一、 崖っぷち小倉トースト
『よくやっていてくれたから、こちらとしても残念なんだけれど……』
頑張っていたらいつかは、と思っていた
『申しわけないけれど、そういうことだから……』
そんな時にかぎって、思ってもいなかった不運に見舞われて
『今度、とり壊すことになったのよ』
さらに悪いことは重なるもので
『言われたとおりにしてればいいんだ』
平穏はたやすく手の中から、零れおちていく――
くすんだ白い壁に、格子の出窓。
エッチングガラスがはめこまれたアーチ型の木のドアの取っ手には、『OPEN』の木札がひっかかっている。
店の表にかけられた、元はチョコレート色だったのだろうキャンパス地の庇には、白抜きで『喫茶 ロマン』の文字が浮かびあがっていた。
いかにも昭和の喫茶店というたたずまいだ。
しかし、名(めい)駅(えき)――地元の人間はまず名古屋駅とは言わない――から遠くなく、高層ビルが建ち並ぶ都会のど真ん中でありながらも、古の面影を今に残し、江戸から平成までの時が混在しているようなこの一画には、違和感なく馴染んでいる。
都心環状線がすぐ傍を走っているとは思えないほど静かな風景に、ひっそりと溶けこんでいた。
そんな一見の客なら入るのを躊躇ってしまいそうな店のドアを、ご多分に漏れず離れたところからうかがっていた真桜(まお)は、意を決したように息を吸いこんだ。
数歩の距離をゆっくりと縮めると、ドアの取っ手に手をかける。力をこめて、ひき開けた。
カロン、と高く、けれどどこか鈍いドアベルの音が真桜を迎えいれる。
瞬間、「わぁ……」と小さく声を零していた。
窓が大きくとられていない店内はけっして明るくはなかったが、その薄暗さを壁や天井にあるランプのオレンジ色の光がしっとりと包みこんでいた。
外壁同様くすんだ白い壁に、チョコレート色に光るテーブルとカウンター、とろりとしたワイン色の布張りのソファ。背の高いスツールの座面も赤色だ。
静かな店内により添うように流れるジャズが、耳に心地よく響く。
表のたたずまいに違わぬ店内は、染みついた珈琲の香りもあいまって、まるで琥珀の中で時を止めてしまったかのようだ。
身を包みこんだ柔らかな琥珀色の空気に、真桜は不思議な懐かしさを覚えた。
「いらっしゃいませ」
そこへカウンターのむこうからかけられた声があった。
はたとそちらへ目をやれば、穏やかな笑顔に迎えられる。白いシャツに黒のエプロンをかけた、三十前後の男性だ。彼がこの店のマスターなのだろう。
くっきりした目鼻立ちは一見きつく見えそうだが、柔らかにさがった目尻が印象を優しいものにしていた。
「お好きな席へどうぞ」
ほっとするような声と笑顔に促され、自然とこわばっていた肩から力が抜ける。
真桜は会釈を返すと、ぐるりとあたりを見回した。店内に人影はなく、どうやら客は自分一人のようだ。
土曜日の夕方にこの人の入りで大丈夫なのだろうか、などと余計な心配をしつつ、細長い逆コの字型をしたカウンターの奥へとむかう。
着ていたコートを脱ぐと、端の席に遠慮がちに腰かけた。
はじめの店で一人となると、どうも緊張してしまう。
隣の席へ鞄とコートを置かせてもらって、ひとまずおちついたところで、
「注文がお決まりでしたら、お声がけください」
ことり、とカウンターに水の入った飴色のグラスとおしぼりがだされる。こういう客に慣れているのか、マスターは微笑むと待つでもなく元の場所へ戻っていく。
そのタイミングや対応にこっそり感心しつつ、真桜はたてられていたメニューを手にとった。
ブレンド、アメリカン、カフェオレにココアといった定番から、レモンエードやクリームソーダなど今時のカフェメニューではお目にかからない、喫茶店らしいものまである。
ざっと眺めていた視線が、あれ? と一点で留まる。
そこにあるのは『紅茶』というなんの変哲もない文字だったが――『ただしティーパック』と但し書きがついていた。
「あの、この紅茶って……」
顔をあげてマスターの方をうかがえば、ああ、とわずかに眉がさげられた。
「先代のころはティーポットでおだししてたんですが、私がいれるとどうしても飲めない代物になってしまって……しかたがなく、ティーパックでのご提供に」
「――そう、なんですか」
飲めない代物とは、どんな味なのか。どうやっていれたら、そうなるのか。
つっこみたいことは色々あったが、申しわけなさそうな顔を見ていると頷くしかない。
紅茶は好きだが、店でお金を払ってティーパックで飲みたいとは思わない。普通にティーパックだろう味の紅茶がでてくる店があることを思えば、断りがあるだけ良心的だ。
「じゃあ、ブレンドを……日替わりケーキと」
