第9話・なあ、おい

 いや、そうじゃないだろ。

 あるエルフは思った。

 ここまで来て、こんな決着?嘘だろう?


「あの、みなさん。僕、清春・ジョニィ・パーレンが討ち取りましたよー!」


 いやまぁ、理屈の上ではそうだろう。

 まだ矢筒にたっぷり残った純水晶の透き通った矢は、ダルニアの胸に刺さっているものと同じだ。

 自分の武具が擦れ合う音すら嫌ってなのか、弓しか持っていない。

 それどころか矢同士がぶつかって音を立てないように、一本一本に布が巻かれている。

 相当に、工夫に工夫を重ねてきたのが、垣間見えた。

 見えたが、それはないだろう?

 ここで?あそこで?あの男たちの決着が、永遠にわからない?


「ふざけんな!」


 それは、この場に集ったエルフ達すべての総意だった。


「わあ!物を投げないでくださーい!僕が何したって言うんですかぁ!」


 辺りに落ちていた石や、酒が入ったジョッキが次々と投げ込まれている。

 異様にするすると避けるジョニィが、これまた観客達のカンに触り、誰か一人でも魔法を放てば、それが総意となってこの場を炎で包むだろう。


「待ってください待ってください!?僕なにか悪いことしました!?みなさん考えてましたよね、隙あらば奇襲しようって!」


 ぴたり、と物を投げ込む腕が止まった。

 卑怯では、なかったのだ。

 スタンの身体を覆いとし、盲点からの狙撃である。

 静粛性を極限まで追求し、考え抜かれたその一撃は技と克己を感じさせるものだ。


 卑怯では、なかった。

 どんなエルフたちにだって許された、当然の権利だ。魂に刻まれた法にかけて、それは当然の行いではあった。

 失敗したらボコられて、成功すれば誉れを得る。

 そういう話だ。


「ね?お判りでしょ?僕が勝ちましたよ!」


 Vサインを掲げたジョニィの顔には、憎たらしくなるくらいの笑顔が浮かんでいる。

 納得は、誰もしていない。

 誰もしていないが、法の上では間違っていない。

 それなら、勝者はこの若造なのか?

 あの戦いの勝者が、この二百になったかどうかのにやけた若造だと?

 このくそったれた感情を律しなければならない?

 エルフは法に従う生き物だ、特に己が認めた法については。

 エンシェントは落とす。奇襲をしかける。それは従わなければならぬ、従うべき正しい法である。

 だが、これは本当に正しいのか?正しくないのか?

 あたりを見回しても、同じように不安げにあたりを見回す顔だけだ。


「ノーだ。そいつは違う、清春・ジョニィ・パーレン」


 だが彼女は来た、たった一人で。

 険しく結ばれた口元と、帽子のつばを指先で抑える気取った仕草で。

 歩く姿は、まだ幼い技巧。見るからに百も超えていないとびきりの雛鳥だ。


「なあ、ジョニィ。あんたの勝利はどこにもない」


「はあ?いやいやいや、僕ちゃんと討ったわけじゃないですか、こうして、きっちり」


 指差す先は二人の死体。

 限界まで力を振り絞って、最後の最後にほんのちょいとの後押しでくたばった身体が二つ。

 不思議そうな表情を、二人とも浮かべていた。

 即死だった。

 黒々としていた髭に白い物が混ざるくらいに、力を出し切った身体は、あんなにも強かったはずの二人を、ひどくよぼよぼした萎びたものに見せていた。


「いいや、あんたは勝利を盗んだだけだ。スタンの、ダルニアの勝利を」


「はぁー?」


 ジョニィは馬鹿を見るような口調で、馬鹿に馬鹿をわからせるような大仰な仕草で、堂々と法に則り、述べる。


「おわかりですか、君?僕は当然の権利を、当然のように行使しただけですよ?パン屋に行って、僕はお金を出しました。パン屋さんは僕にパンを売ってくれました。そういう当たり前の話をしているだけなんですけど?おわかり?」


