一、 崖っぷち小倉トースト その②

 かちゃり、と鍵を回し、玄関ドアをひき開ける。

「ただいま……」

 だが、一人暮らしの部屋に返る声があるはずもない。あるのは暗くひんやりした静けさだけだ。

 今日はそれを一段と寂しく感じながら、真桜は身体を投げだすようにして冷たい床に仰向けに転がった。

「あーぁ、もう、あの店にはいけないな」

 せっかく雰囲気のいいお店だったのに、と嘆息する。

 しかし、猫さまのことといい、不躾な身の上話といい、あれだけ恥を重ねておいて再び来店できるほど厚い面の皮は持ちあわせていない。

 はぁ、と何度目かもわからない溜息とともに、ごろりと身体のむきを変える。冷たさを頬に感じながら、ぼんやりと床に置いたままの鞄へ目をやった。

 しばらく見るともなしに眺めていた真桜は、はたと双眸を瞬かせた。

「――え?」

 がばりっと起きあがり、慌てて鞄を手繰りよせる。

「ない……」

 鞄にとりつけてあったはずの鍵が、なくなっていた。

 ちぎれたキーホルダーの鎖だけが所在なくぶらさがっている。

「うそ…っ」

 這うようにして床を見渡す。玄関までくまなく目を凝らすが、どこにも鈍い輝きは見つけられなかった。

「おとした……? え、どこで?」

 真桜は茫然と床へとへたりこんだ。

 焦りがじわじわと喉を締めつける。

 なんの変哲もない、どこにでもあるただの古い鍵だ。

 けれど、真桜にとってはもう替わりのない、たったひとつの鍵だった。

『いつでもおいで』

 今はもう聞くことのできない、優しい声が耳の奥に蘇る。

「……おじいちゃん、おばあちゃん」

 脳裏に浮かんだ面影に、目の奥が熱くなり、じわりと視界が滲んだ。

 あの鍵は、今はなき母方の祖父母の家の鍵だった。

 幼いころから家に居場所のなかった真桜を心配した祖父母が、いつでもこられるようにとこの手に握らせてくれたのだ。

 大人には近い距離でも、子どもには遠い場所だった。だから頻繁に訪ねることはできなかったが、ソレがあるだけで心強かった。

 自分には受けいれてもらえる場所がある。

 そう思えるだけで、ソレは真桜にとっての秘密の花園の鍵になったのだ。

 それは短大の時に祖父が、昨年には祖母が亡くなっても変わらなかった。今年に入って家がとり壊されてなくなったあとも、真桜のお守りであり続けた。

 祖父母は心の支えとなってくれただけでなく、なにくれと助けにもなってくれた。高校卒業と同時に家をでた真桜が短大にかよえたのも、この部屋を借りられたのも、祖父母の力添えがあったからだ。

 あの鍵には、『鍵』という役割以上のものがたくさんつまっていた。

「どうしよう、あれがなくなったら……」

 焦燥が胸を灼く。

 西洋では古い鍵は、夢や幸運の扉を開くラッキーアイテムなのだという。

 職をなくし、家をなくし、挙句アレまでなくしたら、もう自分に未来は開かれない――そんな気さえしてくる。

「探さなきゃ」

 真桜はふらりと立ちあがった。

 あの喫茶店をでるまでは、たしかにあった。ならば、帰り道のどこかにはおちているはずだ。

「古くたって鍵なんだし、だれかが拾って駅とかに届けてくれてるかも」

 アレをなくしたら、自分の心の拠り所さえも失ってしまう。

 鍵をなくしたという以上の喪失感に背を押されるようにして、真桜は帰ってきたばかりの玄関を飛びだしていった。



『CLOSE』

 ドアの取っ手にひっかかった木のプレートに、はあ、と真桜は息を零した。

「休み、なんだ」

 住宅街というよりはオフィス街に近いこの喫茶店は、日曜定休らしい。

 どうして日曜なのにやってないんだ、と八つ当たり混じりにプレートの文字を睨み、真桜はぐるりとあたりを見回した。

「おちてない――よね」

 見つけられない姿に肩をおとす。唇からは溜息しかでてこない。

 溜息をつくたびに幸せが逃げていくというが、幸せなどとっくに枯れはてている。

 昨日、あれから駅までの道をたどってみたが、日もおちたあとでは鍵のような小さなものを捜すのは困難だった。時折、街灯に光るものを見つけて駆けよってみても、空き缶などのゴミばかり。