すこしだけ迷って、つけ足す。
今の自分の身の上を考えたら贅沢だったが、今日ぐらいは、と景気づけに頼む。
「かしこまりました」
受けた注文に、マスターが慣れた手つきでカウンターに並んだ理科の実験道具のようなガラス器具に湯を注ぐ。
今時珍しいサイフォン式の珈琲だ。
いつもの真桜なら、興味津々見入っていただろう。
だが今日の彼女には、違う目的があった。
真桜は不織布の味気ないものとは違う、あたたかいおしぼりの袋を破りながら、うかがうようにあたりに首を巡らせた。
カウンターとテーブル席をあわせても二十五人も座ればいっぱいになってしまうような、こじんまりとした店だ。カウンターの奥、マスターの背後にある木棚には、柄も形も違う様々なカップとソーサーが並べられている。
それを横目に、真桜は店唯一の窓である出窓へ視線をむけた。
「…………いない」
見えない姿に、もしかしたら、とテーブルやソファ越しに床にもじっと目を凝らし――落胆の呟きがおちる。
「猫さまですか?」
カウンター越しにかかった静かな声に、真桜ははっと顔を戻した。
「さっきまではいたんですけどね。気まぐれですから、彼女は」
「そう、なんですか……」
マスターの言葉に、つい溜息がおちる。
気まぐれな猫がいない。
ただそれだけのことなのに、運にまで見放されたような気分になる。
「残念でしたね」とかけられた慰めに、真桜は居たたまれなさを覚えて身を竦めた。
噂にすがるような気持ちでここまで足を運んだが、これでは流行りもの見たさと思われてもしかたない。
「……すみません」
「いいんですよ。最近は彼女目当ての方も多いですし、なんといっても彼女はうちの招き猫ですからね」
こうしてお客さんを呼んでくれます、という言葉とともに、香ばしい珈琲の香りが鼻先をくすぐった。
かちゃり、と珈琲カップが目の前に置かれ、続いてケーキが並べられる。
「お待たせしました。ブレンドと日替わりケーキになります」
「砂糖はお好みでどうぞ」と示されたシュガーポットも最近お目にかからなければ、一緒に置かれたピーナッツの小袋の入った小皿もいかにも『喫茶店』という感じだ。
真桜はマスターに軽く頭をさげると、手にしたままだったおしぼりを戻した。
香りたつ珈琲も、いちごがちょこんとのったショートケーキも、見るからに美味しそうだ。
いつもなら胸が弾むその光景にも、しかし心は陰ったままだった。
真桜はふっと息をつくと、珈琲へと手を伸ばした。柔らかな湯気とともにたちのぼる香りを聞きながら、一口。
「――おいし」
やや苦みのきいた濃いめの味だ。ただ酸味のバランスがいいのか、後味はすっきりしている。
普段、紅茶を好んで飲む真桜にも飲みやすい。
これならミルクをいれなくても大丈夫そうだ、とカップを戻すと、今度はケーキ皿に添えられたフォークを手にとった。
尖った先の部分にフォークをいれれば、ぐっと手応えがある。最近主流のふわふわのスポンジよりもしっかりした生地のようだ。
切りとったひとかけを口に運ぶ。
まず感じたのは、濃厚な生クリームだった。濃いコクと風味が、きめの細かいスポンジとよくあっている。しっかりと甘いが、間に挟まれたいちごの酸味がいいアクセントになっていた。
店の雰囲気同様、どこか懐かしく、ほっとできる美味しさに、緩く口元が綻ぶ。
こんな時でなかったらきっともっと美味しく感じられただろう。
それを残念に思いつつ、溜息の代わりにもう一口ケーキを口にする。
「――お口にあいませんでしたか?」
「え?」
そこへかけられた言葉に、真桜は顔をあげた。形のいい眉をよせたマスターと目があう。
「! いえっ、そんなこと! とっても美味しいです」
慌てて頭を振る。
目の前で沈んだ顔でケーキを食べていたら、気にならないはずがない。
「違うんです。ちょっと、色々あって……」
珈琲やケーキが美味しくないわけではないという弁解だったのか、はたまた包みこむような店の雰囲気につられたのかはさだかではなかったが、気づいた時には真桜はそれを声にだしていた。
「わたし、大学の図書館で司書をやってて」
「司書さんですか」
マスターがわずかに目を瞠る。
もしかしたら、学生だとでも思われていたのかもしれない。
小柄な体型とおさまりの悪い猫っ毛に大きな目が、実年齢よりだいぶ年を下に見せているのは、密かなコンプレックスでもあった。
「といっても、正規職員じゃなくて派遣なんですけど」
それでも突然の身の上話に嫌な顔をしないマスターに勢いを得て、真桜は溜まっていたものを吐きだすように言葉を続けた。
「司書になりたくて奨学金で短大いって資格とって……けど、そもそもそんな枠がある職業じゃないんです。最初は市内の図書館に臨時職員で、その契約が切れてからは派遣でなんとか職を得て」
