第11話・ぶおおおん

「ぶおおおおおん……ぶおおおおおん……」


 クランは泣いた。三日ばかり。

 スタンが死んだことが悲しかったのはある。しかし、スタンは戦ったのだ。

 戦士を涙で送ることは、とんでもない侮辱だとクランは知っている。

 勝者はどちらか。きっとあの世で決めているに違いない。

 そう思えば、泣く理由なんてどこにもない。


 だが、『担い手』たるクラン。


 クランは怒った。

 いつかあの悪逆非道たるアンジェリカを討ち、自分を笑うクソどもに目に物見せてやるのだと、正しい怒りを胸に戦った。

 しかし、全敗した。

 完璧に負けた。

 青春よくばりセット、その名に偽りなし。そいつを提げたクランは、それくらいに完璧に負けた。

『恥知らず』に勝った時の鋭さは、どうやらクランの身体からぬるりと逃げていってしまったらしく、ひどく弄ばれた。


「こいつは奢りだ、『担い手』殿。恥と名誉を思い出させてくれた、我らが女神に」


 こうして口先でクランをいい気持ちにさせて、酒を奢って、足元をふらつかせた隙を突く汚い策略に引っかかってしまったのだ。


「くっそ弱えなあ、雛鳥ぃ!これでわかっただろう、俺が恥と名誉を知るエルフだってなァ!ゲハハハハハ!がははははは!グハハハハハハァ!ぶっさいくな泣き顔だなぁ、うはははははは!やーい、青春よくばりセットの担い手ぇー!」


 大人はきたねえ。クランは泣いた。三日も泣いた。

 このあまりにひどい現実から、クランはひたすらに逃げた。

 ぶおんぶおん泣きながら歩いたクランは、いつしか静の国を抜けるくらいに勢いよく逃げたのだ。

 元老院の魔術的ネットワークから外れ、いつの間にか荒野の街道を歩いていた。


「……あれ?」


 クランはふと気付いた。

 果たして、ここはどこだろう?

 街道。……この足元の道は、果たして本当に街道だろうか?


 エルフの考える街道とは、石畳だ。

 最低でも馬車二台がすれ違える広さを持ち、道の左右には必ず雨水などを流し込む用水路が設置されている。

 排水のために僅かな傾斜を付け、石畳の下も数々の目的のために七層の構造になっていたりと、莫大な費用がかかる作りではあるが、これがそこまでやった価値があるほどに長持ちするのだ。

 静の国では、エンシェントエルフよりも長く生きる街道が今も数多くある。

 しかし、今クランの足元に伸びているのは、土である。

 まぁ……草は生えてないよね?という、踏み固められただけの頼りない道だ。

 うっすらと馬車が通った轍の跡が、よーく目をこらせば……風が通ったか、轍の跡か迷う程度には見える。

 え、嘘だろ。これが街道……?

 文明人たるエルフからすれば、そういう頼りなさを覚える道である。

 しかも、クランは宮殿生まれの温室育ち。ジジイとババアは大体、友達。

 こんな道らしからぬ道は、見たことがなかった。

 ひょっとしたらどこかの獣道に迷い込んでしまったのか。いやしかし、真っ直ぐ街道を歩いてきたはずだ。果たして本当に自分の記憶は確かなのか?自分とは一体?

