特別書き下ろしショート・ストーリー
チャリ、と鞄をおろした拍子にかすかになった音に、真桜はつられたように視線をおとした。
そこにあった古ぼけたなんの変哲もない鍵に、ふっと目を細める。
そういえばコレをまじまじと見るのも久しぶりだ、と手にとれば、ざらりとした感触がしっくりと馴染む。
「最近は鞄を持ってでかけることもすくなくなったしなぁ」
思い出の品であり、お守り代わりでもあるソレを意識しなくなったのは、いいことなのか、悪いことなのか。
縋る必要がなくなった、という点ではいいことなのだろう。
「……たまには磨いて、きれいにしたりした方がいいかな」
くすんだ鍵を見つめ真桜は、うーん、と小さく唸る。
古い鍵は西洋ではラッキーアイテムとされているらしい。
夢への扉を開くことはできなかったが、今ここにあることができるのは――ここにありたい、と思う場所を見つけられたのは、きっとこの鍵のおかげだ。
そう考えると、御利益がなくなりそうで躊躇われる。
「――とはいえ、ラッキーアイテムの古い鍵って、アンティークっぽいもののことをいうんだろうけど」
なんとなくどんなものか気になって、真桜は鍵を放すとスマホを手にした。
「あぁ、やっぱりこういうのだよね」
でてきた画像に頷きつつ、ん? とたまたま目にはいった説明に手をとめる。
「心の扉を開く、って意味で恋のアイテムでもあるんだ。でも、これってどういうことなんだろ?」
ヨーロッパでは『自分の鍵を預かって』とプロポーズで鍵を渡したりする……ことがあるらしい。
「一緒に暮らそう、的なことじゃなくて?」
それならヨーロッパにかぎらず、日本でも普通にありそうだ。
だが、ラッキーアイテムという意味で使われるなら、そんな現実的なことではない気がする。
「自分の鍵……あっ、もしかして『自分の心の扉の鍵』ってこと?」
あなたの開いた心の鍵を預かってほしい、ということは、あなた以外に心の扉は開かない、ということではないだろうか。
つまり、『自分の心はあなたのもの』という意思表示ではないだろうか。
それなら納得、とうんうんと頷いたところで、真桜はふと動きを止めた。
「鍵……?」
そういえばあの時……と脳裏に甦ったのは、優也に結婚を持ちかけられた時だった。
『仕事も家もなくなるんだろう? なら、俺が雇ってやる。――嫁として、な』
そんな言葉とともにカウンターに置かれたのは―― 一本の鍵だった。
「……」
思いだした光景に束の間固まったあと、真桜はふぅ……と息をついた。
「いやいやいやいや、ないでしょ」
脳裏をよぎった可能性を振り払うように、首を振る。
「あの人がそんなこと知ってるとは思えないし。そもそも、あれをプロポーズっていうのかも疑問だし」
否定しながらも、じわじわと顔に熱が集まってるくるのを止められない。
俺の心やる――そんな意思表示だなんて、あるはずがない。
一瞬でもそんなことを考えてしまった自分に、恥ずかしさがこみあげてくる。
そもそも自分たちのはじまりは契約であって、甘さの欠片もなかった。
にもかかわらず、そんなことを考えてしまうのは……
「……っ」
あーっ、と叫びだしたくなる気持ちをぐっと呑みこんで、真桜はスマホの画面を伏せるようにしていささか乱暴に机の上に置いた。
「よし、見なかったことにしよう」
こんなことでうだうだしてはいられない。嫁業も暇ではないのだ。
真桜はくるりと机に背をむけた。
部屋をよぎり、ドアノブに手をかけ、動きを止める。
「――そっか、そうだよね」
そうだ。
同じ『扉を開く』なら、自分から鍵を開けてはいるのではなく、扉を開いて招きいれてほしい。
ならば自分がすべきことは、鍵を手にすることではなくて、扉をノックすることだ。
そうして、いつか彼が扉を開いてくれたなら――。
「そういう日が、くるといいんだけど」
苦笑めいた笑みを口元に浮かべつつ、真桜はドアノブを持つ手に力をこめた。
なにごともはじめなければはじまらない。
「できることから、こつこつとってね」
よし! と気合いをいれ直すと、真桜は嫁業に励むべく、ぐっとドアを押し開いた。
仮そめ夫婦の猫さま喫茶店 なれそめは小倉トーストを添えて 岐川 新/富士見L文庫 @lbunko
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