 駅まで戻って駅員にたずねてはみたが、それらしいものは届けられてはいなかった。

「こちらでも捜してみるから、自宅の鍵でないなら今日はもう帰った方がいい。暗くなって危ないからね」

 親切な駅員に諭されてアパートに戻ったものの、なにをしていても鍵のことが頭を離れず、気もそぞろに一晩を明かした。

 そうして、朝からまた鍵を捜し歩いて件の喫茶店までやってきたが、いっこうに見つかる気配がなかった。

「ひっかけておとしたんなら、ここだと思うんだけど」

 諦めきれず、出窓から中をのぞきこむ。

 だが、店内は暗く、当然人影もない。

「――ん?」

 その時、ふと視界の中で動いたものがあった気がして、真桜はじっと目を凝らした。

 もしかしてマスターがいるのかな、とさらに顔を近づけようとしたところで、

「おい!」

 突然背後から肩を掴まれる。

 びくっと身体が跳ねた。

「あのっ、わたし、捜しものしてて――」

 慌てて振り返りながら、怪しい者ではないと口走った言い訳が、途中で途切れる。

「こんなとこにいたのか」

「あなた……」

 こちらを見下ろす、険しい顔つきの見知った若い男に、真桜はさっと表情をこわばらせた。じりっと距離をとるように後退る。

 しかし、逃がさないとばかりに男の手が肩に食いこんだ。

「ぃた…っ」

 痛みに顔を顰める。

 男は意に介した様子もなく、いらだちを隠さない目つきで真桜をねめつけた。

「今日という今日は一緒にきてもらうぞ」

「放してッ」

 真桜は負けじと睨み返しながら、手を振りほどこうと身を捩った。

 チッと舌打ちした男に、反対の手で腕を掴まれる

「いくぞ」

 手間かけさせやがって、と吐き捨てた男が歩きだす。

 強行手段にでた男に、顔から血の気がひく。このまま連れていかれるわけにはいかない、とつっぱるようにして真桜は両足を踏み締めた。

「いや!」

「おとなしくついてこいッ」

 いらだちを増した声とともに力任せにひっぱられる。さすがに男の力には抵抗できず、たたらを踏む。

 体勢の崩れた期を逃さず、男はそのまま真桜の身体をひきずるようにして歩きだした。

「――っ」

 なんとか踏み留まろうとするが、男女差という以上の体格差があってはそれもうまくいかない。

 真桜はすがるものを求めるように、あたりへ視線をさまよわせた。と――

 カロン! とのどかな音色に反した荒々しい音がこだました。直後、

「おいッ、なにをやってる!」

 背後から怒鳴り声が追いかけてくる。

 びくっ、と男の背中が揺れ、同時に腕を掴まれていた手の力が緩む。

 真桜はその隙をついて男の手を振り解くと、さっと踵を返した。

「! 待てッ」

 気づいた男が慌てて振りむく気配がする。

 だれが待つか、真桜は目の前に現われた人物へ飛びつくようにして、その腕にすがりついた。

「!? なにを、」

 驚いた彼がなにか言いかけるのを遮るように、くるりと男へむき直る。

「あたしはこの人と結婚するんです!」

 間髪をいれず叫んだ真桜に、「おいっ」「なんだとっ?」と怒鳴り声が被る。

 頭の片隅で、自分はなにを口走っているのかと焦るが、ついた勢いは止まらなかった。

「あんな家、頼まれたってだれが戻るもんですかッ」

 続けざまに言い放ち、すがった腕を強く抱えこむ。

 それは振り払われないようにとった行動だったが、男の目には違う光景として映ったらしい。

「そんなことは聞いてないぞ、どういうことだ!」

 眦を決し、ずかずかとこちらへむかってくる。

 真桜は震えそうになる身体にぎゅっと力をこめ、男を睨み返した。

「あなたには、」

「――そういうことです」

「関係……え?」

 関係ない、と言いきる前に隣からあがった声に、語尾が細る。驚いて見上げれば、彼――昨日出会ったばかりのマスターが鋭く男の方を見つめていた。

 そればかりか、真桜をかばうように半歩前へでる。

「これ以上彼女につきまとうようなら、警察を呼びますよ」

 毅然と告げた警察の一言に、男があきらかに怯んだ。「ちくしょう、どうなってる」といらだちまぎれの呟きが届く。