 そして、


「あ、あたしはどっちから来たんだ……?」


 前を見ても、後ろを見ても、右を見ても左を見ても、それは荒野だった。

 どこまでも広がる赤茶けた地面は、剥き出しの岩がごろごろと転がっている。

 そろそろ太陽は沈み始め、そうだ、これで方角がわかる!と一瞬喜んだクランだが、ぐるぐるあちこち見回している間にどちらから来たか方角を見失っていた。


「え、嘘……え?」


 持ち物は鉄剣一本。背嚢には着替え、金貨、水。以上。


「え?」


 持ち物は鉄剣一本。背嚢には着替え、金貨、水。以上。

 あまりの悲しさに、魔術的効果を発揮する皮鎧すら宿に置き忘れてきていた。

 食料すら……いや、食料は自分で食い尽くした覚えがある。

 とにかく一つだけ言えるのであれば、


「やべえ……」


 のであった。











「ぶおおおん……ぶおおおん……」


 クランはまた泣いていた。

 クソどもに泣かされた悲しみではない。人の、優しさにだ。


「まぁ、よっぽどお腹が空いていたのねえ。たくさんお食べなさい、クランちゃん」


「ありがとう……ありがとうございます……」


 あれから更に三日である。

 クランはひたすらにさまよった。

 静の国では街道沿いに一日も歩けば、村の一つや二つは見つかるものだ。

 そう考えれば財布はまだまだじゃらじゃらしているのだから、と余裕を持っていた。

 やっぱりこの金貨はジェリ姉の優しさだったんだな、と思えていた。

 文明の痕跡は、一つも見つからなかった。


 二日目になると、歩き通しのクランはアンジェリカを恨んだ。

 こんな状況に陥っているのも、金貨があほほど重いのも、全てあの姉を名乗る悪辣非道で、よく気持ち悪い奇声を上げてる生き物のせいなのだと。あのラジオは普段のアンジェリカを知っていると、ひたすらに気持ち悪い。

 野を駆ける獣を狩ることは出来なかった。

 弓と矢があればなんとかなったかもしれないが持っていない。

 魔法はまだ練習中である。

 すべてを学ぶには、五十年というクランの生は短すぎた。

 炎はそれなり。だが、野ネズミにぶち当てたら炭になった。

 氷を飛ばしてみたら、今度は遅すぎて当たらない。風?紙なら飛ばせる。雷?出ねえよ。

 魔力が尽きるまで頑張ったところで、スタンが教えてくれた通り水を用意していなかったらシャレにならなかった。

 スタンに教えられたことは、やはり正しかった。


 三日目になると、クランはアンジェリカに再び感謝した。

 金貨をかじると、味がするのだ。

 金属の味だ。


「うめえ……うめえよ……ぶおおおん……ぶおおおん……!」


 いや、金属の味ってなんだよ、バカじゃねーの!このご馳走の前にはゴミ同然だね!いや、そういやエルフの食いもんじゃねーな、金貨って!