「いいや、わからないね。何故、あんたはあそこで撃った?そいつをあんたはわかっているはずだ」


 静かな声である。

 ひどく、通る声である。


「あの最期の局面。クソ間抜けな、酒場の酔っ払い同士の喧嘩のような見るに耐えない殴り合いの中でも、あんたは撃たなかった。


 


 この瞬間、どちらかに勝利が転がり込むのだと、もはや互いに次に立つ時は永遠にないのだと、スタンとダルニアが、死体になったのだと確信した時、ようやく矢を撃ったんだ」


「それはとんでもない言いがかりですよ、君。僕は勝つべき時を見計らいました。そして、その賭けに勝ったんです、この僕は!」


「賭け?賭けだって?あんたは一日の始めに、右足か左足で歩くかを決めることだって重大な賭けだと思い込んでるに違いない。死体にそのひょろひょろの矢を撃ち込むのが、難しいはずがないだろう?勝者は、あんたじゃない。あたしでもない。スタンか、ダルニアか。そのどちらかの物だ。この場で立っている、誰のものではない」


「現実を見なさいよ、君!僕はこうして立っている!あのエンシェントと、背中から撃たれるのに気付かなかった間抜けを討って!こんなひどい侮辱には付き合っていられませんよ、法は僕の上にあるのだから!誉れは僕の上に月のようにあるのですから!」


「いいぜ、逃げなよ、『恥知らず』」


「……失礼。今なんて?」


 背を向けようとしたジョニィに、その澄み切った声が突き刺さった。

 なんらかの魔法的効果があるはずもないその声に、ジョニィは力一杯振り返った。

 自制心の手綱を必死に取っている、と言わんばかりの形相のジョニィに、どこまでも静かにスタンは言う。


「尻尾を巻いて逃げるといい、『恥知らず』のジョニィ。あたしから、ダルニアから、スタンから逃げるがいい」


「その『恥知らず』とは僕のことですか?」


「ああ、ジョニィ。あんたはまだ自分の名を知らなかったのか、可哀想に。今度はきちんと覚えておきな、『恥知らず』のジョニィ」


「取り消せ、今すぐに、だ」


 名こそ誉れである。

 それを『恥知らず』と呼ぶ?