 男は悔しげにこちらを睨みつけていたが、舌打ちすると無言で背をむけた。足音も荒く、店先から遠ざかっていく。

 男の背中が完全に見えなくなったところで、真桜は知らず知らずのうちにつめていた息を大きく吐きだした。

「それで?」

 そこへ届いた声に、我に返る。

「! ごめんなさいっ」

 真桜は抱えこんでいた腕を放りだすようにして飛び退ると、勢いよく頭をさげた。

「巻きこんじゃってすみません!」

 今さらながら、自分のしたことの恥ずかしさに赤くなり、しでかしたことの失礼さに青くなる。

「あの、話をあわせてくださって、助かりました」

 真桜は赤いのか青いのかわからない顔をそろそろとあげながら、どうしよう、と頭を抱えたくなった。

 巻きこんでしまったからには事情を説明した方がいいのだろうか。だが、ただでさえ面白くもない身の上話を聞かせているのだ。この上さらに面倒な事情など話しても、迷惑になるだけなのでは?

 ぐるぐると考えあぐねていると、上から嘆息が降ってきた。

「とりあえず、中へ」

 そう店のドアをひき開け促したマスターに、逆らえるはずもない。

 真桜は顎をひくと、躊躇いがちに店内へ足を踏みいれた。

 カロン、と音がして、店内が薄暗さに閉ざされる。途端、


「で? あれはどういうことだ」

 

 説明してもらおうか、と不機嫌さを隠さない乱暴な口調で問われ、真桜は目をしばたかせた。

 怒っているのは、わかる。当然だ。

 しかし、昨日とはまるきり雰囲気が違う。戸惑いながら見上げたそこに、優しいマスターの姿はなかった。

 昨日は柔らかに目尻をさげていた目元は鋭くこちらを見下ろし、微笑みを浮かべていた口元には笑みの欠片もない。

 きりっと整った目鼻立ちに不機嫌さをまとわせるさまは、怒りという熱とは反対に冷ややかさえ感じさせた。

「とりあえず、座れ」

 くいっと顎でカウンターを示される。

『優しいマスター』の仮面が剥がれおちた真逆の姿に唖然としていた真桜は、有無を言わさぬそれにこくこくと頷いた。

 先にたった彼についてカウンターへむかい、端にぎこちなく腰かける。

 一方のマスターはカウンターの中へ入ると、ランプの明かりを灯した。

 薄暗い店の中、二人のまわりだけ滲んだような淡い輝きに包まれる。

 そのオレンジ色の光に、真桜はすこしだけ肩から力が抜けるのを感じた。

「――あの男は?」

 あちこちを開けたり閉めたりしながら、マスターが相変わらずの不機嫌な声で問う。

 とはいえ、正面からむきあっているわけではない分、さきほどの凄みのようなものは感じられなかった。

「……あの人は」

 それらにややおちつきをとり戻した真桜は、逡巡したのちゆっくりと口を開いた。

「自称わたしの婚約者です」

「婚約者?」

 マスターがちらりと手元から目をあげる。

 いかにも怪訝そうな目つきに、真桜は緩く首を横に振った。

「自称、です。――まあ、正確には『親が勝手に決めた』ですけど」

「あんたが言ってた『違う道』ってのは、アレのことか」

 軽く鼻を鳴らしたマスターが、再び手元へと視線をおとした。

「違う道?……って、まさか!」

 一瞬なにを言われたのかわからず首を傾げかけたところで、ぎょっと目を見開いた。マスターの言う『違う道』が、昨日ここで零した弱音のことだと気づいたのだ。

「あんな男頼るくらいなら、派遣だろうとアルバイトだろうとなんだってやります!」

「だろうな」

 身をのりだす勢いで否定した真桜に、あっさりと肯定が返る。

 そのあっけなさに拍子抜けする。言ってみただけだったらしい。

 勢いに任せて浮かせかけた腰をおさまり悪く戻した真桜は、気をとり直すように小さく息をついた。

「――わたしの実家は、代々続く窯元なんです」

 とりあえず、ここから話さなくてははじまらない。

 赤の他人の面倒な身の上話など聞かせるのはどうかと思うが、今さらだ。

 マスターは顔をあげないままカウンターのむこうで作業をしているが、止めないということは聞く気があるということだろう。――もしかしたら、聞き流しているだけかもしれないが。

