結婚記念日

賢者テラ

短編

 120年ほど昔の話。

 イギリスの、とある大きな街でのお話。

 ここ、街はずれにあるレストラン『ラベリテ』は、それほど大きくないながらも静かな人気を誇る『隠れた名店』でした。

 人気の秘密は、何もお店の味や雰囲気だけではありません。

 接客も非常に気持ちがよく、評判がいい。

 何より、店主の人柄がよく、地元の人に尊敬されている人格者でした。



 さて。

 夏の近さを思わせる、ある気持ちのよい晴れた日の午後のこと。

 ランチを注文した、ある紳士がおりました。

 まだ年若いが、仕立てのよさそうな服をうまく着こなした粋な男性です。

「コーヒーを頼む」

 食事を終えた男性は、ウェイターにコーヒーを注文してきました。



「オーナー、ちょっとお話が……」

 先ほど、紳士にコーヒーを持っていったウェイターは、店主に言いました。

「ちょっと、お耳に入れたいことがあるんですが」

 いつも気のいい評判の店主は、ウェイターからの報告に耳を傾けました。

 客であるその紳士が、挙動不審だというのです。

 開店の時から、現在の時刻である夕方4時まで、帰る気配がない。

 食事を終えてからも、コーヒーを頼み続け、これでお代わり8杯目。しかも、時折キョロキョロと店全体を眺め回したり、入り口を凝視したりする——。

 店主は、ウェイターにまだ様子を見るように言いました。

「閉店までは、何時までいようがお客様自由、というものじゃろう。それを制限する決まりなんて、どこにもない。まぁ、何か特別な事情でもあるんだろうさ」



 ついに、デイナータイムになりました。

 先ほどの紳士は、まだ帰りません。

 帰るどころか、夕食まで注文してきたのです。つまり、ランチタイムから居座り続け、昼食も夕食もここで済ませるということです。

 どうして、この紳士はそこまでしてここにいるのでしょうか?

 食後も、デザートを食べたりワインを楽しんだりして——

 ついに、閉店の午後10時を迎えました。



『ラベリテ』の店主は、ニコニコ顔で紳士のテーブルにやってきました。

「お客さん。うちはそろそろ閉店の時間なのです。確か、ランチタイムの時間帯からこちらにいらっしゃる方だとお見受けしますが、何か特別な事情でもおありなのですかな?」

 少し憔悴したようにも見える紳士は、ボソボソと寂しげに語り始めました。



 ……実は、今日は妻との結婚記念日なのです。

 事情があって、妻はたまに離れた国で仕事をすることがありまして。

 ここ二ヶ月ほどは、顔を見ていないのです。

 手紙のやり取りで、結婚記念日には思い出のレストランで落ち合って食事をしよう、という約束になっていたのですよ。

 実は、ここが妻にプロポーズをした思い出のレストランなのです。

 しかしです。約束の正午になっても妻は現れない。だいぶ待ちましたが、ランチタイムはとっくに過ぎた時間になってもやはり現れない。

 そこで私は、もしや妻は夜と勘違いしたのか、と思い直して、ディナータイムまで待ってみたのです。それでも、やはり妻は来ません。

 何かあったのだろうかと、とても心配です。

 いつの間にかもう、閉店の時間なのですね。

 ではもう、これ以上お店に迷惑をおかけするわけにはいきませんね。

 それでは、もう引き上げることにいたします——。



 事情を一通り説明した紳士は、立ち上がりました。

 そして自分のかばんの中を見て、うめきました。

「なんということだ! 私としたことが……」

 紳士の顔は、青ざめています。

「一体、どうしたんですかな?」

 店主が優しく尋ねました。

「結婚記念日で浮かれておったんでしょうな。財布を……家に忘れてきてしまいました。済まないが、一度家に取りに帰ることを許してはいただけないだろうか。あ、私は身元なら確かですよ。ナイザ通りのフィッシャー法律事務所の……」



「ああ、そういう事情ならお勘定は結構ですよ」

「えっ!?」

 目を丸くする男に、気のいい店主は言いました。

「せっかく楽しみになさっていたのに、大変なことでしたな。ここがあなたの思い出のレストランとは、光栄なことです。奥様と出会えず残念だったでしょうが、あなた方夫婦のために、今日のお食事代はプレゼントさせてください」

 店主の優しい心遣いに触れた紳士は、涙目になって感謝しました。

「ありがとうございます! まったく、何とお礼を言ったらいいか。この次は、必ず妻を連れてここにお礼にうかがわせていただきます——」

 紳士は何度も店主に頭を下げて、店を出て行きました。

 店内の掃除をしていたウェイターは、駆け寄ってきて店主に言いました。

「……ほんとうに、よかったんですか?」

 店主は、何の迷いもない表情ではっきり言います。

「これで、いいのじゃ」



 数日後。この街のレストラン業界を騒がせる情報が入ってきました。

「オーナー! やっぱりだまされてましたよ」

 ウェイターが血相を変えて、店主にこう報告してきました。

 レストランに居座って、散々飲み食いした挙句に、『結婚記念日なのだが妻が来ない』という作り話をして店の者を同情させ、最後には財布を忘れたので取りに行かせてくれ、と言って戻ってこない紳士風の詐欺師が出没しているとのこと。