 どんな温厚な者だって怒り狂うであろう、ひどいひどい侮辱だ。

 親を殺されたって、なかなかこうは言えないほど。

 真に恥を知らぬ者に対してのみ、向けられるべき言葉だ。


「純水晶のきらめきだって、あんたのその行いを隠してはくれない。尻尾を巻いて逃げ出すあんたの名は、これから永遠に『恥知らず』さ」


「取り消せと言ったぞ、僕は!」


「いいや、取り消すものか。あたしは賭ける」


 あったかもしれない、静かで穏やかな幸福な日常を、少女はもはや選ぶことはない。

 嵐に向かって漕ぎ出す船乗りのように、風車を化け物だと思い込んで突撃する騎士のように、星を斬らんとする少女は高らかに世界へと名乗りを上げる。


「あたし、梔・ルディ・クラン・ハビムトは宣言する」


 帽子の縁に指をかけ、沈めた視線の涙は見せず。

 鮮やかなまでに清らかに、絶望的なまでに愚かしく、だがそこに何一つとして諦めはなく。

 大仰にマントをひるがえし、見栄を切ったその頃に、双眸に宿った多大な怒りが、涙をすっかり蒸発させていた。


「我が友、扇・スタン・フリジアーノの名誉を汚した敵に、正しき怒りを」


 風が、吹いた。

 強い強い向かい風が、少女のマントを強く揺らす。

 しかし、強く握られた正しき怒りと、己の立ち位置を確信した少女は、そのちいさな身体を小揺るぎもさせず。


「我がエスプリがおもむくがままに、あたしはあんたに決闘を申し込む!」


 その宣言は、天上天下すべてに響けとばかりに、威風堂々と放たれた。


「賭け金はあんたの名誉。あたしの身体。ちっとも釣りあっちゃいないが、そいつで十分だろう、『恥知らず』?」


「跪かせて、散々弄んで売り飛ばしてやるぞ、『王の花束キングオブブーケ』!」





















「ん?」


 と誰かが言った。

 あのスカッとする啖呵を切った少女をよくよく見てみれば、どうも見たことがある物が見える。

 いや、少女本人ではない。

王の花束キングオブブーケ』だというのは、もうすでに誰もがわかっているのだから。


「なあ、おい………春?」


「は?……は?」


 それは腰の四剣だ。

 幼いエルフが必死にこさえた魔剣が四本。それはどうにも見たことがある代物だ。


「マジかよ。本気か?」


「ああん?……ああ!?」


 ざわめきが連鎖していく。

 死闘の末も、切った啖呵も、下劣な文句も飲み込んで、呟きが連なっていく。

 稚拙な隠蔽の隙間から漏れた、魔剣の魔術構成は、この場の誰もが読めるような出来だった。


「見たことあるぞ、あれ」


「多分みんなやってるだろ……え、本気か、あの姫様」


 そんな困惑だ。

 さきほどまで、ほんの僅かにあったかもしれないなにかは、その波に飲み込まれていく。

 それは、笑いの波。

 クランの前に立っていたジョニィにすら、それは伝わった。


「はっ、はははは、あははははは!上等じゃないか、君ぃ!その魔剣、ひょっとして一本は炎を撒き散らすんじゃないかい?刀身も潰すやつさぁ!」


「ああ?」


「そう、もう二本は速度重視のセッティングのはずだ。構成なんて読まなくてもわかるとも!その、いわゆる……というやつだろう?」


 避けるのが難しい、広範囲に広がる炎。

 そこを避けるか、受けるかされた所で次の一矢で仕留める組み合わせである。


「知ってるのかい、それを!その最強のコンボの名を!」


 エルフが、最強の魔剣の構成を考えた。

 そう言い出した内の、何割かがこれだ。

 友人に、親に、はたまた他人に。

 どこかの誰かに調子に乗って繰り出して、あっさりと凌がれるとびきりの黒歴史。

 誰が言ったか、誰もがそれをそう呼ぶのだ。


なんて引っさげて、僕に挑もうって?なんて冗談!僕を笑い死にさせる作戦かい!?」


「そういやお前もやったよな、青春よくばりセット。『俺の最強コンボ、見せてやるぜ』だっけ?」


「いいか。それ以上、口からクソを垂れ流すようなら、俺はお前を殺す。いいか、幼馴染のお前でも、だ。絶対に殺すからな」


「あったよなあ、俺の息子もやってたわ、あれ。散々バカにして泣かせてやったなあ」


「結局、突破力ないからあんま使えないんだよな」


「やっべ、あの黒歴史思い出して冷や汗かいてきた」


「死にたい」


 調子こいたガキを、徹底的にコケにし尽くすため、このくだらない構成はわざわざこのあほ丸出しの名で呼ばれている。

 友達同士の決闘ごっこで、親子の触れ合いの中で、そういう当たり前の光景の中で淘汰されていく代物だ。

 それはある種の愛である。幼な子から余計な慢心を捨てさせるための。


「それで何を倒せるって言うんですか!?うさぎ狩り?冗談キツすぎますよ、実際!」


 いっそ和やかでヤケクソな笑いが、辺りを包んだ。

 颯爽と、格好つけて現れた少女の言葉は笑いに流されていく。それはあまりにしょうもなかった。

 なんのジョークなんだ、一体。これで真剣にやるってのは、ちょっとばかりキツ過ぎるだろう?

