10 不思議の国の使い方

 ● ● ●


 すんすん、と。

 桃太郎が犬よろしく鼻を鳴らす。それから「向こうでござる」と瞬時に身体の向きを変え、足場にしていた木の枝を蹴った。先導する桃太郎より一歩遅れ、アリスは頭のリボンを兎の耳のように跳ねさせながら小さな背についていく。

 気配を消し、森の生き物達の睡眠を妨げない完全なる無音で木々を渡り、二人はニオイの一番濃い地点までやってきた。

 聳え立つ崖の上部には自然にできたとは思えない規則正しく掘られた正方形の穴があり、奥から湿った甘ったるい香りが漂ってきていた。


「向こうの入り口よりも此方側のほうが気配が近いでござる」


 凹凸の激しい岩肌に直立した桃太郎が淡々と説明をする。二人は桃太郎が最初に見つけた出入り口ではなく、その裏側に来ていた。


「数は百以上。ふむ……」


 鍛錬により鬼や龍神、あの世の者とされる月の存在とすら刃を交えられる驚異的な力を有する桃太郎にとって崖の外壁に佇む程度は造作もなく、安定した動作で腕を組んだ。


「大きい者もいるようでござるが、それにしても存外少ないでござるな」


 中の気配を読み取った桃太郎が意外そうに呟く。

 元来の物語でも鬼ヶ島に自身と共の三匹のみで乗り込み、物語がひっちゃかめっちゃかになってからは単身で乗り込み、いつしか刃を交える相手は鬼に加えて月の軍勢も混ざり、さらに月の姫の宝物ほうもつにより狂わされた島国ひとつ分の不死の軍勢とも相対してきた彼の感覚は些かたがが外れている部分がある。

 アリスも狂っているが、彼も存外狂っていると改めて実感した。


「ここは、機能を停止した変異迷宮ダンジョンだとウッドペッカーお姉さまの記憶にはありましたわ」


 崖の表面に巨大なキノコを生やして足場にしているアリスは、鮮やかな色の傘の上で桃太郎に説明をする。


「だんじよん?」

「この世界は大洪水と呼ばれる天変地異によって世界の在り方そのものが変わっているそうなのです。元々は魔法が存在する世界でしたが、魔法によって人間が神に近付きすぎたため、神が怒り、大洪水を起こして人間から魔法を奪ったと」

「魔法でどうやって神様作者に近付くでござるか?」

「わたし達にも分かりません。ウッドペッカーお姉さまの記憶にもこれらの情報はあくまでも歴史として認識されているだけで、体験したことではないようですわ」


 アリスは己の力の一片を利用し、微睡ませたウッドペッカーの緩んだ心から読み取った彼女の記憶の断片を言葉にして綴る。


変異迷宮ダンジョンというのは、第二次大洪水によって人間から魔力が完全に失われたあと世界中に出現したものらしいです。変異迷宮ダンジョンの最奥には魔力の塊である魔核コアが存在し、大洪水後の人間はそれを利用して新たな文明を発展させていったと……そして魔核コアを失った変異迷宮ダンジョンは機能を、つまりは罠などの仕掛けを自動的に動かす力もなくすそうですわ」

「どうも聞き慣れぬ言葉が多いでござるなあ。それがしもこうしてアリス殿や他の者達の世界と混ざり、それなりに多様の言語に接したと思っていたが……ふーむ」

「いいえ。桃太郎お兄さま。わたし達もこの手の言葉は初めて聞きますわ」

「なんと! アリス殿でさえも」


 驚愕した桃太郎にアリスは頷く。


「この世界は一体……啄木鳥キツツキと言えば、すぐに浮かぶのはスズメと啄木鳥でござる。だが、この話の啄木鳥は親不孝者で責任感がまるでない。あの啄木鳥殿とは真逆でござる」