頑張って認められる働きができたら、正規として雇ってもらえるのではないか。
そう思うことでここまでやってきた、のだが――
「あえなく、三年で契約打ち切り。所謂、派遣切りです」
「あぁ、法が改正されてから多いと聞きますね」
「はい。それだけだったらまだ、よかったんですけど」
真桜は自嘲気味に口元を笑みに歪めた。
「この間、アパートで小火騒ぎがあって」
ぎょっとしたマスターに、いえ、と手を振った。
「幸い怪我人もなく、わたしの部屋もなんともなかったんです。ただ、なにぶん古いアパートで……この際、とり壊して建て直すから退去してほしいと言われてしまって」
おかげで、職も住むところもいっぺんに失うことになってしまった。
アパートの方は今すぐというわけではないが、半年以内にはでていかなくてはいけない。
古い分、家賃も安かった今のアパートと同程度の物件を見つけるのは、なかなか簡単ではなかった。
かといって、家賃の安い中心部から離れた地域に引っ越すと、勤務地の選択肢も狭まってしまう。下手をすると交通費の方が高くつきかねない。
おまけに保証人をどうするかという問題がある。保証人の代わりに保証会社を利用する賃貸もあるが、どうしても割高になってしまう。
さらに、プライベートでもやっかいな問題が持ちあがり、気分はおちこむ一方、八方塞がりの状態だった。
「だから、出会えたらいいことがあるっていう猫さまに会うことができたら、すこしはいい方へむかうかなって思ったんですけど」
うまくはいかないものですね、と真桜は空笑い浮かべる。――が、それも続かず、伏せるようにして目をそらした。
視線の先に、鞄につけた古い鍵が映る。
真桜はなんの変哲もないその鍵へと手を伸ばした。握りこみ、くすんだざらりとした表面をなぞる。
「――ここまで頑張ってきたけど」
アパートのことがなければ、このまま派遣で機会を待っただろう。
しかし、派遣で司書を続けても、収入があがる見込みも、正規職員になれる可能性も低い。奨学金の返済がある以上、いつ切られるかもわからない不安定さは金銭面からも不安があった。
公務員になって公立図書館に配属されるのを待つ、という手もあるにはあるが、公務員試験にとおるのは言うほど簡単ではない。仮に試験にとおって採用されたとしても、配属される保証があるわけではないのだ。
「なにもかもいっぺんに失ったら、頑張ってきた意味がなんなのかわかんなくなっちゃって」
なのに、奨学金という重荷だけは残っている。
仮にこのまま派遣を続け、三年後また同じことになったら、もう三十目前だ。
だとしたら――
「――このあたりで、区切りをつけた方がいいのかな」
「区切り、ですか」
「まだ若いうちに、違う道を考えた方がいいかなって。幸い、今は人手不足で売り手市場だって話ですから、司書にこだわらなかったら正社員の職もあると思うので」
手元から顔をあげ、力なく笑った真桜は、
「そうですね」
迷いなく返された頷きに固まった。
「え……?」
「それもひとつの道だと思いますよ。頑張ったら報われるとは、かぎりませんから」
淡々と続けられた言葉に、すっと胸が冷える。
真桜はこわばった表情を隠すように、さっと顔を伏せた。
わたし……と無意識に力をこめた掌に、鍵がきつく食いこんだ。
期待、していたのだ。
このケーキを作る人なら、きっと励ますような言葉をかけてくれると、無意識のうちに思っていた。
だから、話したのだ。沈んだ心に、優しい言葉が欲しくて。
「……です、ね」
はは、と乾いた笑い混じりに呟くと、真桜は鍵を握り締めていた手を解いてフォークをとった。
食べかけだったケーキに突き刺し、さきほどとは違って大きくすくいとる。それを半ば無理矢理口に押しこんだ。
ショックだった。
マスターのそっけない言葉もだが、なにより勝手に期待して、勝手に傷ついている自分が恥ずかしかった。
やるせない思いを飲みくだすように、ろくに噛まないまま呑みこむ。続けざまにフォークを口へと運ぶ。
味などろくにわからない。
ただ一刻も早くここからたち去りたい一心で、真桜はケーキを食べた。
最後に、口の中のものを押し流すように、まだ熱さの残る珈琲をひと息に飲み干す。
「ごちそうさまでした!」
鞄から財布をとりだして千円札を一枚ひき抜くと、立ちあがりざまにカウンターへ滑らせた。
「おつりは結構ですから」
「お――」
真桜は鞄とコートをひっつかむと、あがりかけた声も無視して逃げるように店をあとにした。
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