 オーケー、わかった。あんたがマジだってことはよくわかった。

 いや、でもさ……もうなんかさ、やめよう?俺も頭を下げてやるからさ、なんて青春よくばりセットを腰に下げる少女の肩を、気軽に叩いてやりたくなるような、微笑ましい光景で、



 地面に叩き付けられた刀身からは、誰もが見たことがある一発こっきりの自爆構成。

 あまりに稚拙で、見ているこっちが恥ずかしくなるような散漫な魔術の炎が噴き出す。

 二十にも満たないエルフが作るような、そんな情けない有様だ。

 その程度で自壊した刃が溶けて落ちる、あまりにもしょぼくれたその光景。


「なあ、おい。あんたたちが笑ってるのは、ひょっとしてあたしか?」


 静かな声だった。

 笑い声の中を貫くような、強い声だ。


「それとも、このにやけ面か?」


 少女は、ジョニィを指差した。


「なあ、あんたら。それとも、笑っているのは、この二人かい?」


 少女は、倒れている二人の死体を指差した。

 エルフ達は思い出した。

 いや、でも、だからと言って。勝てるはずがないじゃないか、このちいさな娘が。


「なあ、あんたら。なにをへらへら笑っているんだい?誰を笑ってるんだい?」


 観客達に話しかけている体こそ保っているが、その視線は最初から誰も見てはいない。

 自分が笑い物にされているというのに、小揺るぎもしていない。

 ただ一人、討つべき者のみを見つめている。

 静かな瞳で。

 この少女は、律していた。自分を。


「笑うのなら、笑え。あたしだけが、恥と名誉を知っている」


「はあ?」


 誰かが怒りのこもった疑問の声を上げた。


「青春よくばりセットの、お嬢ちゃんが?恥を?名誉を?そいつを知っているだって?」


「ああ、そうさ。私だけが、ここにいる」


 ああ、そうさ!

 クランはここに来て、初めて声を荒げた。

 幼い、ただひたすらに幼い怒りだ。


「なんで誰も否を唱えない!?ふざけるなよ!これで終わりなんてありえない!誰もそう思わないのか!勝利を盗むクズに、誰も怒りを覚えなかったのか!恥と名誉を、お前達は誰も知らないのか!?わからせてやろうと思わないのか!?このまま終わって、ああよかったねなんて笑えるもんか!」


 ああ、そうさ。

 一転して静かな、何事にももはや期待しない、というつまらないものに対する冷ややかな声だ。

 幼い、幼い少女の純然たる失望。


「あたしだけが、ここに立っている。ここは、あたしだけの戦場さ」


 ああ、そうさ。


「笑いたいなら、笑うがいい。あたしは、ここに立っている。笑われるくらいに力がなくても、法に魂を縛られようとも、私だけが恥と名誉を知っていて、ここに立っている。恥にまみれているのは、誰だ」