「今までの流れでおわかりかと思いますけど、わたし、家と折りあいがよくなくて……父は昔気質の人間で、女に学は必要ないって考えでした」

 高校時代、周囲に進学を諦める者はほかにもいたが、主な理由は経済的な事情だ。それを思うと、父親が進学自体を認めないというのは今時そうはない家庭環境だったのだと、今ならわかる。

「だけどわたしは司書になりたくて、母方の祖父母に協力してもらって高校卒業と同時に家をでたんです」

 短大の学費と生活費は、奨学金とアルバイトでなんとか工面した。

 四大より学費はすくなくてすむが、必要な単位を二年で取得するのだから授業数は多い。アルバイトに入れる時間もかぎられ、生活はいつもカツカツだった。

 それでも祖父母の協力と夢という目標のおかげで、なんとかのりきることができたのだ。

「よくそれを父親が許したな」

「――弟がいましたから」

 もっともなマスターの問いに、真桜は苦く笑った。

 なにかを察したのか、マスターはそれ以上踏みこもうとはせず、頷いただけだった。

「以来、実家とは縁を切ってたんですけど……」

「弟とやらが家出でもしたか」

 思いだした腹立たしさに両手をきつく握り締めた真桜は、耳朶をうった言葉に目を丸くして顔をあげた。

「なんで、わかるんですか?」

 マスターは手を止めないまま、鼻先で笑った。

「それぐらいしかないだろ、縁を切った娘を結婚相手を用意して連れ戻そうとする理由なんて」

 おおかた、跡継ぎの弟に逃げられ焦った父親が、娘がいることを思いだし、弟子かなにかと結婚させて跡を継がせようという魂胆だろう。

 面白くもないといった様子で指摘してみせたマスターに、真桜は思わず手を叩いていた。

「すごい! 寸分違わずそのとおりです」

「そんなもん、だれでもわかるだろ」

 呆れたように肩を竦めたマスターに、くすりと笑いが零れる。

「でも、父にはわからなかったですよ。広い世界を見たら、弟がどう思うかなんて」

 自分には「女に学は必要ない」と時代錯誤なことを言いながら、弟には「これからの時代は広い見識も必要だ」と言って大学へ進学させた。

 結果、古臭い家に縛られることを嫌った弟は、卒業と同時に出奔。

 今まで見向きもしなかった真桜へ、「弟子と結婚して跡継ぎを産め」とお鉢が回ってきたのだ。

「さっきの人も降って湧いたチャンスに、躍起になってるんです」

 それはそうだろう。

 弟子といっても賞などで実績をあげなくては、作品を作って食べていくことは難しい。職人として生きていくにしても、腕と経験がなければ独りだちなど容易なことではない。

 よほどの才能の持ち主か、独立不羈の精神の持ち主以外、棚からぼた餅に飛びつきたくなる気持ちはわかる。

 わかるが――つきあう義理はない。

「父親もあの人も、『わたし』のことはどうだっていいんです。『あの家の娘』ということ以外求めてない」

 でなければ、ある日突然連絡をしてきて「弟子と結婚しろ」だなんて言うわけがないし、言うことを聞かないのなら強引に連れ戻そうとするわけがない。

 なにを勝手なことを、とあげた反駁に、「勝手なのはおまえだろう。つべこべ言わず、言われたとおりにしてればいいんだ」と告げられた時の唖然とした気持ちと、湧きあがってきた憤りは、今でもありありと思いだせる。