 何でも、一度入った店には二度と来ないそうで、その慎重さが詐欺師の逮捕を難しくしているのだ、という。東の隣町から流れて来て、今はこの近隣一帯が被害にあっているらしい。

「なるほどのぉ」

 だまされたと分かっても、店主のニコニコ顔は変わりません。

「よし。わしがこの騒動、解決してやろう。君、ひとつ頼まれてくれないか?」

 店主は、ウェイターをあるところに向かわせました。

 それは、街一番の探偵事務所があるところでした。



「オーナー、ご依頼の件、調べがつきました!」

 ウェイターが持ち帰った探偵の調査報告書を見た店主は、したり顔になって手をポンと叩きました。

「作戦は、明日決行じゃ。うまくいくかどうか、確率はそれほど高くはないが……なぁに、人生にはムダなようでも試してみることが肝心なこともあるんじゃ。早速、西隣の街の全部のレストランに通達を出して、協力を仰ぐのじゃ」

 店主は、ウェイターにテキパキと指示を与えます。

 さて、店主は一体何をする気なのでしょうか?



 ……何だか、ヘンだ。



 西の街の、とあるレストラン。

 食い逃げ詐欺師の紳士は、首を傾げました。

 ランチから居座って、すでに閉店時間も近づいています。

「平日の閉店時間近くなのに、異様に客が多いな」

 ちょっとは不思議に思いながらも、男は気にしないようにしました。

 だって、彼にとってはここからが正念場、なのですから。



 やがて、閉店時間を迎えました。

 このレストランの店長が、紳士に近づいて事情を聞きます。

「聞いていただけませんか、実は……」

 紳士は例によって、結婚記念日のお話を語り始めます。



 やがて、もう客は誰も入ってこないはずのレストランのドアが開き、ドアに取り付けていた鐘の音がチリンチリンと音を立てました。

 そこに立っている人影に、紳士はびっくりしました。

「お、おまえ…!!」

「メルヴィン。あなた、まだこんなことをしていたの!」

 涙目になって、ドアの前にたたずむ女性。

 そう。彼女こそ、この詐欺師の元妻だったのです。



「どうじゃな。5年ぶりの再会は——」

「あっ、あなたは!」

 厨房の奥から現れた人物に、紳士はもっと驚きました。

 そう。その人物とは数日前、彼の食事代を全額許してやったレストラン『ラベリテ』の店主、その人だったのです。

 相変わらずのニコニコ顔で、紳士と女をテーブルに座らせました。

 


 店主は、真相を語りました。

 食い逃げ詐欺師のうわさを聞いて、腕利きの探偵を使って詐欺師のことを調べ上げさせました。幸い、名前やなにかは分かっており指名手配されていたので、特に難しいことではありませんでした。

 詐欺師には、別れた妻がいることが判明しました。

 妻は紳士の本性を知らずに結婚し、彼の犯罪癖を知り愛想を尽かして別れたのです。それ以来、男は自暴自棄からさらに詐欺行為をエスカレートさせていった、という裏事情がありました。

 詐欺師の『結婚記念日』の話は、すべてが作り話というわけでもなく、実は心の底ではやはり妻のことを忘れられないという気持ちの表れから生まれた手口だった、というわけです。



「……わしは、何とか奥さんの居所をつかんで、会って説得したんじゃ。元夫に一度会ってほしい。もしかしたら、あんたとまた暮らせる希望が持てることで、真人間に戻るかもしれない、と」

 紳士は、顔を伏せました。

「どうじゃな。あんた、この奥さんがもう一度やり直してくれるなら、きっとあんたは詐欺師をやめることができるはずじゃ、とわしは思っておる」

 元奥さんは、紳士の手をそっと握ります。

「あなた、もうこんなバカなマネはやめて、また私と暮らしましょう——」



「わしは、警察に届けるなんて無粋なマネはせんよ。警察に自首して償いたけりゃそうするもよし。もう二度としないと誓った上で、ひっそり暮らすもよし。それは、あんたらの心次第じゃ」

 店主は、そう言って二人に再会の記念のワインを振舞いました。

「それはそうと、あんたら今日が本当の結婚記念日なんじゃろ?」

 よりの戻った夫婦は、三度驚きました。

「そこまで調べていたんですか!」

 しかも、店主にはさらにもうひとつの打ち明け話があったのです。

 紳士が、『今日は、平日なのに客が多いな』と感じた理由。

 この作戦のために、西の町のこのレストラン以外は休みにするように、協力をお願いして回ったというわけ。

 すると、詐欺師の男は入ろうとした店がみな閉まっているのを見て、この唯一開店しているレストランにおびき出されてくる——。



「……参りました」

 男は、素直に頭を下げました。

「まぁまぁ。せっかくじゃから冷えとるうちにワインを飲みな」

 店主は、二人のグラスに上等のワインを注いで言いました。 



「今日のお代も、もちろんわしのおごりじゃ。払わんでいいぞ」

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結婚記念日 賢者テラ @eyeofgod

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