 ああ、そうさ。


「あんたら、誰を笑っているのかははっきりさせておけよ。このにやけ面を仕留めた後、場合によってはあんたらの誰かに挑まなきゃならないからな」


「か、勝てると思ってるんですか!?僕に!?百にも満たない君が!?」


「勝つさ。このあんたたちが言う、青春よくばりセットで」


「そう、最後の一本は鉄剣!ルディ王を真似た、恥ずかしくて滑稽な黒歴史満載の構成!そうだろう!?それで!?僕を!?この僕を討とうとしている!?嘘だろう!?」


「詳しいな、『恥知らず』。全部きっちり正解さ。奥の手の裏まで見えてんのに、あたしにビビってんのかい?」


「じょ、冗談!」


 先に、ジョニィが弓を抜いた。

 勝って当然の年の差があるエルフ同士の決闘で、上の者が先に抜く。

 たったこの一時で恥知らずの名は永遠になりそうなものだが、この瞬間においては誰一人として、その事に気付かなかった。

 どちらが上か。それは誰の目にも明らかだったからだ。


「どうした、笑えよ!」


 動揺し切って放たれた矢は、クランの胴体へ向かうが、ただの鉄剣によりあっさりと切り捨てられる。


「笑えよ、お前たち!楽しくて、楽しくて、仕方ないんだろう!だから、笑ってたんだろう!へらへらへらへら笑ってるエルフ諸君!」


 なあ、おい。


「どうした、笑えよ。恥と名誉を知るエルフ諸君。どうした、どうして黙りこくっている?」


 なあ、おい。


「あたしは軽蔑する、あんたたちを。年を食えば大した生き物になると思っていたよ、あたしは」


 なあ、おい。


「この場で尊敬出来るのは、たった二人しかいないじゃないか。死したるスタンとダルニアだけが、尊敬に値するエルフだった」


 なあ、おい。


「くそったれ」


 それは、もはや独り言でしかなかった。

 誰かに聞かせる必要もない、聞かせる価値のある者は、どこにもいないのだと、そういう声だ。


 なあ、おい。


 どん、と誰かが地を踏んだ。

 顔を怒りで真っ赤に染めて、誰かの顔色をうかがうことなく。

 待てよ、と誰かが言った。

 そうじゃないんだと、誰かが言った。


 どん、と誰かが地を踏んだ。


「ごめん!笑うところじゃなかった!本当にすまなかった!」


 どん、と誰かが地を踏んだ。


「でも、あの言い草はあとでぶん殴ってやる!」


 どん、と誰かが地を踏んだ。


「俺たちは恥を知っている!」


 どん、と誰かが地を踏んだ。


「俺たちは名誉を知っている!」


 どん、と誰かが地を踏んだ。

 それは、怒りのこもった地響きだ。

 エルフ達の、戦士達の、己への怒りをこめた地響きだった。

 笑うべきは下劣と怯懦。本気で戦う戦士への嘲笑なんて、どうかしていたのだと、今更ながら気付いた怒りだ。

 法を知りながら、己の正しさを律することを忘れていたのだ。

 それは、とてつもなく恥ずかしい行いだった。


「そうかい。だけど、あたしが最も詳しいらしいな、恥と名誉にさ」


 ふん、とクソ生意気に鼻を一つ鳴らしたクランに、地響きの中の怒りの割合が一気に増した。


「なあ、おい!」


 クランは、武器から右手を外した。手のひらを、下から上に。


『盛り上げろ』


 クソほどにもナメた態度だ、観客にも。この『恥知らず』にも、誰に対しても、だ!


「さあ、さあ、さあ、さあ!エルフの決闘は、こんなに静かなもんじゃあないだろう?足りないね、あたしの次に恥と名誉を知るエルフ諸君!」


「本当に腹の立つアマだな、あいつ!?」


「テメーがやられたら次は俺がやる!安心してくたばっちまえ!」


 どん!どん!どん!とエルフの戦の歌が始まる。

 ひたすらに力強く、やけっぱちで、心臓の鼓動になんてちっとも似ていない、頭がおかしくなりそうになる、ひたすらに、ひたすらに乱雑に鳴り響く音の群れだ。

 そして、その中でもクランの声は響く。


「知ってるか、『恥知らず』」


「な、何をだよ!?僕は何も間違っちゃいないのに!?誉れは月のように僕の上にあるのに!?」


「そんな誉れは、あんたの上にはないよ。あんたの誉れは、あんたが奪った。あんたの名はこれから、あたしが奪う」


 ジョニィから放たれた矢は、それでも研鑽の跡が見える力に満ちた一矢。


「くっ……!なあ、知ってるか、『恥知らず』」


 動揺に動揺を重ねたジョニィの矢でもクランは受けるのに精一杯、それは当然だ。

 尻に殻をつけた雛鳥と、二百に届くエルフの差とは、そういうものだ。

 しかも、静粛性と視認性を極限まで薄めた純水晶の矢は、肉眼で見ることすら難しい代物である。


「な、なんだよ!?弱いじゃないか、君!?そ、そうだよ、僕は勝つべき存在だ!」


「なあ、知ってるかって聞いてるんだよ、『恥知らず』」


 ああ、ちくしょう!今のはそうやって受けるんじゃない、いっそ今すぐに俺に変わってくれ!

