一・五、雇用契約

 カ、ロン――と控えめに、しかし否応なく訪いを告げるドアベルに、小さく肩が跳ねる。

 細く開けたドアの隙間から、真桜はうかがうように顔をのぞかせた。

「いらっしゃ――」

 にこやかにこちらを見たマスターと目があう。

「よう」

 真桜に気づき、がらりと口調を変えたマスター、もとい、鬼(おに)塚(づか)優(ゆう)也(や)にぺこりと頭をさげる。どうやら、先客はいないらしい。

「いつまでそうしてる気だ」

 顔だけのぞかせた状態できょろきょろと店内を見回していると、胡乱げなまなざしをむけられる。

 真桜は意を決すると、身体を滑りこませるようにして中へ足を踏みいれた。

 窓辺に視線を走らせれば、今日も猫さまの姿がある。日だまりの中、香箱を作りうとうととまどろんでいた。

 そのさまに頬が緩むのを感じながら、真桜はぎこちない足どりでカウンターへむかった。この間と同じように端の席へ腰かける。

「今日は?」

 客としてきたのか、それとも別件か、と言外に問われ、「あ、今日は話をしにきたんで」ととっさに手を振った。

 そうしながら、真桜はうろっと目を泳がせた。

 たしかに話をしにきたのだが……この状況はすこし予想外だった。お客さんがいてはできない話だが、待つ間に心の準備ができるかと思っていたのだ。

 この店はこんなに人がいなくて大丈夫なのか、と逃避気味に心配になる。

「で?」

 しかし、逡巡を断ち切るように先を促され、真桜は喉を上下させた。

「あの、この間の話なんですけど」

「どうするか決めたのか」

「……あれって、その、どういう意味――っていうか、ほんとのところはどういうことなのかな、って」

 照れるでも揶揄するでもなくひたと見つめる瞳に、こちらの方がしどろもどろになってしまう。

『嫁として雇ってやる』

 そう告げられたあの日、あまりに突飛な提案に動揺した真桜は返事を保留にしたまま店をあとにした。

 雇ってやる、というのはわかる。

 身の上に同情してくれたのかもしれないし、本当に人手がほしかったのかもしれない。

 自分一人の楽しみでしかなかった紅茶を認められたのも嬉しかった。こういう道もあるのだと素直に思えた。

 が、嫁として、というのがわからない。

 この人は自分のことが好きなのだろうか――なんて疑問も湧いてこないほど、優也が自分のことをどうこう思っていないのは明白だ。

 あたりまえだ。そもそも二回しか会ったことがない上に、あれだけやっかいな話を聞かされて、そういう対象として見られるはずがない。

 一目惚れ、だなんて思えるほど自惚れてはいないし、第一こちらを見る目に熱がなさすぎる。

 それが、なにをどうしたら『嫁』という話になるのか。

 真桜の困惑に、優也は怪訝そうに眉をあげた。

「どうもこうも、まんま言葉どおりだろうが」

「いや、そう、なんですけど」

 むしろそれ以外のどんな意味があるんだ、と告げる目に、頷くしかない。

「普通に店員として雇ってもらうんじゃ、だめなのかなーって」

 それでもなんとか言いたいことを言いきった真桜に、優也は軽く鼻を鳴らした。

「あんたが言ったんだろ、『この人と結婚するんです』ってな」

「! なっ、あれは……」

 かっと身体が熱くなる。

 今さらながらに勢いでなんてことを言ってしまったのかと、恥ずかしさと自責の念で転げ回りたくなるが、口からでた言葉は戻らない。

「巻きこんでしまったのは、謝ります……けど! あれは、とっさにでた言葉っていうか、その場しのぎであって」

「だろうな。が、実際それくらいやらないと手をひくとは思えないがな」

「……」

 的を射た指摘に、真桜はぐっと押し黙った。

 事実、あれ以降何度も家から電話がかかってきて、着信拒否にしたくらいだ。痺れを切らしてアパートに押しかけてくるのも時間の問題だろう。

「それに嫁としてなら、住む場所に困ることもない」

「だからって……」

「仕事も住む場所もできて、やっかいなしがらみも断ち切れる。一体なにが問題だ?」

 わからん、とでも言いたげに肩を竦めた優也に、いや問題だらけでしょ! と叫び返しそうになったところで、

「あ! だったら、住みこみで雇ってもらうとか?」

 思いついた案に真桜はぱっと顔を輝かせた。

