14 子供の理不尽な感情論は法に勝る

「この子は悪ではなかったわ。そういう役回りでは、なかったわ。きっと……」


 きっと、生き物としての自分の役割通りに動いていただけ。

 少なくとも、アリスはそうであったと信じたい。


「ああ。きっと……」


 アリスは天を仰ぐ。


「きっと……ええ。間違いなく、この世界も」


 ドライアドは、ぼうとしていた。

 切り刻まれた茨の先を顔の前まで持ち上げ、植物ではなく鉱石と紛う艶やかな表面を揺らし、ぼんやりとしている。痛みを感じている様子はない。

 なぜ自分の茨が切られたのか分からない。とでもいうふうに、不思議そうにぼうっと沈黙している。


 アリスの声など聞いていない。

 桃太郎の刀も気にしていない。

 反撃にさらなる反撃を返そうともしない。

 自分優先。自分の気になることがあればそちらに集中し、眼前の敵を放置する。

 しかも隙だらけなアリスとは対照的に桃太郎は構えたままだ。彼ならばアリスを庇いながら立ち回るなど容易なので剣圧を引かない。そんな威圧的な桃太郎を前にしながらも、ドライアドに警戒心はなかった。


 ぼうっと感情に動きがない。

 感情がないとも言える。


 ドライアドは警戒心もなく、殺意もなく、憤慨もなく、憎悪もなく――――また、茨が襲い掛かってきた。

 暴力的な茨には一切の感情が含まれていない。


「ひっちゃかめっちゃかに、いかれているのね」


 アリスの嘲笑は激しい斬撃に掻き消された。

 一度目よりも数が増えた茨の鞭を桃太郎は難なく斬り伏せる。


 深々と白い花弁が降り注ぐ赤い広間に反響する甲高い金属音は、どこか非現実的で。


 ここは夢の国かと、

 この世界は自分の物語なのではないかと、

 アリスはほんの一瞬だけ、有り得ないいかれた思考をしてしまった。笑えない。

 ふっとアリスが息を吐いた時には茨達は沈黙させられていた。


「桃太郎お兄さま。奥にある方々の気配がウッドペッカーお姉さまの言っていた方々でしょう」

「うむ。そうでござろうな」

「お願いしてもよろしいでしょうか」

「しかし、あれは明らかに異質。精霊というにはあまりにも邪悪……否、邪悪さすらない有るだけのもの。アリス殿お一人では」

「まあ」


 アリスは開いた口を手で隠し、それから小鳥のさえずりに似た愛らしい笑い声とともに肩を揺らした。


「逆ですわ。桃太郎お兄さま」


 アリスは白銀の眼を細めてドライアドを見た。

 ニヤニヤ笑いの猫よろしく、ニヤニヤとニヤニヤと不敵に嗤いながら薔薇を見上げる。


「あれは、明らかにいかれていますわ」


 なら、とアリスは嗤う。


「わたし達の領分ですのよ」


 非現実的な物語。

 常識のない物語。

 いかれた物語。

 不思議な物語。

 それがアリス。


「なによりあれは薔薇」


 ぱちり、とアリスは片目を瞑る。


「薔薇を愛でるのは、得意ですわ」


 アリスの自信満々な宣言に桃太郎はくっと口角を緩めた。


「それに、わたし達は薔薇は愛でられても鬼の相手はできませんもの」

「呵呵々! 確かに奥にはまだまだいる様子」

「ふふふっ。適材てきざい適所てきしょですわね」

「うむ。それでは」


 桃太郎は「此方は任せたでござる」と安心しきった声音でアリスへと微笑むと、地を蹴った。桃太郎がどういう動きをしたのかアリスの視覚では捕まえられず、瞬きをした時には彼の気配は広間から完全に消えていた。

 ぶ厚い石壁の向こうから、遠退きながらもけして薄れはしない獰猛な殺気を感じる。

 あの激昂を少しでも眼前の薔薇に分けてやってほしい。


「ねえ」


 アリスは言葉を投げる。


「どうして、レッドスコーピオンを殺したの?」


 アリスの言葉を赤薔薇の花嫁は受け取らなかった。


「ア、アアァ……オィシイノハ」


 巨大な黒い手が薔薇の顔を覆う。


「オイシィノハ……ドコ?」


 壊れた声音がようやく感情を剥き出しにした。


「ォナカ、スィタァア……!」


 食欲という強烈な思い。

 足元の茨が勢い良く蠢く。ぞるぞると蛇のように波打つ茨はゴブリンと人間の骸を飲み込み、レッドスコーピオンの残骸をも腹の中におさめようとしていた。咄嗟にアリスの意識はそちらへと流れるが、下から突き上がってきた無数の茨によって強制的に思考を足元へと向けさせられた。