 そんな叫びを胸のうちに閉じ込める者は、何人いるのだろうか。

 慌てふためいたジジイのしょんべんのような矢を、少女は必死に鉄剣で受け、地面を転げ回り、危なっかしく避けていく。まるで犬の喧嘩のような有様だ。

 美しいかんばせは土で汚れ、どこでぶつけたのか額を血で染めて、荒い息を吐き散らす。

 だが、エルフ達は恥と名誉を思い出している。

 誰が今さら、あの誇りを知る娘を差し置いて、戦場へと立てるというのか。

 この歯がゆさを、激しい憤りを律しなければならなかった。あの少女が律したように。

 破ってはいけない物を破った者へ、正しき怒りを。

 それは、エルフたちが法律と呼んでいる物だ。


「あたしは聞いてるんだよ、『恥知らず』!知っているのか!」


 一歩、また一歩と呆れるほどに愚直に彼女は進んでいく。

 時には三歩戻されることもあるが、それでもその目に絶望と諦めは感じさせない、ひたすらに前を目指す。


「ひっ!?な、なにをだ!?」


「エスプリだ!」


「え、エスプリ!?」


「そうだ、『恥知らず』!エスプリだ!」


 残る距離はおおよそ十歩。追い風と風乗りであっという間に詰められる、詰められるがその分、飛んでくる矢の対処に困る、そんな距離だ。


「……そんな物は知らない。知るもんか」


 ジョニィは、俯いた。

 この間にすたすたとクランに距離を詰められてもかまわない、とばかりに。

 息を、吸った。深く、深く。

 息を、吐いた。深く、深く。

 攻め気にはやっていたクランは、その光景に足を止めた。


 なにかが来る。


 それは生存本能による直感だ。

 これ以上、無防備に突っ込めば、確実に死ぬ。

 その確信。


「ああ、くそ。……………………僕は君に謝罪しよう」


「ほう?」


 ここで、この土壇場で、誰もが敵に回ったこの場所で、その孤独の中で『恥知らず』のジョニィは腹を括ってみせた。

 動揺を飲み込み、弦に震え一つ起こさず。

 彼は場数を踏んだ戦士の在り方を思い出していた。

 もはや、彼は何も持っていない。あらゆる名誉はクランに、そして己の手で剥奪された。

 恥は知らずとも、しかし彼のその最後に残った純粋な力だけはクランにも、ジョニィ自身にも否定出来ず。


(嘘だろ……やべーぞ、こいつは)


「君を見誤っていた。君をナメていた。そこだけは、謝罪する。でも僕の正しさは、僕だけが疑わない。今、僕は、そう決めた」


「謝罪?いらねえよ、そんなもん」


 力の差は歴然。で、そいつがどうしたって?

 ヤベー力の差。それで口から垂れたモンを器用に出し入れするのかね?

 そりゃ結構。死んでからやるわ。

 それより気合だ。気合を入れ直せ。

 この一瞬で、

 魔力とか体力とか、そういうんじゃない。

 絶対に勝てるっていう流れが、一瞬で持って行かれちまった。

 深呼吸一つで、死んでたはずの流れが一発で蘇った。なんだよ、これ。笑えるぜ。

 二百年かそこらで、こいつは一体どのくらい場数を踏んできた?

