第17話・死ぬ者は死に、逃げ出す者は逃げた

「笑うしかないさ。私はね、最初から知ってたのさ、愛されてないってことを」


 静かな言葉だった。

 死ぬ者は死に、逃げ出す者は逃げたフランコ邸は、クランとステイシー以外に音を立てる生き物はいない。

 遠くから聞こえる雑踏のざわめきすら消え、風の音すら静まりかえる。


 オークは愚かな生き物だ。

 魔法を知らず、高度な物品を作り出す技術を知らず、それを振るう技を知らず。

 知ろうとすれば知れることを、彼らは学ぼうとしない。


 だが、彼らは愛を知っていた。

 年を重ね、自分と戦える者がいなくなって、横に並ぶ者がいなくなって、後ろにいる誰かがいなくなって、ひとりぼっちになった時、彼らは絶望的な戦場に姿を現わす。

 七百歳。歴史上、最も強かったオークは一人で立った、その敵の前に。

 敵は四万、獣人諸部族連合軍。

 たった一人のオークを仕留めるために結成された軍隊である。

 真っ正面から四万の雑兵を半壊させ、数々の部族長を討ち取り、獣人の英雄たちが総出で疲弊した彼を討ち取った。

 オークとは、そういう生き物である。


「本当に三流の嘘つきなのさ、ダーリンは。私が作ったご飯だって、影で捨ててるのを知っていた」


 俯くステイシーは、ぴくりとも動かない。

 まるでそういう石像であるかのように。


「愛されてると、信じたかった」


 わかってたさね、と呟いた。


「最初からこうすればよかったのさ。オークらしくぶち殺して、なにもかも後腐れなく。でも好きだって言ってくれたのは、彼だけだったのさ。あんたがやろうって言った時、時が来たと思ったよ。独りで確かめるのが怖かったんだ」


 惨めだろう、と呟いた。

 力のない声だ。

 他になにもなかったんだよ。


「ねえ、クラン。あんたみたいに綺麗なエルフだったら彼は私を愛してくれてたのかな?」


 知るかよ、とクランは言った。

 ステイシーは、笑った。


「笑うなよ」


「笑うしかないじゃないか。怖かったんだよ、本当のことを確かめるのが」


「それのなにがおかしいんだ。怖いに決まってるだろ」


 スタンは、本当はクランを迷惑に思ってたんじゃないか?

 マーニャは、武装した旅人が怖かっただけかもしれない。

 アンジェリカだって、あの真っ黒な腹の内でなにを考えているかわかったもんじゃない。

 クランが出会った優しい人たちを疑うのは、怖くて怖くて仕方ない。

 愛を疑うのは、耐えられない怖さだ。


「笑えるね、クラン」


 卑屈な、それは卑屈な笑顔だった。

 ずっとずっと長い間、こうして笑っていたのだとわかる、ひどく慣れた笑顔だった。

 あのチンケなクソ野郎に傷付けられ続けた笑顔だった。


「笑うなよ」


「彼のために綺麗になろうとしたよ。彼の横に立っても恥ずかしくないようになろうとしたよ。彼に愛されようと頑張ったよ」


 なにもかもが、無駄だったんだよ。


「あたしはちっともそうは思わない。あんたは綺麗だ」


「何言ってんだい!この長い牙で齧り付けば、あんたの頭だって柔らかなりんごみたいなもんさ!」


「あたしはちっともそうは思わない。そいつはあんたのイカしたチャームポイントさ」


「私があんたをぶん殴れば、あんたは一発で粉々さ!」


「あたしはちっともそうは思わない。あんたに殴られたくらいでおねんねするほど、やわじゃないぜ?」


「私はあんたみたいになりたかった。美人で、誰にでも愛されるような生き物に」


「あたしはちっともそうは思わない。あんたは強くて綺麗でタフな女だ、ステイシー」


「ねえ、クラン」


 そんなクランの真っ直ぐな声に、ステイシーは拳を握った。

 強く、強く。

 暗い、暗い、井戸の底のような真っ暗な声を返して。


「ぶち殺してやるよ、クラン。こいつはただの八つ当たりだ。だれもかれも殺す。目が合えば殺す。合わなくても殺す。私に怯えたら殺す。怯えなくても殺す。私を愛さない奴らを全員ぶち殺す。そうしなくっちゃ、収まりがつかない」