 ようやく、本当にようやく見つけた人家に飛び込んだクランは土下座をしたのか、倒れ込んだのか。

 住んでいた老婦人に頼み込んで、飯を食わせてもらっているのだ。

 献立はなんかの芋を塩で煮込んだスープ。肉はかけらも入っていないが、胃袋が胃袋を消化しそうな状況では、とびきりのごちそうだった。


「いや、本当にありがとうございました!あなたはあたしの命の恩人です!」


「やあねえ、クランちゃん。こんな豚の餌で大袈裟よぉ」


「いやマジで腹減ってたんで。ホンモノの豚の餌でも食えましたね、わはは」


 わははではない。

 鍋一つ食い尽くした一食は、この言葉を飾っても粗末な、今にも朽ちて倒壊しそうな小屋に住む老婦人にどれだけの負担になるだろうか。

 腹がくちて、ようやく頭が回ってきたクランにも、それは伝わってきた。

 クランは恩讐を知るエルフだ。

 仇には仇を、恩にはとびきりの祝福を返さねば気が済まない。


「あ、あの……その、こんなものしかないんですが、せめてものお礼に受け取ってください」


「まぁ、こんなに?」


 と、じゃらじゃらと今にも崩れ落ちそうなテーブルにクランが載せたのは、財布の中身すべてだ。

 金色の輝きで目が痛くなるほどだが、その中にクランが買い食いしたお釣りの茶色の銅貨と銀色の銀貨もいくつか混ざっている。

 こんな物で、とクランは心から申し訳なく思っていた。

 自分に付ける値段が安いということは、それだけの価値しかないと言っているようなものだ。


「ねえ、クランちゃん。長く生きているエルフのあなたに、人間の私がこうして言うのはおかしな話かもしれないけど、お金って大事なの」


「いやでも、恩を返したくてもあたしに出来ること何にもないんで……受け取ってください、お願いします」


 クランは深々と頭を下げた。

 この粗末なあばら家で決して裕福な暮らしではないというのに、この金貨の山に心を奪われない人間の老婦人が一体何者なのか。そういうことに気付きもせず。


「いいこと、クランちゃん?このスープの対価は」


 と、しわだらけの手で取ったのは一枚の銅貨。


「せいぜいこれ一枚ね」


「や、でもスープがそれでも自分の命に値段付けないといけませんし……せめて、財布の中身全部くらいは受け取ってください」


「それじゃあ街に行って、お金がなくて倒れるクランちゃんを心配しちゃうわ。そうね……それじゃあクランちゃんの命の値段は、お仕事で払ってもらおうかしら」


「うす!マジなんでもします!ドラゴンとか倒してきましょうか!」


 出来るわけがない。

 が、その程度にはクランは本気だった。

 本気で剣一本でドラゴン退治に行く。その本気が伝わって、老婦人はクランの頭の中身を少しばかり疑い始めていた。

 大丈夫なのかしら、この子……という疑いである。

 老人に心配ばかりかける。それが梔・ルディ・クラン・ハビムトという女の生き方だ。


「この辺りにドラゴンはいないけど……でも、ひょっとしたらドラゴンより強いかもしれないわねえ」


「マジすか」


「ええ、すごく手強い相手よ」


「ごくり」


 と、クランは唾を飲む。

 なんでもやります、とは言ったがなにをさせられるのか。

 やるぞ、と拳を握った。


「それじゃあ薪拾いしてちょうだい」


「へ?」


「年寄りになると薪拾いが手強くて手強くて仕方ないのよねえ。その次は……そうね、寝る前におばあちゃんの話し相手になってちょうだい。年寄りの話ときたら、とんでもなく長いんだから」


「あはっ」


 キュートなウインクに、クランはすっかりやられてしまった。

 この人、好きだ。


「任せておいてください。あたしにかかれば、そいつらなんてちょちょいのちょいです!」


 クランは、このマーニャおばさんをすっかり好きになってしまった。

 老人に愛され、老人を愛する。それが梔・ルディ・クラン・ハビムトという女の生き方である。









 その土地は、ひどく奇妙な感触がした。

 マーニャのあばら家がある土地は泉が湧く、豊かな森である。

 いくつかの小動物が住み着き(木を削って自作した弓で、美味しいご飯になってもらった)、だがそれ以上の大きな危険な生き物が住み着ける環境になっていない。

 おおよそ十分も歩けば、森が突然途切れていて小さいのだ。

 その外側には再び赤茶けた荒野が広がり、ぽつりぽつりと少しばかりの草木があるだけだ。

 どちらかと言えば、マーニャの土地の方が浮いていた奇妙な豊かさ。

 人一人、少しの動物を生かすのが精一杯といったところか。

 立地としても、この荒野を通るのはエルフが西に抜ける以外はほとんどないらしく、山賊やらそういう輩も生活が成り立たなそうな場所である。

 その森の外に目を向ければ大き目の岩が露出している以外は、妙に平坦な地形になっていた。


「多分ですけど、西……西北西かな?この方向に真っ直ぐ七日。その辺りに街がありますよね?」


「まぁ、正解よ。どうしてわかるの?」


 へへん、とクランは胸を張った。

 見た目こそ天上から舞い降りた女神か。

 人間と違って発育のいいエルフらしく、身長だって別に低くはない。

 そのはずなのに、話しているとどんどん子どもを相手にするような気持ちになるのは一体どういうわけか。


「多分、この土地は地龍が通ったんですよ。次に地龍がうねって水が浮き上がる場所がその辺りかなって。生き物は水がないと生きられませんし」


「地龍……?それは、その……おとぎ話ではなくて?」


「はい、多分ですけど、実在しているやつです」


 クランは同年代に比べ、基本的な学と、それ以外の妙なところで博学だ。

 その原因は静宮殿に出入りする、王に素晴らしい物を捧げようとするエルフにある。

 どんな素晴らしい発見をしようと、王は興味一つ示さない。とてもかなしい。

 そんな消沈の中、このとびきり愛らしい少女に「すごーい!」と底が抜けて底の知れた賞賛を受けた連中が、ひどく感動してしまったのである。

 確かに底が抜けて底の知れた、よくわかんないけどすごいね、という賞賛でもとてもとても嬉しい。

 しかし、だ。

「ここがこうなって、こういう計算で……あんた本当に天才だな」と隅の隅まで理解した上で、心からの賞賛が欲しい、と望んだ連中が、クランに自分たちの学問を押し付けた。

 構ってくれる大人に喜ぶ幼いクランも、それを飲み込んだ。

 その結果、クランは生きる上で大して役に立たない知識を結構、知っているのだった。


「全長はまだよくわかんないですけど、直径が……百八十メートルから、三百メートルの間になります。そいつがうねって、歪んだ地下の水の流れが上に出てきてるのがこの土地です」


