51 狼の咆哮に悪魔は謳う *

 がぽり、と闇を孕んだ口腔が一層大きく開かれた。

 顎関節が外れているだろう大口から上がったのは先程とまったく同じ凄絶な裂帛の祝詞。


――――タスケテ!


 脳天を貫く祈りは風の塊となってオオカミへと暴力的に放たれた。


「オオカミ殿!」


 切羽詰まった桃太郎の金切り声。

 桃太郎の警告にオオカミが素早く反応。相手に飛び掛かっていたオオカミは伸ばしていた右腕を引っ込めた。が、間に合わない。

 腕を引き切る前に風の塊がオオカミの指先を潰した。

 五本の指がそれぞれ関節を無視して別方向に折れ曲り、砕けた骨の先端が生肉と皮膚を突き破る。剥がれた小指の爪と血が舞う。

 風に押し負けてオオカミの右腕が上に弾かれると、彼女の肩関節から嫌に鈍い濁音が響いた。オオカミ自身も後方に、上空に飛ばされる。


「ク、ソが……!」


 悪態をつきながらもオオカミは足掻く。


「嘘でもなく……ッ、ジンを返せ!」


 暴風の余韻に嬲られながらも空中で赤い身を捻った。

 悪魔憑きとの距離が広がってしまったオオカミの姿をアリスが白銀の視界に映していると周辺の空間が歪む。

 くる! と勘付いたアリスは見開いている瞳を一層刮目し、懐中時計を強く握った。


「戻りなさい!」


 餌にありつくように、オオカミの周りに出現した複数の竜巻を瞬く間にアリスは掻き消す。

 一瞬だけ竜巻によって姿を眩ませられていた赤い姿をアリスが再度捉えた時、オオカミは痛みに怯むことも暴風に臆することもなく凛然と虚空で猟銃を構えていた。

 獣は荒々しく昂ぶったまま。


「返せッ!」


 不安定な体勢だが的確に狙いを定め、引き金を引く。一線の尖った風は悪魔憑きの二発目の攻撃を相殺した。

 一匹と、一人と言うべきか一羽と言うべきか曖昧な悪魔憑きの間で空気の爆発が起こる。

 爆音に外套を荒ぶらせながらもオオカミは空中で狙いを付け直して追撃に備える。


「タスケテ……」


 今度の祈りは一滴の雫のように静かに落とされた。

 か細い祈りはざわめいた羽音に喰われる。

 ひしめく翼が一斉に逆立って、膨張。開花する花に押し潰されるように再び背を逸らした悪魔憑き。

 肥大化した羽根の一枚一枚を矢として飛ばしてきた。

 飛来する羽根の雨。オオカミが反射的に猟銃の銃身を横にして顔を庇った。


「ぐ……ッ!」


 大量の翼が空中に投げ出されているオオカミの無防備な体躯に傷をつける。ある羽根はナイフとなって肉を裂き、ある羽根は弾丸となって肉を貫通し、ある羽根は銃身に突き刺さり――――そして「オオカミ!」

 領主の険しい声。ほぼ同時に、風の塊がオオカミを押し潰すために再び撃ち込まれた。

 翼の雨を巻き込みながら突風の塊がオオカミの身体に衝突。防御体勢ではあったものの、空中で真正面から鉄球以上に重く鋭利な風の塊を受けたオオカミの体躯は砕けた猟銃の残骸とともに吹き飛ぶ。