「そういうのが嫌で、わたしが『わたし』でいられる場所がほしくて、あの家をでたのに……」

 家も、仕事も、拠り所も――持っていたと思っていたものは、たやすく手の隙間から零れおちていく。

 じっと掌を見つめていた真桜は、カチャン、と食器が触れあう音に、はっと目をあげた。

 いけない。事情を説明するだけのはずが、また埒もない愚痴を聞かせてしまった。

「あ、でも!」

 真桜は強引に笑顔を作ると、カウンターのむこうのマスターを見上げた。

「ちょうどいい機会かもしれません。家も仕事も変わっちゃえば父たちには捜しようもないでしょうし。この際心機一転、全然別の仕事を見つけて」


「食え」


「――え?」

 居たたまれなさを誤魔化すように明るくまくしたてていた真桜の前に、ふいに皿がさしだされる。

 それは湯気をあげる珈琲と、小倉トーストだった。

「あの……」

 戸惑いながらそれらとマスターを見比べる。

 マスターは「入り口の日曜定休の文字が読めないのか、ったく」とぶつぶつ言いながら、珈琲の横にすっと手を滑らせた。

「これ、あんたのだろ」

 かちり、と軽い音がしてカウンターに置かれたソレに、真桜は目を瞠った。

「これ…っ」

 なんの変哲もない、ありふれたくすんだ古い鍵。

 けれど、真桜にとってはかけがえのないソレに、急いで手を伸ばす。握りこめば、ざらりとした馴染んだ感触が掌から伝わってきた。

 よかった、と安堵が零れる。

「あの」

 礼を言おうと顔をあげた真桜に、マスターは顎をしゃくった。

「昨日、あんたが帰ったあと猫さまが咥えてきた」

「え?――あ」

 つられて肩越しに振り返る。

 いつのまにか、出窓には一匹の猫がたたずんでいた。

 毛繕いをしていた、すこしずんぐりした黒と白のハチワレ猫が、こちらの視線に気づいたかのように顔をあげ、ニアァ、と鳴く。

「猫さま……」

 予想外に遭遇した、求めていた猫の姿に唖然と見入る。ふらり、と立ちあがりかけた真桜は、

「冷める」

 短い、しかし断固とした声に、我に返った。慌ててカウンターへとむき直る。

 そうして、改めて並べられた品を見下ろした。

「え、と……いただきます」

 食べろ、という無言の圧力を感じ、真桜は躊躇いがちに手をあわせる。

 ご丁寧に用意されたおしぼり――さすがにあたたかくはない――で手を拭き、昨日もそうしたようにまず珈琲のカップを手にとった。

 じんわりと指先に伝わる熱に、自分の身体が冷えきっていることを今さらに自覚する。

 ふうっと吹き冷まし一口含めば、豊かな味が広がる。

 しみわたった熱さに、ほうっと息が漏れた。

 真桜はカップを戻すと、小倉トーストの方へ目を移した。

 カリッと焼かれた分厚いトーストに、たっぷりの小倉あんがのせられた、名古屋の喫茶店では定番のメニューだ。

 あんの上にバターや生クリームがのせられているものもあるが、ここのものはシンプルに小倉だけだ。

 真桜はずっしりとした半切れを手にすると、行儀が悪いかと思いつつそのままかぶりついた。

 サクッとした歯触りについで、とろりとした緩めのあんの、がつんとした甘みが追いかけてくる。さらに、もっちりとしたパンにたっぷり塗られたバターのしょっぱさが、じゅわりと広がった。

