52 強き英雄を想う者
「怪我無くば上々!」
桃太郎の右腕にお人形のように抱かれたアリスは太陽よりもずっと眩しい満面の笑みを呆然と歪む目で見詰め返す。
ぼうっとしていると額を額で叩かれた。勿論まったく痛くはないが、衝撃で目の縁に溜まっていた涙が小川となってアリスの頬を滑った。
「桃太郎お兄さま。……わたし達、余計なことを」「アリス殿」
アリスの弱々しい言葉が遮られる。
「まだでござる。今一度、兎殿の時計を」
桃太郎が地を蹴った。たった一蹴りで大きく後退。
遅れて二人がいた場所に真下から槍のような突風が突き上がってきた。風は錆びながらも鋭さを有する残骸を拾い上げて凶悪な渦を巻き、新たな竜巻を発生させる。
「誰かを助けようとすることは余計なことではござらぬよ」
桃太郎が着地した瞬間、左右に別の竜巻が出現。
轟々と近付いてくる三匹の黒い龍にアリスは桃太郎の肩を強く掴んだ。反して桃太郎はさして焦った様子もなくアリスへ微笑む。
「其の御心、某は嬉しく思う。某を、本当に心配してくださるのはアリス殿ぐらいでござる。実際に、先程は些か危なかったでござる。某一人ならまだしも二匹を庇いながらとなればあの量と増した勢いは厳しく……最悪腕だけでなく肋の二、三本もくれてやる気だったわ!」
呵々! と桃太郎は大口を開けて笑った。
アリスは下げていた眉をつり上げた。
英雄は強い。
誰よりも強い。
こんな竜巻などそよ風と変わらない。
あの程度の傷は擦り傷と変わらない。
そんな英雄に労いの言葉は掛けられても本当の意味で身を案じる言葉がおくられることは少なく、またなによりも強い英雄を本気で助けようとする者はいない。
桃太郎はそれで良いと言うがアリスにとってはそうではない。
「そんなの当たり前ですわ……」
英雄は強い。
誰よりも強い。
こんな竜巻などそよ風と変わらない。
あの程度の傷は擦り傷と変わらない。
アリスも英雄として桃太郎を信じてはいる。
だからといって、それが彼を心配しなくても良い理由にはならない。
「心配して、当たり前なのです……!」
錆びた風音に引っ張られてアリスの胸に強い想いが湧き出す。
「桃太郎お兄さまは強すぎです。強くて、強いけれど、でもだからって……心配してはいけないの? わたし達は、本当に、こわくて……っ」
「申し訳ない」
「だから、わたし達……!」
「うむ。有り難う」
アリスは頭を横に振った。言いたいことがぐちゃぐちゃになる。様々は想いと不安が溢れて黒い竜巻のように渦巻いた。
「桃太郎お兄さまだけが、心配していると思わないでくださいまし。無茶は、しないでください……」
素直に謝れば良いだけだと分かっているのに、余計な言葉が口をついた。
なんて我儘で酷い子供だろうとアリスは自分の頬を叩きたくなった。
「しかし」
アリスが自分の頬を叩く前に、桃太郎が言う。
「アリス殿が心より心配してくださるが故に、某は無茶が出来るでござる」
だらしなく頬を緩めて笑う英雄にアリスは涙を拭って、緩んだ彼の頬を叩いた。
ぺちりと。小さな手が桃太郎の頬を包んで「めっ!」と一喝。
英雄から溢れたのは豪快な笑い声。
笑い声が鼓膜に浸透するとアリスはミントティーでも飲んだ後みたいに胸がスーッとした。
「桃太郎お兄さまはいつもわたし達の欲しい言葉をくださるのね」
「否。逆でござるよ」
「嘘だわ」
「呵呵呵々!」
嬉々とした笑顔を飲み込もうと邪悪な風が距離を詰めてくる。
「アリス殿」
桃太郎が大袈裟に首を傾げた。
「某を、守って頂けるか?」
アリスは目を輝かせ「お任せください!」と頷くと落ちた肩紐も直さずに懐中時計を媒体に竜巻の時間を操った。
このような少女の必死の行動が、心配して当たり前だと主張する少女の想いが、戦友はいても友人と呼べる者は少ない英雄の心をどれほど癒しているのかをアリス本人は理解していない。