 地龍とされているなにかは、おそらくではあるがいくつかの形態があるとされている。

 まず直接、地下に穴を開けるような物質的な形態。土に奇妙なふるまいをさせる流体のような形態。そして、土の粒子の間を通り抜ける謎の形態だ。

 果たして本当にそれが一種の仕業なのか、見た目はどういうものなのか、生物なのか現象なのか、ということもわかっていないが、とにかく何かしらはいるのだろう、とエルフの学会では受け入れられていた。

 この発見はおそらくエルフでなければ、出来なかったであろう。

 魔力と土の流れに敏感であり、各地の変化を、百年単位で見ていなければ、気付くことも出来ない代物だ。

 地面の下になにかがいる、と確信したそのエルフは、五百年かけて各地を旅し、論文をまとめていた。

 そういう自らの興味に対して、人生を賭けるエルフは数多い。


「ええと……それじゃあ、この土地はどの形の地龍が通っていったのかしら」


「流体の、水か……相当ゆるい泥水みたいな形態ですね。地層と地脈の流れが左回転をするのが特徴です。魔力の流れもかなり特殊で……見れるなら一発でわかります」


 と、言われても普通の人間であるマーニャには、さっぱりわからなかった。

 地面を見ても、普通の地面だ。魔力というのもよくわからないし、回転しているようには見えない。

 地面に手を当て、むにゃむにゃと魔力を流しているクランのように、特殊な魔法の扱いに熟達していなければならないからだ。

 そう、クランは地面の流れを頭の中に映し出す、そんな特殊な魔法の扱いには、とても熟達していた。

 地面の粒子の間に、魔力を流し込み、その反響でマップを描くのだ。

 ちなみに大気中でこれを使うと、一瞬で全部の魔力が流れ出て、あっという間に魔力が切れる。

 これを戦闘に転用しようと思えば、非現実的なレベルで魔力を必要とし、なにより同じ効果を発揮する魔法と魔術が相当な数があった。

 生きる上で役に立つ魔法では、決してない。


「……エルフってほんと」


「え、なんです?」


「なんでもないのよ、クランちゃんには」


「?」


 二人が思っていた以上に、この生活は長く続いた。

 互いが互いを気にいったのもある。

 倒壊しそうな小屋を、クランはとんてんかんてん直した。

 大した道具もないのに、しっかりとした計算の上で組んだ椅子は、釘なんてどこにも使っていないはずなのに、マーニャを驚かせるほどにきちんとした作りになっていた。


「いい、クランちゃん。あなたが人間の街に入ろうとした場合、問題になるのは入市税になるわ」


「うっす」


 それ以上に、マーニャが想像していた以上に、最初に思った通り、とんでもなく心配になる娘だった。


「街に入った時、税金としていくらか取られて、出る時は旅人さんからは取らないわね、普通は。むしろ、根無し草の旅人なんて早く出て行って欲しいからね。万が一取っている街があるようなら最初から近付かない方がいいわ」


 滅多にないことではあるが、旅人を街に取り込んでおきたい、という場合がある。

 戦争が間近に迫っていて、どうしても頭数を増やしたい場合……これも大した効果があるわけでもないし、本当にどうしても……それだけ余裕がない負けそうな側ということでもある。

 さっさと逃げるべきであった。


「入市税の相場はこのあたりでは銀貨三枚ね。これ以上多くかけても、少なくかけても他の街に怒られちゃうのよ。多くしたら来る人が減って、街道沿いの次の街も来る人が減るし、少なくしたら自分の街に人を集めて、何を企んでるのかーってね」


「ふむふむ」


「だから、それ以上を求められるようなら門番が賄賂を取ってるのね。人間の兵士は、他に仕事が出来る能がない、盆暗のろくでなしがやる仕事なの。エルフの名誉は彼らには全然わからないから、どんな恥知らずな真似でも平然とするわ」