 サクもちっとした生地に、あんとバターの甘じょっぱさが、絶妙にマッチする。ついついもう一口、とかじりついてしまう癖になる味わいだった。

「……おいしい」

「当然だ」

 自然と零れた感想に、なぜか不本意そうな声が返る。

 ちらりとうかがった顔は、誇らしげでありつつ不満が隠せない、といったなんとも複雑な表情だった。

「……?」

 真桜のもの問いたげな視線に気づいたのか、マスターは溜息で表情を払うと顎先で食べるよう促してきた。

 なんだろう、と思いつつも、目の前の誘惑に勝てずにかじりつく。

 こうしてお腹にものを入れてみると、自分がひどく空腹だったことがわかる。思い返してみると昨晩からろくにものを口にしていないのだから、当然といえば当然だ。

 現金なもので、おいしいものを口にしたことで身体は食欲を思いだしたらしい。

「なんで、おいしいんだろ」

 ほろ苦く笑う。

 捜していた鍵は、無事見つかった。

 だが、それだけだ。とりまく状況はなにひとつ変わってはいない。

 なのに、この小倉トーストはおいしいのだ。

「――あんた」

「あ、ごめんなさい」

 気を悪くしたかと、真桜は慌てて謝った。

「この小倉トーストがどうこうっていうんじゃないんです」

「これまでの道を諦めたら、今までしてきたことが無駄になるって思ってないか」

「え――」

 しかし、かけられた予想外の言葉に、固まる。

 マスターは使用したサイフォンを片付けつつ、ちらりとこちらを見て、やっぱりな、と言いたげに口元を歪めた。

 はっ、と忘れていた呼吸を思いだしたように唇を震わせた真桜は、手にしていたトーストを皿へ戻した。

 空いた手で、カウンターに置かれたままだった鍵を強く握り締めた。

「でも、実際そうじゃないですか」

 今ここで司書を諦めたら、学んできたことも、時間も、お金もすべてが無駄になる。

 自分の努力だけではない。協力してくれた祖父母の思いさえも――と思いかけ、真桜は頭を振った。

 いや、それは言い訳だ。

 家をでる前はもちろん就職してからも、なにくれと自分を案じてくれた祖父母が、そんなことでどうこういうはずがない。多少残念がるかもしれないが、笑顔で応援してくれるような人たちだ――だった。