「一気に抜けるでござる。舌を噛まぬようお気を付けを」
「はい!」
竜巻が消えると桃太郎は飛躍する。
明確な足取りで進む桃太郎の邪魔をさせないようアリスは気を配り、懐中時計を持つ手に力を込めた。
桃太郎は三月兎よりも高く飛び、チェシャ猫よりも速く駆けて場所を移動した。二人は他の二匹と合流。
「嘘でもなく! なんだあれ!」
魚の骨のような歯車の陰でオオカミが怒鳴り声を上げていた。目を三角に尖らせ、葉巻色の髪を逆立てながら彼女は逆方向に曲がった右の指を一本ずつ鷲掴み、元の方向に折り曲げる。捲れた皮と裂けた肉でささくれ立った傷口から赤黒い血が飛んだ。気にせずにオオカミは指を戻していく。無論、傷自体は治ってはいないので青白い指は取り敢えずそれらしい形に整えられただけで腥い鮮血は絶えず溢れ、千切れた肉と肉の隙間から組織液にぬらりと輝く白い骨が覗く。指の長さはバラバラで、明らかに本人の意思とは裏腹に何本かの指が痙攣していた。
「あの野郎! 嘘でもなくジンの力が上乗せされてやがる! 嘘でもなく! 嘘でもなく、あと少しで届いたのに!」
照り付ける太陽以上に顔を真っ赤にして唾を飛ばすオオカミ。
彼女は激しい憤怒に飲み込まれていた。オオカミが地団駄を踏む度に赤外套が跳ね、その様子はまさに炎が爆ぜるよう。いまにも彼女自身が発火してしまいそうだ。
焦燥に荒ぶるオオカミを巨大な体躯で後ろから包み込むかたちで座っている領主が面倒そうに尻尾を振った。
「三歩進むくらいに威力が格段に上がってたよ。それにあいつ、五歩進んでもあんな姿じゃなかったよ? あっ、この場合は下がる?」
「どっちでもいい!」
オオカミが犬歯を噛み締める。
いまにも歯が欠けそうな力で、きつくきつく噛み締める。
「他人の力を借りて我が物顔で好き勝手しやがって……! 嘘でもなく、そういう奴は大っ嫌いだ!」
憎悪が、嫌悪が、殺気が、膨らむ。
領主が「暑いよー」と場違いではないが空気は読んでいない台詞を吐きながら頭巾が外れたオオカミの頭に自分の帽子を乗せた。さり気なく尻尾をオオカミの両足に絡めている。二匹は長らくここでジン奪還のために共闘をしてきた。どうやらその間に領主は憤怒の炎で熱くなったオオカミの冷まし方を覚えたらしい。あまり良い態度には見えないが、二匹には二匹なりのやり取りがあるのだろうとアリスは見守る。
「……他者の力を借りねば出来ぬ事もあろう」
不意に、桃太郎が小虫の羽音よりもか細く囁いた。それは耳を突くやまない風音に掻き消される。
抱きかかえられていたアリスですら聞き取りきれず視線を桃太郎に向けて聞き返そうとした時。「アリス殿」と、訊ねる前に声を掛けられた。
「先程は助かったでござる」
「いいえ。桃太郎お兄さまのお陰ですわ。本当に、なにもかも……」
「某の役目でござる。当たり前でござろう。ただ、お願いが」
「まあ! なんでしょうか!」
「これを治して頂いてよろしいか?」
「まああああ!」
桃太郎からのお願い事にアリスは花を咲かせた。が、掲げられた赤黒い木炭じみた左腕に笑顔という花を瞬く間に枯らせた。心配のあまり手が伸びたが、汚れると言わんばかりに桃太郎の左腕はアリスの手を避ける。振られた彼の手から赤い雫が滴ってアリスは急いで右手に掴む懐中時計を動かした。
なにもいなかった文字盤に針が現れ、高速で逆回転。
逆方向に回っていた短針と長針が時計のてっぺんで重なると、血に染まっていた桃太郎の腕が綺麗さっぱり元通りになる。砕かれていた籠手は傷ひとつなく、包まれる腕は引き締まっていて開閉を繰り返す指の動作に不自然なところはない。
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