「そうかい、ステイシー。それじゃあ最初の一人目でそいつはおしまいのようだぜ?」


 いっそ楽しげに帽子をいじり、肩を竦めるクランは満身創痍だ。

 自暴自棄の八つ当たりで負った負傷は、魔法による血止めこそなされているが、表面を塞いだだけでしかない。

 損傷した筋肉は動きを阻害し、こぼれ落ちた血液を造血する間もなかった。

 これからは、その余裕もないだろう。


 だから、なんだよ。逃げる理由にはちっともなっちゃいないぜ。


「なあ、クラン」


 踏み込み。柔らかな絨毯は、ステイシーの勢いに耐えきれず、まるで嵐の海のように部屋中を跳ね回る。

 鈍重だったさきほどまでの戦いとは違い、その動きは狂奔する馬のように力強く、速く、直線的だ。

 気付き、というやつを得たのか。

 速度の出し入れというより、純粋に身体の動かし方が上手くなっている、とクランは感じた。


「ちょっと美人だからって、調子に乗ってんじゃねえよなァァァァァァァァ!」


 振り下ろされる拳の風切る音は軽やかに。

 ステイシーのパンチは、速くて重いという、ひどく単純に強いパンチ。


「調子こいてんのはあんただろう、ステイシー!あたしを簡単に叩き潰せると思ってんだろ!?」


 対するクランは速く、速いだけの拳を返す。

 左目を狙ったフラッシュパンチ、一瞬だけでも視界を閉ざす。

 反射的に閉じられた死角に入り込んだクランは、ステイシーの背後に回り込んだ。


「なあ、ステイシー。あたしがあんたに言いたいのはさ」


 腰に両腕を回す、ぎゅっと抱き着くような体勢。

 強化は全開、へそに全力をこめて、両腕でステイシーの腰をへし折ってしまうくらいに。


「あたしをナメんなって話だよなァ!」


「ぬぉっ!?」


 へそ投げのバックドロップ。哀れなフランコ邸の床は硬いオークの額でぶち抜かれ、崩れ落ちる。

 丸一階分の高さの垂直落下式バックドロップで叩きつけたところで、クランに油断はない。

 次はこうしよう、と考えていたのが一つ図に当たった。

 だけど、あのオークがこのくらいでおねんねするはずが、


「あんたこそ私をナメてんじゃねえよ!」


 落下した石材に埋もれた拳が振り回されれば、もはや乱射される魔法でしかない。

 バカみたいな音を立てて飛んでくる石を一つ打ち、二つ避け、飛んできたパンチを左に避けて全力のフックをぶち込み、即座に距離を取る。

 深い距離に入り込むと、殴られこそしないだろうが捕まるに違いない。

 あのデカい手で掴まれて、生きていられるかなんて分の悪い賭けはさすがに出来そうにはなかった。

 小刻みなラッシュをしかけ、深く入り込む前に引く。

 それを繰り返して、どうにかなる……なるか?と疑問。

 ひたすら合わせて、ひたすら避ける。これ以外に活路を見つけなければ、話にならない。

 これだけ殴ってるのに、ステイシーの動きが鈍った様子はまったく見えなかった。

 どうする、と迷った時である。


「くたばりな、クラン」


「あ?」


 クランの顎が、跳ね上がった。

 それは当てるだけの、軽いパンチ。ジャブと呼ばれるものだ。

 拳を強く握らず、強い力みを作らず、腕を真っ直ぐに突き出すだけの、二本足の生き物の最速のパンチである。

 ただそれがオークのぶっとい腕でかまされた日には、目の前がチカチカするほどのストレートになるだけだ。

 飛びかける意識を必死に繋ぎ止め、クランはステイシーに向き直った。


 視界いっぱいを埋めるように、真っ直ぐなパンチが飛んでくる。指にマニキュア。初めて気付く。

 左に避けようとも、右に避けようともちっとも変わらないドンピシャな位置に、そいつは飛んできた。

 風乗りで必死に身体を横に滑らせても全然間に合わず、必死になって両腕を折りたたんでガードだけは、


「あー……」


 なにかが破れていた、お腹の中にあるなにかが。

 間に合ったはずのガードなんて、クソの役にも立ちはせず。

 気付けばクランは、何故か空を見上げていた。


「終わりさ、クラン」


「はっ」


 笑ったつもりが、口から血が噴水のように噴き出し、ガードした両腕は関節がいくつも増えていて、とんでもない有り様だ。

 一発でこれかよ、とうんざりするほどのダメージだが、減らず口を止める気には、ちっともならず。

 クランの背中で開けた壁の穴から、ステイシーが飛び降りてくる。

 ゆっくりと歩くステイシーの両肩からは、抑えきれない熱量が陽炎として立ち昇っていた。

 殺意の、悲しみの形だった。


「笑うなって言われたから、今度はあたしを笑わせにかかってんのかい?」


 奇跡的に、何故か帽子だけは頭の上に引っかかっている。

 すげーな、と妙なおかしさを感じて、クランは笑った。

 どれだけ柔らかい芝生なのか、ふにゃふにゃでちっとも立てはしない。なんだよ、これ。どういう土なんだ?