「それに舞踏家ダンサーでもありませんわよね? まあ、ひっちゃかめっちゃになってからは元の設定などあってないようなものですが」

「それにしては雰囲気が妙でござるな」

「そうなのです。白鳥の湖と混ざったのかと思ったのですが……」

「前に某が出会った白鳥殿は灰被り殿と勝負をしていたでござる。白鳥殿と黒白鳥殿はそれはそれは姉妹のように仲が良くなり、灰被り殿に挑んでござった」

「え! も、桃太郎お兄様は白鳥の湖やシンデレラとも混ざったことがあるのですか?」

「うむ。アリス殿と混ざった後。王子として灰被り殿の世界にぶち込まれたでござる」

「確かに桃太郎お兄様はとても紳士的で王子さまですわね」

「白鳥殿と黒白鳥殿が灰被り殿と踊りの勝負をし、其処にあの月の女が乱入してきおって…………嗚呼、思い出すだけで腑が煮えたぎるわ」


 ドスの効いた言葉尻にアリスは苦笑う。


「しかし、本当に誰のどんな世界なのやら」


 思考を切り替えるように桃太郎は言う。

 困惑する様子で顎を撫でる桃太郎にアリスは申し訳なさそうに眉を下げ、胸の前で手を握った。


「すみません桃太郎お兄さま。わたし達が深くウッドペッカーお姉さまの記憶を覗き見れば、きっと……もっと色々と分かりましたわ」


 か細い声で、どこか痛々しくアリスは謝罪する。


「夢に干渉するわたし達の力なら、記憶を探るなど容易いこと。しかもあのような状態の方ならば、いつもよりも簡単に微睡みますから……それこそすべてを――ッ」


 そっと桃太郎の手がアリスの手に触れ、アリスは白い肩を跳ねさせた。俯いてしまっていた顔を持ち上げればいつの間にか桃太郎がアリスの作り上げたキノコの上に乗っていた。


「誰しも知られたくないものはある。無論、某にもあるでござる」


 小花にでも触れる手付きで桃太郎はアリスの震える手を両手でそっと包み込んだ。


「アリス殿はどんなに固く閉ざされた岩戸の奥すら安易に覗く力を持つ。うむ。あんな状態の相手だからこそ、すべてを覗くのは気が引けたでござろう。有り難う」


 アリスの手を握ったまま桃太郎は頭を下げた。


「なにより覗いてくだすったのは某の為でもござろう。某が彼女のことを頼んだゆえに。アリス殿の彼女と某の双方に対しての配慮、痛み入るでござる。気高きお心遣いは、まさにれでいの振る舞いに相応しいでござるな」


 小さくも鍛えられて皮膚の硬くなった手がアリスのシルクよりも滑らかな手をきつくきつく握り締める。

 頭を上げぬまま語られた内容は、砂糖をいくつも零した紅茶よりも蜂蜜をたっぷり垂らしたホットミルクよりも温かくアリスの胸に染み込んだ。


「十分すぎる情報でござる」


 頭をもたげ「有り難う」と桃太郎は綿毛よりも柔らかく微笑んだ。


「アリス殿はお優しい」


 励ましや労りではなく、真っ直ぐに伝えられる純粋な本心。

 それは貴方のほうですわ。と、アリスは言い返せなかった。痙攣する唇を噛み締め、熱くなった目元を隠すように俯いた。

 桃太郎の手が離れていく。


「それに」


 アリスに背を晒し、桃太郎は呵々と笑った。


「知らぬことが多いのは、まさに知る楽しさを知れるということ! わんだあらんどは愉快でござろう!」


 アリスは濡れた瞼を指先で拭った。「ええ、とても」と今度はきちんと返事を返すことができた。

 片足を軸に振り返った桃太郎がまた笑顔を浮かべる。夜に輝く太陽の笑顔は、黄金の昼下がりよりも眩しい。

 英雄とはまさに彼に相応しい言葉だと再度アリスは実感した。


「嗚呼、しかしアリス殿。ひとつだけ訊きたいでござる」

「はい。なんでございましょう桃太郎お兄さま」

「ごぶりん。とは、なんでござるか。某が目にしたのは餓鬼のような輩……妖精とはとても思えぬでござる」

「桃太郎お兄さまは妖精というと、ティンカーベルお姉さまが浮かぶのですわね」


 手を叩いたアリス。頷く桃太郎。

 自分の知る妖精と見たものが噛み合わないと訝しげに首を捻る桃太郎に、アリスは彼が理解しやすいよう脳髄から言葉を選別して説明をした。


「ゴブリンは、桃太郎お兄さまのところの言葉で言えば――――」

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