 その差は、どうやら、とびきりヤバい物らしい。


「ここからは、真剣に君を殺す。賭け金は君の身体?そんなものは、もういらない。名誉も誉れも、もはやないのかもしれない。でも勝利だけは、僕が手に入れる」


 俯いたジョニィの構える矢は、なんと地面を向いている。弦すら引いていない。

 まるで先生に怒られてふてくされる子供のような構え。

 極限まで暗殺構成を志向していたジョニィも、裏の裏まで見抜かれているクランと同じく、手元に一枚しか札を持っていない。


 だから、どうした。

 この少女はなんの役にもなっていない、ブタの手札を高らかに掲げて突撃してきた。

 勝てるはずのない手札で、一人立った。

 それは誰もしなかったことだ。賭け金は銅貨一枚残さぬオールイン。

 それは、愚かなことだ。この行いが偉大なる勇気でなんて、あるはずがない。

 だが、尊敬に値する。

 戦士が全身全霊をかけて、討つべき相手だ。

 僕はそう思う。僕はそう思った。

 なら、戦う。


 武具同士が擦れる音、干渉する魔力、そういうありとあらゆる物をジョニィは嫌って弓一本。

 慌て打ちが過ぎて、矢筒はもうすっからかん。

 ジョニィに残されたのは、正真正銘この一矢。

 だが、エースは手の内にある。

 なら、戦える。


「来いよ、『王の花束キングオブブーケ』」


「いいぜ、『恥知らず』どっちが速いか、だ」


 狙いは、まだ付けられていない。

 弓と剣の戦いは、ようするにどちらが先にぶち込むか、という式だとクランは思っている。

 矢を避け、剣が届く距離に飛び込めば剣の勝ち。

 その前に矢をぶち込めば、弓の勝ち。そういうシンプルな勝負だ。


「……冗談きついぜ」


 この期に及んで、これか。弱音の一つも漏らしてしまう。


 場を味方につけた。相手の武装が正面戦闘向きじゃなかった。こっちをナメてた。ビビらせてやった。矢なんて、もう残り一本だ。


 そこまで重ねても、最後の最後にとびきりデカい壁が本当にいきなり、卑怯だぞと言いたくなるくらいに突然現れた。


 真っ直ぐ突っ込む?全力で追い風の魔法を構成して、クランの人生で最も上手く風に乗れたとしよう。

 脳天をぶち抜かれる未来しか、見えない。

 遠間から魔法?あほかよ。小手先の魔法なんて話にすらならない。のたくさ編み物やってる間に終わっちまう。

 左右に変化し、回り込む?あの狙いを定めない構えは、そいつをじっと待っている。

 静かに、距離を詰めさせ、必中の距離で、あいつは狙いを付けるに違いない。

 逃げ惑う子ウサギの疲れを待つ、狼のように。

 クランの一歩という小さな動作より、弓を持ち上げて、狙いを付け、弦を手放すという大きな動作の方が、絶対に早いと確信出来る佇まい。


 どうする、と迷う。

 気合を入れろ。もう一度思った。

 ……自殺まがいの正面特攻。そいつはひょっとしたら、万に一つの目を引けるかもしれない。切り落とし……そう、切り落としだ。

 確率論だ。矢は正面から来る。剣を振る。当たるかもしれない。それは決して零ではない確率。万が一の勝利。

 そうだ、何を恐れることがある。あたしはクランだ。


 のクランだ!


 万の一を引け、恐れるな。あたしはクランだ!

 梔・ルディの娘、クランだ!

 さあ、この場を包む熱狂に乗って!叩きつけられる熱情のままに賭けろ!

 信じろ、自分の運を。いけるのだと、信じて前に!

 勇敢に!気合を入れて!


 


 ビビってんじゃねえよ、と誰かが呟いた。

 クソのようにくだらない、今日という今日は本当にあんたに愛想が尽きたという感情がたっぷりと乗った声だ。

 ようするに、今のお前はビビって逃げてるんだよ、クラン。


 思い出せ。


 スタンはなんと言った?

 なんと言っていた?

 真に強い、タフで、とびきりのいい男はなんて言っていた?


『クソみたいな何かに押し流されそうな時、こいつで自分を思い出すんだ。しっかりと、自分の足で立つ自分を』


 そうだろう、クラン。そいつはなんだ?

 あんたは、あたしはもう知っている。低きに流れず、高みを目指せ。星を目指せ。

 それが、星を斬るたった一つのやり方だ。


『それが、格好いいってことだ』


 そいつが、エスプリだ。


 思い出した。

 息を、吐いた。無駄に入れた気合はすっと抜けていた。

 だから、前に出た。

 怯えはなく、ただ前に。


「ああ」と絶望の声が、どこからか聞こえた。

 もうダメだ。あいつは負けたんだ。ビビって、とんでもない間違いを犯してしまった。

 そういう諦めの声だ。


 そいつはどうかな?

