41 そして物語は動き出す
「我らの為に動いてくださる支部長殿の立場が危うくなるのは避けたいでござるな」
篭手のついた手が髪を梳けば、夜でも輪郭をぼやけさせない艶やかな黒髪はさらりと滑らかに波を打つ。
彼が髪に気を配っている気配はない。なのに桃太郎の長髪はいつも月光を吸収したように柔らかな光沢を持ち、絡みもなく上品に揺れる。
「羨ましいですわ」
アリスは落ちた肩紐を上げながらつい素直な感情を零した。
桃太郎が首を傾げ、なにがかと自分に訊ねるために口を開きかけたのを見てアリスは「明け方までには帰ってきたいですわね」と話題を戻した。
桃太郎は半開きの唇を一度閉じ「うむ」とアリスの話題に乗ってきた。
「それまでには戻ってくるよう励むでござる」
「いまは夜の十時きっかり。朝の五時までには戻ってきたいですわ」
「聞いた話ではここから禁忌領域までは片道一週間ほどかかるそうでござる」
「まあ。七日もかかるのですね。それは急がないと」
「否」
桃太郎が首を横に振る。
「なんとこの世界では一週間は五日でござる」
「まあまあ! こちらとは日数が違うのですね」
「一ヶ月はきっかり二十五日。一年は……二十四ヶ月だと!」
「まあまあまあ!」
アリスは驚きのあまり目が落ちそうになった。真ん丸に見開いた目を押し込むように顔を隠し、大きく息を吐いてからそろりと手を下ろす。
「なんでもない日が五九九日もあるのね」
自分の内側で住人達が驚きながらも愉快に騒いでいるのを感じる。本当に世界の基礎から違う。アリスは改めてこの世界が自分達の居場所ではないと痛感する。
舞台の根本が違う。
ここは異世界。
別の世界ではなく、異常な世界。
「異世界の国のアリスでは、語彙が悪いですわ」
しかし異世界のアリスではどことなく寂しい。困ったとアリスは溜め息をついた。
「でも良かったですわ。片道五日程度ならば頑張れば……」
意識を切り替えてアリスは桃太郎に言う。
アリスと桃太郎は頷きあった。
「二時間ちょっとですわね」
「一時間も必要ないでござろう」
互いに同時に言い放つ。
互いに笑顔のまま、沈黙。
「……っ……」
アリスの白銀の眼が潤んだ。
「が、頑張りますわ……」
両手でスカートを握り締めながらアリスは微かに震える。いじらしく縮こまった姿は小動物のよう。
「嗚、嗚呼……! 童子の脚では厳しいでござるな! なに、うむ! 歩幅が違ったでござる!」
「いまは、桃太郎お兄さまのほうが歩幅が狭いですわ」
「っ……脚力、そう! 脚力や体力の違いでござろう! アリス殿はか弱きれでい故!」
「いまは、わたし達は一国ですわ」
「否! 某なら一国など三日も掛けずに潰せるでござる! アリス殿は十分に守られるべき小さな小さな夢見るれでいでござるよ」
「……本当に?」
「うむ!」
桃太郎は首が外れてしまいそうな勢いで激しく頭を縦に振る。黒髪が鞭のようにしなった。
「時間はあるでござる! 急く必要も無かろう!」
拳を作って力説する桃太郎。アリスはじっくり五秒ほど桃太郎を見詰めてから、頷いた。
桃太郎が深く肩を落とす。
「では」
空気を変えるように咳払いをしてから桃太郎はアリスに右手を差し出した。
「迷子にならぬよう」
柔らかく微笑む桃太郎の表情はアリスよりもずっと大人びている。
一国となった自分をそのまま素直に子供扱いしてくれる桃太郎にアリスはついつい甘えてしまうのだ。彼ならば自分の外見だけでなく力すらも本当に子供のように容易くいなしてくれると。
強大な彼の前でだとアリスはただの夢見る小さな女の子でいられる。