「オオカミ!」


 乱雑に飛ばされたオオカミの身体をすかさず捕まえたのは飛び出した領主。

 巨猫は無数の穴が開いた赤外套を咥え、地上へと着地すると止まらずに地を蹴った。

 悪魔憑き、つまりはジンのランプに背を向けて領主は走る。

 領主の判断は正しかった。

 耳障りな羽音がばたつく。次いで、音が止むと刹那の静寂。後、羽根の暴雨が領主目掛けて射撃された。

 反響したのは肉が貫かれる音ではなく脳髄を揺らす金属音。


「そのまま下がるでござる!」

「何歩でも下がるよ!」


 領主と悪魔憑きの間に立ち塞がった桃太郎が吠える。羽根の弾丸をすべて居合抜きの風圧のみで相殺した桃太郎の顔がアリスに向いた。

 なにもかもが瞬く間の出来事で、領主や桃太郎とは異なり一歩も動けず呆然としているアリス。

 一人遠く離れた位置で佇むアリスに向かって桃太郎の口がはっきりと動かされた。

「猫殿を!」と伝えられた短い指示。

 それは竜巻への時間干渉をやめて自分自身に物質透過を使えという意味。

 アリスは同時に複数の力を行使することはできない。いま自分に物質透過の力を使えば竜巻を消すことはできなくなる。

 竜巻から桃太郎達を守ることよりも自分を守ることを優先しろとの指示。


「ですが!」


 アリスが不安げに反発した時、祈りの絶叫が大気を戦慄かせた。

 アリスの声は狂風に殺される。

 地響き。地獄の扉が破られたような轟音。濃くなる臭い。錆とオイルと、血と膏と死臭。

 残骸を纏った黒々とした竜巻が荒れ狂う。

 先程までとは比べ物にならない竜巻の数と大きさ。まるで黒龍。


「桃太郎お兄さまッ……!」


 黒龍に飲み込まれた仲間の姿。

 白銀の瞳が動揺に揺れ、アリスは悲鳴をあげた。


「だめっ! だめよ!」


 アリスの甲高い拒絶とともに懐中時計の針が逆回転。

 荒ぶる黒龍達は跡形もなく霧散し、腹の中から見慣れた姿が現れた。

 アリスが胸を撫で下ろした瞬間「アリスッ!」と、聞き慣れた彼の声に聞き慣れない取り乱した抑揚で叫ばれた。それが警報だとすぐには気が付けず、だからこそアリスは自分の真後ろに出現した竜巻に対しての反応が遅れた。


「!?」


 アリスの時間干渉は指定した空間内の時間をまとめて操作する方法と、単体に作用する方法がある。時計の墓場であるここには時間がなく、ゆえに空間を指定することができないアリスは発生する竜巻単体の時間を操作していた。この方法は発生した竜巻をアリス本人が認識してからでないと干渉ができず、こうして死角から襲われてはアリスはすぐに対応できなかった。

 振り返った時には黒龍の爪先がアリスの短い前髪を撫でた。身が竦む暇もない。風圧で激しくはためいた純白の毛先が巻き上げられる高熱を含んだ残骸に噛み千切られる様を瞠目したアリスの瞳が映す。

 世界から音が失われ、ゆっくりに見えた。

 荒ぶる残骸のひとつひとつをはっきりと確認できるほど、世界が静かに動く。

 残骸が華奢な白い姿を飲み込む直前、一歩先に大きな腕がアリスをさらった。


「――――触るなッ!」


 敵意の込められた呪詛。

 濁りのない殺意がそのまま刀身に乗せられて、凄まじい速度で振られた。

 見えない斬撃。

 アリスを飲み込もうとしていた竜巻が強制的に散らされる。悪足掻きとばかりに鋭利な残骸が撒き散らされるが、アリスが目を瞑るよりも早く、それらはアリスの全身を包んだ陣羽織に弾かれて少女の白い柔肌には一欠片だって届かなかった。


「怪我は?」


 生地が覆い被さったままで相手の顔は見えない。

 それでもいつもよりも呼吸が乱れた硬い口調を耳にして、アリスの脳裏には彼の顔がすぐに浮かんだ。焦りと緊張に奥歯を噛み締めて、本気で心配してくれている英雄にアリスは「ごめんなさい」と抱き付いた。

 言うことを聞いて物質透過を使っていれば桃太郎がアリスの元に駆け付けることはなかった。アリスを庇うために腕を伸ばして、巻き上げられた竜巻の残骸に前腕部の肉を抉られることもなかった。


「ごめんなさい……っ」


 桃太郎から漂う濃い血の臭いに心を炙られ、アリスは強く後悔する。

 ただの夢見る少女が出しゃばるものではなかった。言われたことをこなすべきだったと悔しくて悲しくて、怪我もしていないのに全身が痛くなった。


「良し!」


 鍔鳴り。竜巻を消した彼の愛刀がしまわれる気配。

 アリスの潤む視界に光が射した。重力が変わり、靴底が浮く。あっという間に桃太郎に抱き上げられて訳も分からぬまま至近距離に現れた彼の笑顔にアリスは固まった。

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