 自分が怖いだけだ。

 ここまでかけてきたすべてを投げだすのが。

「夢を諦めたからって、してきた努力がなかったことになるわけじゃない」

「だけど!」

「その努力があんたを作ってきたんだろ。――あんたが『あんた』でいるために」

 つい零した愚痴をしっかり拾っていたらしいマスターの科白に、真桜は虚を衝かれた。

 開きかけた唇が、はく、と紡ごうとしていた言葉を見失って、開いて閉じる。

「……わたしが、『わたし』でいるため」

 変わりに口を突いたのは、噛み締めるような呟きだった。

「だったら、無駄になるかどうかはあんた次第だろ」

「……」

 言い聞かせるでも、慰めるでもない、こちらを見もせず、ただあたりまえのことのように告げたマスターに、真桜はゆるゆると目を見開いた。

 視線に気づいたのか、チッ、と舌打ちが返る。

「いいから食っちまえ」

 ぶっきらぼうに言いながら、洗い物の手つきを荒くするさまは、いかにも柄にもないこと口にしたといわんばかりだ。

「――わたし、次第」

 ああ――と、その一言が胸におちてくる。

 家をでた時から、いや、家をでようと決めた時から、夢を追いかけてここまできた。

 追うのに夢中で、いつのまにかそれしか見えなくなっていたことにも気づかなかったほどに。

 だから、ふいに目の前に現われた崖っぷちに立ちつくすしかなかったのだ。

 視線をおとした先にあった小倉トーストに、小さく笑いが漏れる。

 今の自分は、たとえるならサンドイッチに固執するあまり、手に入らない材料を嘆いてパンそのものを放りだしてしまったようなものだろう。

 サンドイッチが作れないからといって、そのままパンを腐らせる必要はない。パンがおいしければ、ただのトーストだって十分おいしい。

 真桜はおもむろに食べかけのパンを手にとった。すこし冷めてしまったそれに、大きくかじりつく。

「……うん」

 さらに、そこにバターと小倉があったなら、幸せなおいしさだ。

『それもひとつの道だと思いますよ。頑張ったら報われるとは、かぎりませんから』

 昨日のマスターの言が脳裏に甦る。

 今なら、あの言葉が冷たいものだったわけではないことがわかる。

 頑張れ、と慰めてほしかった自分には残酷に響いたけれど、あれはマスターなりの助言(エール)だったのだ。

 口の中に広がる甘じょっぱさに、ふふっ、と笑いがこみあげてくる。

 甘さとしょっぱさ。

 相反する味わいが調和するさまは、まるでマスターのようだ。――もっとも彼の場合、塩っ気の方が勝ってはいるが。

 突然笑いだした真桜に怪訝そうに顔をあげたマスターの目が、気づけば頬に伝っていた涙を見て軽く見開かれる。

「おいしいです」

 わずかにしょっぱさの増したそれを飲みこんで、笑顔を返す。

「――なら、いい」

 ぶっきらぼうに頷いたマスターが、今日でなきゃケーキを食わせたんだが、と気まずさを誤魔化すように独りごちる。

 そこに滲む、やはり不本意そうな色に、真桜は小さく首を傾げた。

「十分すぎるくらいですけど」

「それがうまいのはあたりまえだ。パンもあんも、先代のころから贔屓にしてる店から卸してもらってるんだからな。――オレが、見過ごないって言ってるんだ」

 睨むようにこちらを見たあと、ふいっと顔をそらされる。

「オレのケーキを食べて浮かない顔、なんてのはな」

 よりにもよって日曜にきやがって、と文句を言うさまに、はたと合点がいく。

 あの、誇らしげだが不満げな顔つきの意味は、これだったのだ。

 店の提供する味には自信を持っている。が、それは自分の作ったものではない。

 昨日ケーキを食べている時の真桜の顔が、よほど見過ごせないものだったのだろう。だからこそ、自分の手で「おいしい」と言わせたかった。

 けれど、定休日ではその用意もなかったということだろう。

「――あれ」

 そこまで考えて、ふと気づく。

 マスターは猫さまが咥えてきたこの鍵が、真桜のものだと見当がついていた。そしてさきほどの様子から察するに、捜しにくるだろうことも予想がついていた。

 今の今まで気にする余裕もなかったが、騒ぎを聞きつけて飛びだしてきたということは、彼は店にいたということだ。

 店が休みの、日曜日に。

「もしかして、わたしのために店に……?」

 鍵を捜しにくるかもしれない自分のために、彼は店にいたのではないだろうか。

 この近さで聞こえていないはずがないのに、マスターは片付ける手を止めないまま、こちらを見ようともしない。

 その態度が、真桜の考えが正しいことを物語っていた。

 くるかこないかわからない自分を待っていてくれたのだろう彼に、じわりと胸にあたたかさが広がっていく。

 口ではなんのかんのと言いながら、こちらを気遣って甘いものをだしてくれるぶっきらぼうな優しさに、真桜は目まぐるしく変わるマスターの印象をひとつ訂正した。

 やっぱり、彼のケーキどおりの人だ、と。

 かえすがえすもあんな風に食べてしまったことが惜しまれる。

 せめても、と真桜は残りの小倉トーストを最後の一欠片まで味わって食べた。

 ぬるくなってしまった珈琲を残念に思いながら、こちらも最後の一口を飲み干す。

「ごちそうさまでした」

 手をあわせたあと、真桜はゆっくりと顔をあげた。

 作ったものでない笑みが自然と浮かぶ。

「色々とご迷惑をかけてすみませんでした。今度は猫さまに会いにじゃなくて、ケーキを食べにきます。――新しい道を決めたら」

 その時こそ、マスターのケーキをじっくり味わおう。

「それで、あのお代は」

「勝手にだしたもんに金がとれるか。それより、あんた」

 鞄を手に立ちあがりかけた真桜は、むけられたまなざしに動きを止めた。

「仕事も住むところもない。おまけに自称婚約者とやらにまでつきまとわれて、これからどうするつもりだ」