 あたしは『梔・ルディ』のクランだ。


 もっとちいさな頃から何度も見た。あの奇跡のような剣を。

 もう二度と見たくもなくなるような、うんざりするほど絶望的なまでに己の中身を突きつけてくる剣を。

 自分が取るに足らないくだらないモンだと、はらわたの底まで探したって誇れるモンは何一つ入ってないのだと、懇切丁寧に教えてくれる、あの剣を。

 奇跡を、あたしは知っている。

 それでも、あたしはここにいる。

 まだ戦っている。

 星を目指している。

 それは、誇りだ。


 クランは見た。

 二人の男たちの戦いを。

 誇り高く、正々堂々と全てをぶつけ合ったあの戦いを。

 あらゆるものを出し切ったあの決闘を。

 それは、意地だ。負けてなるものか、という強い強い意地だ。

 くだらない、あほみたいにちんけな、とびきり大切なものだ。


「そいつが、あたしの中にごろりとある」


 青春よくばりセット?

 だから、どうした!

 そうやって笑い飛ばせるだけの物を、あたしは持っている。


「エスプリのおもむくがままに、だ」


 クランは風に乗った。

 柔らかに、木の葉が揺れるように。

 荒々しく体重を乗せる術理では、必中の確信に勝てるはずもない。

 だから、勝てるものを選ぶ。

 自分の中にある、しっかりと握りしめたそいつを。


 ジョニィも、握りしめている。そいつを。

 五歩、クランは風歩む。


 四歩、ジョニィはまだ動かない。


 三歩、クランは風歩む。


 二歩、ジョニィは俯いている。いっそ諦めたかのような力のなさ。


 一歩、それは脱力だ。極限まで力を抜いて、ほんの刹那の緊張が、構えを作る。それはしっかりとクランの額に狙いを付けていた。


 零歩。クランは風歩む、静かに。激しさはどこにもなく。


 星を斬る。


「ああ」


 クランは、するりと振り抜いた。

 力なんてどこに使っているのか自分でもわからない、まるで重さを感じない、鉄剣の先にはなんの手応えもない。

 駄目だったのか、と思ってしまうくらいに頼りない手応え。


「嘘だろう?信じられない」


 ジョニィの声が、後ろから聞こえた。どうしてだろう、とクランは不思議に思った。


「こんなにも……こんなにもこのちいさな女の子を格好よく思えるだなんて、ありえるはずがない。馬鹿な。僕は勝ちを諦めた?ああ、違う。勝ちたかった、死ぬほど。美しさに見惚れた?まさか。くだらない。僕は君に憧れた!?嘘だろう!?」


「なあ、『恥知らず』」


 だけれど、不思議と勝ったのがわかった。

 真っ二つに切れた水晶の矢が、甲高い音を立てて今になってようやく地面に落ちた。


「そいつが、あんたが知らなかった、たった一つの事柄」


「信じ、られない」


 きん、と鞘に収めた鍔が鳴る。

 気付けば手指が震えていて、必死になってそれを隠す。

 汗が吹き出し、膝がガクガクと揺れる。

 今更かよ。カンペキ力尽きてんな、あたし。押さえつけていたビビりが吹き出したんだ。今すぐ冷たい水を思いきり飲みたい。甘いものを後先考えずに食べたい。


 エスプリだ、と胸の内で強く叫んだ。

 それは勝者の義務だ。全てを隠し通せ。


「エスプリがおもむくがままに。それは格好いいってことさ」


 どう、と前のめりに倒れ込んだジョニィに、クランは静かに息を吐く。

『恥知らず』、あんたが敗北したのは、このとびっきり格好いいあたしさ。そうだろう?


「なあ、『恥知らず』。あんたのとびきりの腕前に免じて、名前までは連れていかないよ」


 勝利の歓声は耳がおかしくなるほど。

 誰一人、心の底からクランが勝つだなんて信じていなかった。

 それが、この大金星!恥と名誉を知る少女の大勝利だ!

 ムカつく女神に祝福あれ!


「さよなら、ジョニィ」


 そんな中で、クランの声は誰にも響かず、届かず、ただ消えた。

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