう、その勇気は簡単な解決法があるのです!それは共通の話題!」


 ん?と淡い過去に心を浸していたセガシエルに、やたらテンションの上がったアンジェリカの声が飛び込んできた。


「話が盛り上がらないのは、お互いに知っている共通の話題がないからですわ!つまり、知っている共通の話題があればよし!ですわ!」


 こ、この野郎。少女の幼気いたいけな悩みを話の枕にしやがった……!

 絶対にこの女と共に天は戴けねえ、と心から思った。不倶戴天というやつである。


「そんなわけで今週のホットなニュースをあなたにお届け!チェケラー!」


 まったくもって、まったくもって許しがたい。

 どんな想いを抱いて、ラジオネーム『恋するうさぎちゃん』はアンジェリカに手紙を書いたのだろうか。

 託された想いを想像するだけで、セガシエルははらわたが煮えくりかえる。

 これは正しき怒りだ。間違いない。


「またまたやってくれました!我らが『担い手』、わたくしの妹クランの話ですわ。前回のお話の後、人間の街へ行ったクランはその不穏さに鋭く気付きましたの」


 もし、セガシエルがあの時、あの少女に話しかけたとしても、まぁ上手くは行かなかっただろう。行ったとしても大したものではなかったはずだ。

 初恋は実らなかったからこそ、美しいものだ。

 万が一に実り、収穫して口にしてしまえば「なんだ、こんなものか」とつまらないものとして、現実の一ページとして、幻想の価値を失ってしまっただろう。

 もちろん今の妻に不満があるわけでもない。

 お見合い結婚だが、八人の子供を共に育て上げ、元老院議員の妻などという労ばかり多い勤めを押し付けてしまっている。

 それもうるさ型で、愛されるような議員ではない自分の妻だ。おそらく外では色々と言われることもあるだろう。

 そんな彼女に支えられているセガシエルには、感謝しかない。妻を愛していると、何に誓ってもいい。胸を張って誓おう。

 だが、だが、だが!


「そこはエルフの消える街。静かに、巧妙に、捕らえたエルフたちを奴隷として売り飛ばす恐ろしい街でした……」


 ひょっとしたら、それは幻想ではなく、その美しい蜃気楼は、本当にあったのかもしれない。

 だから、知恵ある生き物は焦がれるほどに求めるのだ、恋を。

 それをこんな風に、無惨に踏み台として使うなど、許せることでは決してない。

 セガシエルは筆を取った。


「エルフを売り買いする悪の組織へと乗り込んだクランは、その気高さに仲間となったオークと共に快刀乱麻の大暴れ!千切っては投げ、千切っては投げの大活躍!」


 これは義憤である。許してはおけぬ悪を糾弾する正義の刃である。

 ラジオネーム『空飛ぶクジラ』が『恋するうさぎちゃん』を救うのだ!

 セガシエルの肩にずっしりと乗っていた疲れは、すっかり吹き飛び、やらねばならぬ行いをやるという、その使命感に満ちていた。


「……そんなわけで、そのエルフ売買網。微力ながら、あたくしの方で調査させていただいておりますわ」


「ん?」


 突然、冷たい、ひたすらに冷え切った声がセガシエルの耳に突き刺さった。

 議場で発言する、あの『冷酷姫』の声だ。

 どんな喧騒の中でも、異様なまでに通る声だ。

 彼女の突き付けるノーの一言は、セガシエルに突き付けられているわけでもないのに、何度聞いても背筋が震える。その声だ。

 義憤の熱に頭を焼かれていたセガシエルすら、一瞬で冷める声である。


「この破廉恥な行いは、人間種だけで行われていたわけではありません。エルフの、それも高い地位にある者の関与が疑われておりますの。そして、あたくしは絶対にその方を逃す気はありません」


 すう、と息を吸う音がした。

 ひどく冷たく、清冽な音だ。


「あたくし、梔・ルディ・アンジェリカ・ハビムトは、まだ名前も知らないあなたに向けて宣言いたします。あなたに法の裁きを与えることを。あたくしの政治生命に賭けて、絶対にあなたを獄に繋ぎます」