 ほへー、とわかっているのか、わかっていないのか口を開くクランに、こういう基本的な知識を与える誰かはいなかったのか。

 地龍の話には感心したが、この少女はあまりに世間の常識を知らなかった。

 どうでもいい知識を与える前に、することがあっただろう。

 マーニャの頭の中で、そういう連中がひどい目に合っていた。


「門では危ない物を持っていないか絶対に確かめようとするわ」


「えっと、それは普通のことじゃないですか?」


「どうせエルフ自体が危ないものよ。三百歳クラスのエルフが暴れたら、雑兵が百人いても止められないもの。気にするだけ無駄だわ」


「ふむ?」


 よくわかっていない、という顔をするクランだが、マーニャはあえて説明しなかった。

 人間であるマーニャが、わざわざ説明したところで理解し難いと思えたからだ。

 人間の弱さと、強さを。

 その事をどう説明しても、実感としての理解は、この若いエルフには絶対に伝わらない。

 エルフは恐ろしいが、その恐ろしさはひどく単純な恐ろしさである。

 その恐ろしさは、人間の恐ろしさとは違うものだとマーニャはよく知っていた。

 どちらが上とかではなく、どちらも恐ろしい生き物だと知っていた。


「だからね、街にエルフを最初から完全に入れないか、完全に入れちゃうの。エルフの旅人さんは人間の旅人と違って、お行儀がいいんですもの。大切なお客様よ」


「えへへ」


 エルフの旅人は、やたら気前がいい。

 路銀を稼ぐ手段に長けた彼らは——なにせ狩りをしてもいいし、職人としても一流の者が多い。芸術家もいて吟遊詩人でもあり、その全てを兼ねている者だっている。しかし、この少女に果たして何かそういう手段はあるのか。マーニャはとても心配になっていた。大工さん?この子が?——街に金を落としていくし、暴力を発揮する機会に運悪く恵まれたとしても、その辺りのチンピラでは話にならない戦闘力を持つ彼らは、刃物を突き付けられても、ちょっとしたいたずらとして穏便に済ませてくれることが多いのだ。

 エルフは、よその土地の掟に基本的に従ってくれる。同族のエルフからの指示に最も従わないのが、エルフのよくわからないところだが。

 そういう諸々を考えるのなら、まともな統治者としては目をつむれる範囲だ。

 非常に乱暴な統治者なら、もっと血の気が多くなってスラムに住み着くチンピラどもを血祭りにして去って欲しいと考えるくらいには、エルフの旅人は有益な存在である。


「それでね、クランちゃんはとっても可愛いわね。……シャレにならないわ」


「そうですかねえ?普通ですよ。痛い!?」


 ぽへーと口を開いているクランの手に、マーニャは鞭を打った。

 子どものしつけには、これだ。


「自分がとても、シャレにならないくらい、可愛いのだと、自覚なさい」


「は、はい、あたしは、シャレにならないくらい、とても可愛いです」


「よろしい」


 絶対にわかっていない。

 そう思ったが、その自覚のなさも可愛らしい、と思わせられるのだからこの娘は本当に狡い生き物だとマーニャは思った。


「変な男が近付いてきても、絶対に着いていっちゃダメよ」


「はい」


「変な女が近付いてきても、絶対に着いていっちゃダメよ」


「そ、それはあたしは誰に着いていけばいいんでしょうか」


「ダメよ、絶対。お菓子あげるからって言われても」


「あっはっは、そんなお菓子なんかで痛い!?」


「笑い事じゃないのよ。おわかり?」


「は、はい」


 なにせこの娘は、鞭で打たれても妙に嬉しそうな顔をしている。

 もちろん鞭で打たれること自体への喜びではない。

 誰かに構ってもらえるのが、嬉しくて嬉しくてたまらないのだ。

 マーニャは、頭の中で静宮殿を粉々に破壊し尽くした。

 梔・ルディ・ハビムトを、彼女の父親を、頭の中で淑女が絶対に口に出せない目に合わせていた。


「ろくでなしの門番や衛兵がきっと可愛いあなたに触ろうとするし、ひょっとしたら服を脱がせて危ない物を持っていないか確かめようとするわ。その時、クランちゃんはどうする?」


「えーと……確かめてもら痛い!?」


「いい?男は狼なのよ、クランちゃん。いつだって女の子をパクリと食べようと狙ってるの」


「あっはっは、これでもあたし強痛い!?」


「そういうのはすべて突っぱねなさい。エルフに強く出られて、性欲に命を賭けられる人間の兵隊がいたらお目にかかってみたいくらいよ」


「性欲」


 クランの顔には、よくわかっていません、と書いてある。

 エルフの性欲というものも、よくわからない。

 男女問わず、大いに性欲を発揮するエルフもいれば、人間が数代丸々入る年月を性欲に触れずに過ごすエルフもいるのだ。

 若い内に覚えるかどうかが分かれ目なのではないか?と言っていたエルフがいたが、その本人も自信がなさげであった。


「そう、彼らは女を抱くことと、酒を飲むこと、博打を打つこと以外、何も頭に入っていないの。彼らと会話をするくらいなら、空っぽの樽と話していたほうがよほど建設的な会話が出来るわ」


