43 夢は彼女の所有物と知れ
髪も目も鼻も口もない代わりに顔面の真ん中で皮膚を大量の待ち針で摘まれている頭部を持つ真紅のドレスの女性は機械的な動作で上半身を左右に捻って辺りを見渡す。
壊れた玩具の動きを繰り返す女性をアリスは肩紐を整えながらしばらく眺め続け――――不意に、悪戯に瞳を細めた。
無情に、無慈悲に、残酷に、愛嬌たっぷりのゾッとするほどの無垢な笑みを作る。
「まあまあまあ!」
アリスは彼女が纏う豪奢なフリルが何段にも重なった真紅のスカートを両手で鷲掴むとスカートを思い切り引っ張った。悪戯を通り越した乱暴な行い。
女性のスカートが痛々しく破けて、同時に女性が溶けた。
びぢゃり!
と、アリスに引っ張られてバランスを崩した女性は倒れた瞬間に弾けて真っ赤な水溜りを作る。
水溜りはジャムだった。
ストロベリージャムだった。
甘酸っぱい香りが爆発的に辺りを包む。
突然出来上がった人一人分のジャム溜まりにカビた食パンの羽根を持ったよく分からない奇怪な生物が一斉に群がった。
あっという間にジャムが消える。
代わりにカビた食パンにはたっぷりのストロベリージャムが塗られている。
「まあ大変! お腹を壊してしまうわあ! これだから蝿はいやよ!」
食パンの羽根が重くなって飛べなくなったそれらをアリスが真っ白な靴底で踏み潰し始めた。粘着質な水音が派手に響く。
「あはっ、あはははは!」
目の前で何が起こっているのか桃太郎には認識できなかった。否、したくなかった。
「あははははは!」
それでも本能的な部分が囁く。
「ははははははははははは――――っ!」
彼女がなんであったか。
彼女の物語がどんなものだったか。
彼女はどんな世界の主人公なのか。
桃太郎は思い出した。
彼女はアリス。
不思議の国のアリス。
アリスにとって、呪われた凄絶な惨劇は無邪気な夢の一部。
アリスにとって、この心を蝕む異常な狂気は狂気ではない。
アリスにとって、これはなんてことのない当たり前の光景。
いかれ狂った不思議の住人にとって、これは普通。
無邪気ゆえの狂気。
なんと恐ろしくおぞましい普通だろうか。
「っ……!」
と、不思議の国の強大さに意識を持っていかれていた桃太郎の注意が唐突に逸れる。
なにが起こったのか、頭が回らない。起こったことをありのままに説明すれば、突然目の前に兎が現れた。
気配なく、動きなく、さも当たり前のように無から有が作られて、兎が眼前に現れて、桃太郎のすべての思考を持っていった。
現れた兎はやはり異質の塊。
際どい露出と肌に密着して身体のラインを艶めかしく強調させた性的興奮を煽る革製のボンデージスーツを着用する女体。情欲のそそる体躯に不釣り合いな兎の頭。明らかに被り物ではない生々しい兎の頭部。
ひくひくと血色の良い鼻が動き、大きく息を吸ったかと思うと口からピンク色の煙を吐いた。
「う、っ……!」
煙が桃太郎の顔面を舐める。
臓腑が溶かされると錯覚するほどのあまったるい香り。毒々しいあまみは嗅覚だけではなく全身の毛穴から体内に染み込み、身体を奇異に火照らせた。
眼球の中で花火が打ち上げられている。視界が虹色に瞬き、足元が回る。
「ァソビマショゥ……」
兎が口を開く。
ピンク色の香りがさらに濃く吐き出された。
鼻の粘膜に張り付くあまみは気持ちが悪い。
吐き気がする。気持ちが悪い。なのに気持ちが良い気もする。脳髄で様々な声が反響する。自分がブレていく感覚。そもそも感覚が曖昧になっていく。自我が食い荒らされていく。
ピンクと黒で塗り潰され輝く模様が描かれた長い爪が蛇のように桃太郎の頬をなぞる。振り払う気力すらない。
自分の内側に入ってこようとするナニカに集中して抗っていなければ、桃太郎は自分という存在を保っていられなかった。
「アソビマショゥ」
高い、低い、嗄れた、澄んだ、大人の、子供の壊れた声が異口同音が嫣然としたピンク色の煙とまぐわって桃太郎の顔面に粘っこく絡み付く。
豊満な胸の谷間から赤ん坊の指が這い出している。生気のない蝋色の、蛆と紛う指が蠢く。
たわわな胸部に爪とも言えぬ爪を立て、みちりと指先を肉に埋める。
墓場から出てこようとする亡者の手の動き。
もがく指がギチギチと肉厚な胸を引っ掻いて、その度に兎は唾液を絡めた官能的なピンクの吐息を洩らした。
「――――!」
どこかから、産声が上がった。
耳障りな雑音が濃くなる。誰かが自分の中に入ってこようとしている。
桃太郎は奥歯を噛み締めた。
兎女の手が鉢巻きに触れ、後頭部できつく縛った結び目に指先を絡めた刹那。
「なんて卑しい兎かしら」
まるで閻魔が判決を言い渡すような、重い声音が世界を裂いた。
兎女の手が止まる。
「このわたしの前に現れながら、別の方に関わろうとするなんて……兎とは思えないわ」
兎女の肩が小さく震える。
「なんて、なんて卑しく愚かな兎なのでしょう」
呆れを含んだ溜め息が仄暗い空間に波紋を作ると同時に桃太郎に触れていた腕が、勢い良く離れていく。
強制的に離れさせられたと言っても良い勢いと早さだった。
耳障りな声と暴力的な甘ったるい悪臭が急激に薄れ、桃太郎はいつの間にか深く俯いていた顔を上げた。
兎が舞う。
兎の頭が、舞う。
ごづっ――――!