「はい。桃太郎お兄さま」
肩紐を直すと、迷わずにアリスは桃太郎の手を取った。
屋根を蹴った瞬間、二人はその場から消えた。
誰も小さな二人の足跡も、影も、気配も、追えない。
● ● ●
記憶に刻み込んだ地図に添い、アリスと桃太郎は
元来ならば車で移動し、途中から環境の都合上徒歩になるため
「っ……はー……」
ようやく乱れた呼吸が落ち着いてきたアリスは俯いていた顔を持ち上げた。
傍らで心配そうにしていた桃太郎の強張った表情が、アリスと目があった瞬間軽く綻ぶ。
「大丈夫でござるか? 矢張り某が担いだほうが良かったのでは……」
「いいえ、桃太郎お兄さまに負担はかけられませんわ」
アリスは舞踏会で挨拶をして回る際の丁寧すぎる笑顔を表情筋に被せた。
桃太郎には申し訳ないが、過去に似たような大移動をしなくてはならなくなった時、担ぐと言われたので甘えたら本当に樽担ぎをされたのだ。
自分よりも身長のある相手を担ぐとなれば確かにその担ぎ方は最適解だろう。が、淑女としてそういう担がれ方は腑に落ちない。なので今回アリスは自力で頑張った。
「ここが、
アリスは落ちていたフリル付きの肩紐を整える。
銀の双眸が見据える先は――森。
夜が沈殿し、青々とした木々の色を闇にぼやけさせて陰鬱とした空気を作り出す。薄ら寒さが肌を舐め、じっとりとベタつく土の湿ったにおいが鼻腔に纏わりつく。それだけでも不快感を煽られるのに、さらに奇妙なことに森には音がなかった。
アリスと桃太郎の呼吸音以外が聞こえない。
教団の監視区域ということで監視をしている
人の気配どころか、生き物の気配がない。
虫の鳴き声すら消えた完璧な無音。
静寂が全身に染み渡る。
「………………」
世界から隔離されたような、妙にがらんどうとした無機質感を有する森。
静寂の中に唯一聞こえる自分達の呼吸音が、ぼんやりとした闇に溶けていった。
「………………」
暗鬱とした闇が心に不安を生み出す。
きゅ、とアリスは唇を引き絞り、闇を睨んだ。
「アリス殿」
肩に手を置かれ、アリスの強張っていた身体の内側で心臓が大きく跳ねる。
「一緒に行くでござる」
桃太郎がいつもと変わらない穏やかな笑みをアリスへと注ぐ。
心をじくじくと引っ掻く闇の中でも彼の笑顔は曇らない。背筋を伸ばして前を向き、力強く闊歩する。まさに闇を照らす英雄。
アリスは口元を綻ばせ、頷いた。
「地図では此の先が禁忌領域でござるが……何ら変わりあるようには見えぬでござるな」
「そうですわね。雰囲気は……」
アリスはすべてを塗り潰す夜闇を軽く見渡し、苦笑う。
「ありますけれど」
気を抜くと闇に喰われてしまいそうになる。
シャルルマーニュの店から教団内部に移動する合間にアリスはローランとお喋りをし、
深すぎる闇と重すぎる静寂は毒になる。
精神を犯し、自我を乱し、心を溶かす。
足音すら反響しない無の闇に身を置けば、精神に異常をきたしても仕方がないだろう。
アリスでさえこの闇は少し怖かった。きっと一人だったら足が竦んでいたかもしれない。きっと一人だったら泣いてしまったかもしれない。
「進みましょう!」
けれども、アリスは一人ではなかった。
桃太郎を急かすようにアリスは大きく一歩進む。兎のように飛び跳ねて、先を急ぐ。
二人は進んだ。
一歩、二歩、三歩――惑いのない真っ直ぐな足取りで進んだ。
背筋を伸ばす二人が四歩目を踏み出した刹那。
世界のほうが、惑うかのように大きく輪郭を歪ませた。
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