「……」

 マスターのおかげで偏狭になっていた視界が開けたとはいえ、目の前にあるのはあいかわらずの崖っぷち。

 思いだした現実に暗澹たる気分に陥りそうになり、真桜はふるふると頭を振った。

 ここでまたおちこんではいられない。

「アパートはすぐにでも追いだされるってわけじゃないので、とりあえず別の仕事を探して……」

 いや、父たちに居場所が割れているなら、先に住まいを移した方がいいだろうか。

 あれで諦めてくれたらいいが期待薄だろう、と思案を巡らせていた真桜は、

「あんた、紅茶はいられるか」

 唐突にたずねられ、目をしばたかせた。

「紅茶、ですか? ええ、一応」

「――いれてみろ」

 こちらも思案げに顎をなでたマスターの一言に、思わずぽかんとする。

「え!? 今ですか?」

 ついていけない真桜をよそに、マスターはコンロにケトルをかけた。ついで棚からティーポットをとりだす。

 こっちへこい、と目顔で促され、わけがわからないながらに腰をあげる。

「……おじゃま、します」

 カウンターを回って内側へ足を踏みいれる。定休日とはいえ場違いな気がして、きょろきょろとあたりをうかがってしまう。

 と、窓辺に陣取る猫さまと目があった。

 きれいな琥珀色の目が、こちらを見定めるように眇められ、そのやけに人間臭い仕草にどきりとする。

「茶葉はこれを使え。古くなってるが、客に飲ますわけじゃないからな」

「あ、はい」

 そこへ横から茶葉が入っているらしき缶を押しつけられ、反射的に受けとってしまう。

 どうしてこんなことに? と首を捻るが、こうなったらやるしかないだろう。

 真桜は缶の蓋を開け、匂いを嗅いだ。無意識に眉を顰める。

 おかしな匂いはしないが、茶葉の香りは飛んでしまっている。

 実のところ、真桜の読書以外の唯一といっていい趣味が紅茶だった。

 実家では父親が日本茶しか飲まなかったため、外でしか口にしたことのなかったそれを嗜むようになったのは家をでてからだ。

 今では本のお供に、ほっと一息つきたい時、逆にしゃきっとしたい時など、気分にあわせて飲み方や茶葉を変えては楽しんでいる。

 とはいえ、生活はかつかつだったから、嗜好品に割ける余裕があるわけではない。その中でやりくりしながら、専門店で小量ずつ購入するのがささやかな贅沢だ。

 だからこそ、この状態はいただけない。

 自分がいれると飲めた代物ではなくなると言っていたから、しまいっぱなしになっていたのだろう。

「これならティーパックの方がマシな味になると思いますけど」

「――好きにしろ」

 つい胡乱げに見やれば、紅茶に関しては門外漢の自覚があるらしく、目をそらされた。

 真桜はひとつ息をつくと、沸いたお湯をポットへ注いだ。同時にカップもあたためておく。

 十分ポットがあたたまったのをたしかめてお湯を捨て、茶葉の代わりに用意されたティーパックをいれる。沸かしたままにしてあった湯をすばやく注いだ。この時、パックに直接あたらないよう注意する。

 パックに使用されていることが多い細かいタイプの茶葉に湯を注いでしまうと、雑味がでやすくなる――と思っている。すくなくとも自分には渋くなりすぎて、ミルクでもいれないと飲めないのだ。

 蓋をすると同時に時計に目を走らせ、きっちり表示の時間を計る。

 よく色がでたからとパックをひきあげる人がいるが、それでは茶葉の旨味が抽出されないままになってしまう。決められた時間には意味があるのだ。

 保温のために被せるティーコゼーがほしいところだが、探している間に時間がきそうだと諦める。

「――よし」

 時間だ、と真桜はポットを持ちあげるとゆっくり大きく回した。カップへと最後の一滴まで注ぎいれる。

 ふわり、と甘く芳醇な香りがたちのぼった。

「どうぞ」

 真桜は一歩ひいて、マスターに場を譲った。

 ああ、とソーサーごと持ちあげたマスターが、手にしたカップの香りを嗅いだ。軽く眉をあげると、カップに口をつける。

 その一連の動作を、真桜はどきどきしながら見守っていた。

 祖父母をのぞいて、他人(ひと)にいれたのははじめてだ。まして相手は、紅茶に関しては素人でも客相手に飲食を提供しているプロだ。

 こくり、と上下する喉元をつい凝視してしまう。

「……申しわけないことをしたな」

 ソーサーにカップを戻したマスターが呟くのに、息を呑む。

 おいしくなかっただろうか、と真桜は持ったままだったポットの取っ手を強く握り締めた。

 マスターは嘆息しながら、ソーサーを調理台へと戻した。

 カチャリ、と無機質な音が静かな店内にやけに大きく響く。

「この紅茶はこんな味だったんだな。これまでの客に申しわけないことをしてきた」

「! それって」

 おいしかった、ということでいいのだろうか。

 認められたような嬉しさ半分、戸惑い半分で立ちつくす真桜を尻目に、マスターはくるりと背をむけると奥の厨房へ入っていく。

「ちょっ、あの、」

「ちょうどいい。人手がほしいと思ってところだ」

 しかし、待つほどもなく戻ってきたマスターが、かちり、と調理台の上になにかを置く。

 つられて彼の手元を見下ろした真桜は、一層困惑を深くした。

 そこには一本の鍵が置かれていた。

「仕事も家もなくなるんだろう? なら、オレが雇ってやる」

「え!?」

 思いがけないマスターの提案に、つい前のめりになる。

「『嫁』として、な」

 だが次の時、なんのてらいもなく続けられたそれに、耳を疑う。

「……あの、今、なんて」

「嫁として雇ってやるって言ったんだ」

 聞き間違いようもなく繰り返された科白に、真桜は大きな目をさらに零れおちんばかりに見開いた。

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