 まぁでも、笑えるってことは、つまり立てるってことだろ、きっと。

 だから、立った。立つべき時に立つ。

 それは必要なことだ。


「あたしはまだまだ粉々になってないぜ?それともおばちゃんはもう疲れたのか?」


「もう立つんじゃないよ。楽に殺してやる」


 足の感覚が、これっぽっちもない。

 殴られたのは腹のはずなのに、なんで足なんだろう。不思議だ。


「あたしは立つよ」


 ゆっくりと、ステイシーは歩いてくる。卑屈な笑みと怒りの陽炎を浮かべて。

 クランの中で、メラメラと怒りが燃え始めていた。


「なあ、ステイシー。あんた、知ってるかい?」


「くだらないお喋りに付き合う気はないよ。ちょっと時間を稼いだって、その傷を治すには焼け石に水さ」


「おい、ステイシー。あたしがそんな小賢しい真似するとでも?」


「するだろう、エルフ。あんたらはそういう小賢しい生き物だ」


「まぁするんだけどさ。それよりも実はあたし、エルフのお姫様なんだぜ。ウケるだろ?」


「へえ、そりゃ大したもんだ。聞いたことのない斬新な命乞いだね」


「よくわかんねー王様に、よくわかんねー立場だからさ、あたしら。友達いねーんだよ。だから、こういう殴り合いって初めてでね。あたしの流儀でやらせてもらう」


 なんとか腕の骨だけは繋げた。小賢しい時間稼ぎってやつもなかなか馬鹿にしたもんじゃない。

 深い、深いステイシーの怒りを感じる。

 どうしようもないステイシーの悲しみを感じる。

 とてつもなくデカい、ステイシーの中から失われたものを感じる。

 そいつに踏み込むのは、ステイシーのパンチなんかより、とてつもなく怖かった。

 それを隠すように、クランは帽子の縁に指をかけて視線を隠す。

 可哀想なステイシー。そう哀れんでやるのは簡単だ。


 だけど、それは違うと思った。

 だから、やるのだ。


 彼女の柔らかいはらわたに手を突っ込んで、一番大きな物を引っこ抜く。そんな行いをクランはしようとしている。

 それはとびきり恐ろしい行いだ。誰かの心に手を突っ込むなんて、考えただけでビビっちまう。


 その結果にお前は責任は持てるのか?余計に傷付けたらどうする?今度はお前がステイシーを殺しちまうんだ。よしとけよ、な?


 だけど、その怖さはクソみたいなもんだ。

 易きに流された、情けない考えだ。

 そいつはちっともエスプリじゃあない。


「あたし、梔・ルディ・クラン・ハビムトは宣言する」


 繋いだとはいえ、どこにヒビが入っているのかすらわからない。

 そんなポンコツの腕でも、痛みは感じなかった。

 さすがわかってんな、あたしの身体。

 今この時、この瞬間はぐっすりおねんねしている場合じゃあない。

 自分の痛みに、気を取られている場合じゃあない。

 やるべき事は、ここにある。

 格好つけろ。向かい風に、マントをひるがえせ。


「我が敵、ステイシー・ジョイの愛を守るため」


 ちっとも納得がいかない。

 あのステイシーが、あんな顔をしているのは、ちっとも納得が出来なかった。

 あたしは、めちゃくちゃ腹が立っている。あんたはパンケーキでも食って、幸せそうに笑ってやがれ。

 こいつは正しき怒りだ。

 そいつを握れ。

 帽子から指を離したクランの双眸からは、バチバチと火花舞う。


「我がエスプリのおもむくがままに、あたしはあんたに決闘を申し込む!」


 その宣言は、天上天下すべてに響けとばかりに、威風堂々と放たれた。


「賭け金はあたしの命に、あんたの愛。なかなか釣り合いが取れてるとは思わないかい?『ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ』」


「粉々にぶちまけて、ド派手にぶち殺してやるよ、『担い手』ェ!」

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