 ばん、と叩かれたのはテーブルか。思わず感情が高ぶり、叩いてしまったのだろう。

 あの彼女にそんな激しさがあるとは。セガシエルはひどく新鮮な驚きを得た。


「清濁併せ呑む。それは大変に結構!政治活動に資金が必要ないなんて絶対に言えませんわ!ですが、やっていいことと悪いことがあります。市民の皆様の命を賭け金に、恥知らずに理想を説くなどあたくしには絶対に出来ません!」


 覚えておきなさい、とアンジェリカは言った。

 力強く、意思に満ちた冷たい声は敵対しているはずのセガシエルにすら鮮烈に響く。


「まだ名前を知らないあなたは、これからこの梔・ルディ・アンジェリカ・ハビムトに追われるのだと。安らかな日々は、もはやあなたにはやってこないのだと思い知りなさい!そして、これを聞いている市民の皆様、賢明なる元老院議員の皆様」


 どうかお願いです、とマイクに髪が当たる音がした。

 頭を下げているのだ、あのアンジェリカが。

 誰が見ているわけでもない、マイクの前で。

 あの『元老院最大の敵』が。

 それは、何故だかひどくセガシエルに衝撃を与えていた。


「あたくしに力を貸してくださいまし。どんな事でも結構です。頑張れの一言でもかまいません。ただの護民官でしかない微力なあたくしに、どうか」


 しん、と音もなかった。

 ラジオの向こう側からも、セガシエルの居館からも、静宮殿のすべてからも。


「あたくしに、どうか力を貸してくださいまし」


 その一言は、熱のある言葉だった。

 きっと議場は大荒れになるだろう。

 なにせまだ誰が関与した犯人かわかっていない。

 それで議員や地位ある者を疑うなど、軽率のそしりを免れない行いだ。

 そもそも護民官に調査をする権限はない。

 しかし、だ。

 それでも味方となる者は大勢いるに違いない。

 彼女の敵であるセガシエルも、心動かされる言葉だった。

 よく考えてみれば、アンジェリカのやり口はひたすらに汚いが、それでも完全に法を犯している部分はないのだ。

 灰色の沼地に潜む魔女のような女だが、ほんの僅かな黒に触れようともしていない。

 それはひどく困難な道だ。

 便宜を図ってもらおうと持ち込まれる賄賂。便宜を図ってもらったお礼。顔を繋ぐ接待。

 そういうちょっとした物でも彼女が受け取った、という話をセガシエルは聞いたことがなかった。

 むしろ、そういう融通の利かなさで、実は評判を落としているところがある。

 セガシエルだって賄賂や接待は受け取っている。自分から要求したことはないが、受け取った方が話がスムーズに進むのだ。

 賄賂を受け取った、という共通項が出来ることにより、少しばかり関係が接近したようにようになる。

 さきほどの『恋するうさぎちゃん』へのアドバイスと同じだ。知恵ある生き物に、互いに理解出来る共通の話題というものは必要なのだ。

 理解し合える。理解し合えた。その錯覚は仕事をする上で必要なものだ。

 もちろんあまりにひどい、まったく市民のためにならない話なら突っぱねるが、賄賂を持ち込む側だってその辺りは理性を働かせて、無理のない範囲で利益を要求する。

 そういうものが大人の関係だと、セガシエルは考える。誰だって理解している。

 その知恵ある生き物の潤滑油を、アンジェリカは否定する。

 すべて公論にて決すべし、など政治の世界では初恋のように甘い理想論だ。

 しかし、この女はそれをやっている。人間性はくそくらえで出来たら知らないところでくたばって欲しいと思ったことは数え切れないほどだが、その行いの根底を流れるものは尊敬に値する。

 なら、少しばかり手伝ってやろうと、セガシエルは思った。
























「へえ、いいこと言うじゃないか、あんたの姉さん」


「いや、これ絶対になんか企んでる……誰かをハメる時のジェリ姉だよ……静の国に行くのだけはやめようぜ。絶対ろくな事になんねーよ……つーか、どこで見られてるんだ、あたしら……。めちゃくちゃ怖いんだけど」

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