 これなら仕事も住む場所も確保できる上、父たちの目も誤魔化すことができる。

「戸籍を調べれば一発でばれるぞ」

 またも正論を衝かれ、笑顔が萎む。

 そんな真桜に、優也はハァと息を吐いた。

「別にほんとに嫁をやれって言ってるわけじゃない。嫁として『雇って』やるって言ってるんだ」

「……それって、今流行りの契約結婚ってやつですか?」

「流行ってるかなんてオレが知るか」

 そっけないが否定が返らないということは、そういう認識でいいのだろう。

 たしかに、いきなり結婚してくれと言われるよりは納得できる。

「でも、それだとマスターの方にメリットが……」

 言いかけて、真桜ははっと優也を凝視した。

「まさか、嫁にしてタダでこき使おうっていう魂胆じゃ」

「雇うって言ってんだろ、人の話聞いてんのか?」

 ぎろりと睨まれて、首を竦める。

「だけど、わざわざ結婚までするメリットが、マスターの方にないじゃないですか」

「こっちにも事情ってもんがあるんだよ、この年にもなるとな」

 真桜の反駁に、優也は面倒くさそうに答えた。

「親に、結婚を急かされてる、とか?」

「そんなとこだ」

 三十前後に見える年齢から推測できる事情とやらをあげてみれば、ぞんざいな頷きが返る。詳しく話すつもりはないらしい。

「――それに、猫さまが連れてきたヤツだからな」

「え? なんですか?」

 ぼそりとつけたされた言葉が拾えず聞き返すが、なんでもない、と首を振られた。

「で、どうするんだ?」

 代わりに改めて問われ、真桜は返事に窮した。

「――本当に? 冗談じゃなく?」

 悪い話ではない、と思う。

 けれど、昨日今日会ったばかりの相手をいまいち信じきれない。

 滲んだそんな思いに、優也がにっこりと微笑んだ。

「冗談にしてほしいのなら、それでもかまいませんよ」

 あ、マスターの顔だ――と感じた瞬間、真桜の胸に一抹の寂しさがよぎった。

 自分がここでこの話を断れば、もうこの人と関わることはなくなる。あったとしても、それは客とマスターとして、だ。

 このカウンター(距離)を越える機会は、二度と巡ってこないだろう。

 そのことに迷いを感じる自分に、自分で驚く。

「……」

 真桜は一度視線をおとすと、鞄につけ直された鍵を見つめた。

 こくり、と喉が鳴る。

 ついで、決然と顔をあげた。

「条件は?」

 短い一言に、マスターは軽く目を見開くと、くっと唇を持ちあげた。

「衣食住の保証及び、従業員としての給与の支給――でどうだ。まあ、相場よりは多少安くはなるが、奨学金を返済しても十分おつりはくるだろ」

 示された条件に、真桜は頷いた。

 この扉は、今この時しか開かない。

 どうしようと迷うのは、興味があるからだ。

 この気持ちがどう育っていくのかはわからない。逆に、飛びこんでみなくてはそれもわからないのだ。あとで後悔するよりはずっといい。

 どうせ違う道を選ぶのならこれくらいの冒険の方が、夢を吹っ切るにはちょうどいいだろう。

「決まりだ」

 そう、改めてさしだされた鍵へ、真桜は手を伸ばした。

「ただし」

「『ただし』?」

 が、触れる寸前つけたされた一言に、動きを止める。

「使えないヤツはいらない」

 真桜は突きつけられた宣告に、無言のまま優也の手から鍵を受けとった。

 優也が口元の笑みを深める。

「だったら、とりあえず三ヶ月だ。――よろしく、『奥さん』?」

「こちらこそ、『旦那さま』……って呼んだ方がいいですか?」

「好きに呼べばいい。で、いつからこれる」

「派遣の契約が三月いっぱいですから、四月に入ってからになりますけど……」

「なら、先に引っ越しだけすませればいい。アパートをひき払うなら、早い方が余計な家賃を払わずすむ。住居はこの上の二、三階部分だ。部屋は余ってるからどれでも好きに使え」

「父たちのこともありますから、その方がありがたいです」

 そのまま客の姿がいないのをいいことに詳細をつめていく。

 そんな二人を薄目を開けて眺めていた猫さまが、くあ……と大きく欠伸を漏らすと、どこか満足げに再び目を閉じた。

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