「――――ッ!」


 アリスの華奢な身体を茨の槍が貫通する。

 しかし二瞬目にはアリスの身体が揺らめき、ぼやりと輪郭を薄れさせて消えていった。


「言葉は通じるのに、お話は通じないのね」


 月光の雨を浴びながらアリスは溜め息をつく。

 空中に佇みにニヤニヤと唇に大きな三日月を描くアリスの頭を飾るリボンが夜風にそよぐ。

 それはどことなく猫の耳のようで、そして後ろで結われたエプロンの紐が揺れる様も猫の尻尾を思わせた。


「お前はただ自分が咲くためにこういうことをしているだけ……」


 アリスは茨に喰われる屍達に目を細める。


「そこに善悪はないわ。食事をすることに、善悪などないのですもの」


 それでも、感情が動かないわけではない。

 ただきっとドライアドはアリスのこの気持ちを理解できないだろう。


 ドライアドはただただ自分のために動いている。他者の感情など、他者の関係など、他者の出来事など、他者の在り方など――食欲の前では関係ない。


 別に良い。


 アリスはそれを咎めない。咎める権利はない。

 法とは理性が定めること。

 善悪の定義は感情が定めること。

 理性と知性が文明を作り、法を作り、物事の善悪を分け隔てる。

 それがなければ、なにもかも関係ない。

 自然の中ではそれらは関係ない。

 自然災害とはよく言ったものだとアリスはようやくその言葉の意味を理解した。


 アリスの目の前にいる自然は物語を紡がない。

 物語を紡げるような知性も理性も善悪もない。


 あるだけ。


 張りぼてのように存在があるだけ。ただし、張りぼてにしては貪欲すぎる。


 なんとひっちゃかめっちゃな存在だろうか。

 そんなひっちゃかめっちゃかになっている滑稽な世界だ。


 いまさら改めて第三者に掻き乱されたところで、なんら問題ないだろう。と、良くないことを考えて、すぐにそんなわけはないと反省した。


 好き勝手に壊されていい世界などない。

 好き勝手にされていい命などない。


 アリスには理性と知性が備わっている。法を知り、物事の善悪を理解している。


 理解しているが――――と。そこまで考えて、アリスは脳髄を働かせるのを止めた。



「………………」


 自分はなんと面倒なことを考えているのだろう。


「…………はあ」


 アリスは絡まる思考を解くために息を吐く。


「………………」


 これは、だ。

 理性や知性や法や物事の善悪を知るがゆえの言い訳探し。

 きっと答えなど出ない。くだらない。そんなことは必要ないだろう。


「お前は、お前のしたいことをしているだけ」


 理性や知性や法や物事の善悪など、子供が深く思案するべきことではない。

 子供は子供らしく、ただ感情のままに動けばいいのだ。


「なら」


 この不愉快な腹立たしさを表出す理由など探さず、正当化せず、言い訳などせず、素直に相手に叩き込めばいい。

 子供は善と悪を感情のままに行き来するもの。

 なによりも、忘れてはいけない。

 アリスの物語に正義も悪も存在しないと。

 あるのは感情論。

 いかれた自分勝手な主張のみだ。


「わたし達も、わたし達のしたいことをしていいわよねえ!」


 不快感を露わにしてアリスはどす黒く嗤い、消えた。

 遅れてアリスのいた場所に茨の鞭が叩き込まれる。ただ空を裂いただけの茨にドライアドは再び不思議そうに首を捻った。危機感のない酷く緩慢な動作。

 きょとり、と倒していた赤薔薇の頭をドライアドが正した刹那、その首になにかが絡んだ


「さあ」


 ドライアドの懐に突如として現れたアリスが満面の笑みでドライアドの首に爪を立てた。

 ぐちり、と細指がドライアドの黒い皮膚に埋まり喉を潰す。


「首を刎ねましょう!」


 高らかに、無邪気に、残酷に、アリスは宣言した。

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