「いくらなんでもそこまでってことは痛い!?」


「あるのよ」


 エルフの基本的な学ともなれば、文字の読み書き、四則演算くらいは当然だ。天体の運行から、今日の日付を読むことだってするかもしれない。深い深い思索を成すだろう、政治への深い理解も示す。

 しかし、人間にとって、それはもはや特殊な、魔法のような技能だ。

 職人を抱える店があったとして、まともな経営者なら、職人に渡す給料に月給制は絶対に採用しない。

 何故なら彼らは足し算引き算が怪しい。一ヶ月分の給料を半月で飲み倒し、残り半月は借金して暮らす。

 炎に飛び込む虫けらのような生き方をする。

 日給制にしておけば無駄遣いを繰り返しても、とりあえずその日は食っていけるのだ。

 そうして働いている間は食っていけるのだし、いつの間にか借金漬けになって無駄に熟練工を失うことは相当に減る。

 ちなみに人間の世界で農村の村長の仕事とは、一年の収穫を食い尽くさせないように計算することでもある。

 秋に収穫した麦を、次の夏までに食い尽くしていては死んでしまう。

 エルフからすれば冗談のような生き方だが、それが人間の現実である。


 種が、違う。

 エルフと人間はどうしてこんなにも差があるのか、と若い頃は嘆いたことがあった。

 結局は、そういうことなのだろうと飲み込むまで、長い長い時間がかかった。

 マーニャは、エルフが嫌いだった。

 だって、狡いではないか。

 神様に贔屓されたように老いから逃れ、知識を蓄え、勝手に豊かになっていく。

 どれだけ手をかけようと、すぐに死ぬ人間とは大違いだ。

 人間だって大嫌いだ。エルフのように美しく生きたかった。生きられなかった。

 醜く、泥を啜るように生きてきた。真っ直ぐ立とうとしても、出来なかった。

 しかし、


「???えへへ」


 いきなり頭を撫でられて、困惑しながらも嬉しそうに笑うエルフを見ていると、そんなことを考えるのがすっかり馬鹿馬鹿しくなってしまっている。

 この子はひょっとしたら、ひどく辛い目に合うかもしれない。

 ひょっとしなくても、ひどい悪意の渦に巻き込まれるだろう。

 この真っ直ぐな気性は、誰もが飲み込んでいて、飲み込むべき物を飲み込むことすら困難だろう。

 死にたくなるような目にも合うはずだ。

 そして、そうやってずっと生き続けることは、永遠にしか思えないような時間を生きることが、この能天気な娘にとって幸福なことなのだろうか。

 くしゃくしゃと撫で回す髪は、白く染まったマーニャの髪と違うものだ。

 鮮やかで豊かな金髪は引っかかりなんてどこにもなく、神様に愛されたとしか思えない美しさ。

 それは、もう呪いとしかマーニャには思えなかった。

 特別秀でた者は、特別苦難に襲われる。

 この神様に愛された少女は、絶対に平穏には生きられないだろう。

 それを可哀想に、とは思いたくなかった。

 この笑顔が失われるとは、思いたくなかった。


「それでね、クランちゃん」


「はい、お菓子が痛い!?」


 だから、せめて、その苦難の道行にほんの僅かでも助けになれるように、マーニャは彼女に鞭を打ち込んだ。

 力一杯、あまりにお馬鹿なことを抜かしたクランの手の甲に。

 そこに恨みや妬みはなかった。怒りはあったのだけれど。


 人生の最後の最後に、嫌いな物が一つ減ったことを、マーニャは神様に感謝した。

 それは人生を大きく変える大きな出来事では決してなかった。

 しかし、寒い外から帰ってきて暖かい食べ物を口にした時に吐く息のように、ひどくほっとするものだったのだから。


 彼女の生にどんな苦難が訪れようと、そんなほっと一息をつける時間を忘れませんように。

 美味しいご飯を食べているのだと忘れて、食を義務とする日が来ませんように。

 自分のように、こうして救いが訪れますように。

 旅立つ彼女の背に、マーニャは強く強く祈りを捧げた。

 何度も何度も振り返り、こちらに手を振る彼女の旅路が、どうかよき出会いに恵まれますように。

 もはや、出会うことがないであろう少女の道行に平穏と安寧がありますように。


「バイバイ、マーニャさん!また会おうね、絶対だよ!またね!」


 クランとマーニャ・サミタリノが再び出会うことは、なかった。

 時が流れるということを、クランはまだ知らなかった。

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