42 奇劇の狂気は英雄すら喰らう
● ● ●
桃太郎は、らしくもなく硬直する。
五百を超える鬼の群勢を前にしても、千を超える月の使者を前にしても、万を超える屍人の群れを前にしても、身を竦ませることも驚愕することもなく背筋を伸ばして仁王立っていた桃太郎が指一本動かせない状態に陥った。
「………………」
それこそ、呼吸すら忘れるほど。
「………………」
異常な光景だった。
桃太郎にとって、地獄と言っても差し支えなかった。
「………………」
優雅なバレリーナの格好をしたベビーピンクの象が鼻から蜂蜜を吹き出し、噴水のように溢れる蜂蜜の上では黄色と白の水玉模様の豚が豪快なサーフィンを披露している。
周りでは硝子で出来た巨大な金魚が透明な腹の中で色とりどりの飴玉を奏でながら虚空を泳いでいた。
他にも、真っ赤なハイヒールを履いた人間の脚を持つ頭胸部が花束になっている女郎蜘蛛がラッパを吹く天使彫像と鍵盤の歯を弾く膨よかな男と多種の楽器を手にした百足の奏でる愉快な音色に合わせて踊っていたり、身体は人間で頭はレアチーズケーキでできた存在が純金のナイフとフォークでジャグリングをしている。
勝手に動く豆電球が入った長靴。何度も歯を噛み鳴らす黄ばんだ入れ歯。熱い口付けを交わし、そのまま喰らい合う仮面達。ジャムの入った瓶が中身を撒き散らしながら飛び跳ね、小さなぬいぐるみ達が楽しそうにお互いを刺し合っては腹から金貨を零してはしゃぐ。その金貨に無数の古本が群がり、金貨をページの中に挟み始めた。
――――なんだ、これは……
と、疑問を口に出す余裕すらない。
冷や汗が背筋を流れる。
「………………」
異質な光景に見開いた眼球が嫌でも釘付けにされ、思考が飲み込まれる。
頭のないピエロが陽気なステップで色鮮やかな紙吹雪を撒き散らす。紙吹雪に混ざって顔の描かれた風船がそこらに浮遊し笑い声を上げている。
ケタケタ。ケラケラ。
風船が笑う。
ゲラゲラ。ケタケタ。ゲラゲラ。ゲラゲラ。ケタケタ。
ゲラゲラ。ゲラゲラ。ケラケラ。ケタケタケタケタ。ゲラゲラゲラゲラ。ケラケラ。ケタケタゲラゲラケラケラケラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラケタケタゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラケタケタケラケラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラケタケタケラケラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ…………キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ――――!
異口同音の嗤い声が脳髄に直接捻じ込まれてくる。
「……っ」
耐え切れずに桃太郎は膝をついた。咄嗟に歯を食いしばり、血の気が引く身体に力を込める。
ウッドペッカーと二人だけで行動した際、世間話のひとつとして
ただ
慢心だと後悔する。
精神汚染とはこういう意味かと痛感した。
頭蓋の内側で反響する哄笑は精神を喰い漁るおぞましい呪詛。
桃太郎ですら気を抜くと意識を持っていかれそうになるのだから、一般人ではひとたまりも無いだろう。
「……ぐ……っ!」
眩暈と吐き気。
大音量で奏でられる明る過ぎる音楽と陽気すぎる嗤い声が三半規管を乱暴に揺さぶる。
不気味で歪で異常な光景は桃太郎の屈強な精神に無理矢理入り込み、心を蝕んだ。
先程までここは森だったはず。
森の中にいたはずだった。なのに突然、例えならばムリエル支部内で乗った昇降機が目的の階につく瞬間の、一瞬だけ与えられる腑に響く浮遊感に似た感覚に襲われて平衡感覚が揺らされた後、この異常な空間に放り込まれた。
木々が消え、うっすらと生温い霧が立ち込める空間は上下左右が仄暗く、地面と空の境界がない。広々とした空間で異形達の行進と遊戯が繰り返される。
過去に敵対した百鬼夜行のほうがましだと思った。なぜならあれらには明確な存在感があった。そこに居るという、居たいという意思を感じた。
なのに、ここにいるこれらからは一切の存在感や意思という生気が感じられない。
ただいるだけ。
否、あるだけ。
おかしい。余りにもおかしい。
だが、なにがおかしいのか明確には分からない。思考がぶれる。
「……っ」
恐怖という感情を、桃太郎は久しぶりに経験した。
脂汗を浮かべ、動けなくなり、奥歯が噛み合わなくなっている自分を腹の中で嘲笑う。
息を殺す。周囲の異形から隠れるように息を殺し――――ふ、と。
思った。
自分とともにいた少女は?
すべてを嚥下する肥大化した夜闇にすら怯える小さな女の子には、この光景はあまりにも壮絶だろう。
ただでさえ引いていた血の気がより一層に引いた。冷えきった四肢とは裏腹にかっと身体の中心は熱くなり、石になっていた手をきつく握り締める。途端「きゃあ!」と聞き慣れた声が桃太郎の耳朶を殴った。
小鳥のさえずりのような声が、いつもとは違う甲高さを発する。
考えるより先に桃太郎の意識が声のほうへ向く。頭に差す一寸法師の打ち出の小槌で縮めた刀に手を伸ばし「!」
桃太郎は再び固まった。
生唾を飲み込む。
「いや! いやだわ! こんな……こんな、ふ、ふふ……あははははははっ!」
子供特有の甲高い笑い声が世界を揺らす。
眼球を刺激してくる暴力的なまでの色鮮やかな異常な空間で、真っ白な姿は異常なほど映えていた。
月光を反射する新雪を思わせる長い白銀の髪は波打つ度に美味しそうな甘いお菓子の香りを放つ。銀糸の睫毛が包み込む真珠の眼球に、陶器の如く滑らかで白い柔肌と薔薇色の頬。ぷっくりとした熟れた柘榴の唇から溢れるのは小鳥のさえずりと紛う愛らしい声音。
誰もが好む可愛いお人形のような彼女の身を包むのは、ショートケーキのスポンジよりもふわふわのフリルと可憐で繊細な薔薇の刺繍が入ったレースが贅沢にあしらわれたエプロンドレス。
まさにお砂糖とスパイスと素敵なものをこれでもかというほどたっぷりに詰めた風貌の少女は、一身にスポットライトを浴びる舞台女優の如く嫌に目立つ。
「うふふ。やだわあ。困ったわね」
アリスは両手を強く動かしてなにかを潰していた。
「だって、どうして? カビたパンでは飛べないわよ?」
彼女の手の中から零れてくるのはパンの残骸。
「ああ……ああっ! 困ったわねえ!」
アリスはくしゃくしゃに潰したパン屑を花弁でも放るように虚空へ散らした。
笑い声。
楽しげな笑い声。
豪快な高笑いがアリスのものなのか周りの異形のものなのか、感覚が麻痺した桃太郎には判別できない。
「ねえ。ストロベリージャムはどこ? 本当はバターが良いけれど。どちらもないのなら、そうね。……カチカチに固まった油をちょうだい。あれならどうにかなりそうだわ!」
アリスは側にいた女性に強い態度で強請った。
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