と、鈍い音を立てて地面の判別が曖昧な黒い地面に落下した兎の頭部が桃太郎の元まで転がってくる。
首の断面から砂金が溢れ、金の筋を作りながらゴロゴロと転がってきて――パン! と、桃太郎の元に辿り着く寸前で白い靴に踏み潰されて弾けた。
「まあ、本当に卑しい兎」
桃太郎の前には、兎がいた。
チョキを着て二足歩行で立つ金の懐中時計を持った白兎が桃太郎の前にいて、兎の肩越しに弾力のあるシュークリームのように純白のフリルが不機嫌に揺れる。
「夢にもなれない残骸のくせに」
こちらを見詰める真っ白な少女の背後ではトランプ兵の大群が奇妙な存在達を追い掛ける。
ハートの女王がヒステリックに叫び、いたるところで首が飛ぶ。ドードー鳥が倒れた女郎蜘蛛に火を点けて、断末魔をあげる赤々とした女郎蜘蛛の周りを複数の動物達が陽気に駆け回る。公爵夫人が天使彫像を怒鳴りつければ天使彫像は子豚の彫像になり、子豚に料理女が胡椒瓶を投げ付けた。クシャミと鳴き声が木霊する。
「桃太郎お兄さまを眠らせるのは、わたし達ですわ」
バレリーナの象はいかれ帽子屋と三月兎に捕まって蜂蜜を吹き出していた鼻に紅茶を注がれると眠り鼠で蓋をされる。鍵盤の歯を弾く男の膨よかな腹が爆発して中からハンプティ・ダンプティが現れた。多種の楽器を手にした百足は薔薇に覆われ、笑う風船はチェシャ猫の爪にひとつ残らず割られていく。
不思議の国の住人達が好き勝手に辺りを壊していけばいくほど、桃太郎の混濁していた意識が一本に集結し、自分で自分を明確に認識し直せた。
「わたし達の国に招待したいとは思っていましたが、こういう形で招待することになるなんて……」
頬に手を当て、アリスは困ったように溜め息を落とす。
少女の白い姿が歪む。黒い髪が揺れ、エプロンドレスが青になったり黄色になったり変化する。
白昼夢の如く姿が霞み変化するアリスの頭上を仔鹿が飛び跳ねて、さらにその上空を煙を蒸かした汽車が走る。汽車にはたくさんのチェスの駒が乗っていた。
嗤い声が響く。
悪夢が
「ごめんなさい。不眠症の桃太郎お兄さまにはこの夢は深すぎますわよね」
形の良い眉を下げるアリス。
桃太郎の背後で聞いたこともない雄叫びが上がった。
背後になにかがいる。
だが、先程とは違う感覚からしてこれも不思議の国の関係者だろう。
ならば自分には危害は加えないはずだ。それでも桃太郎の冷えた背筋に嫌な汗が流れた。
「……やはり」
桃太郎は震えそうになる唇を必死に固め、張り付く声帯を必死に震わせて――――伝えた。
「某は、眠る際には心の準備が必要そうでござる」
夢の中では桃太郎ですらアリスには勝てない。
夢の中ではどんな英雄もアリスには勝てない。
夢の世界の主導権は、すべて彼女が握っている。
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