07 啄木鳥が孕む炎

 車と女の状態からして恐ろしい目にあったのは明らか。被害直後に詳しく状況を聞き返して、彼女の精神を痛ませることを桃太郎は懸念したのだろう。

 できるならこのまま落ち着くまで寝かせてやりたいと言わんばかりだが、そうもいかない。


 彼女以外にも被害者がいるのなら助けなくてはいけないし、助けるのならば確実に助け出す。

 その確実性を上げるためにも、情報は必要だった。

 なによりアリスと桃太郎はこの世界がどんな世界なのか把握できていない。主人公補正など、随分前から失っている。

 それでも主人公は特別だ。


 主人公は命を散らしても『めでたしめでたし』は迎えられない。

 再び同じ場所か、その付近から強制的に『はじまりはじまり』を迎えて『めでたしめでたし』へと向かわせられる。


 主人公の命はなくなっても、なくならない。


 痛覚もなくならないので無下にはできないし、したくはなかった。


「お優しい桃太郎お兄さま。ご安心ください。夢は現実からの逃げ道として利用されることもありますわ。確かに夢に逃げ続ければ心が腐ることもありますが、傷を薄れさせるためならば夢に逃げることも悪いことではないはず……」


 アリスは窓辺で流れ星に願うかのように指を組む。


「夢から覚めた後、傷だらけの脚で前へと進むのは本人ですわ。その傷を多少薄れさせることを手伝っても、きっと罰はあたりません」


 手を開いたアリス。

 彼女の両手にはいつの間にかティーカップが抱かれていた。中には柔らかなホットミルクが溢れ、砂糖漬けの薔薇の花弁が優雅に浮いている。

 アリスは猫のように足音もなく横たわる女に近付いた。


「女の子は甘いお砂糖と一摘みのスパイスと一等素敵なものでできていますわ」


 湯気の立つホットミルクを女に差し出して、アリスは微笑んだ。

 アリスの微笑に引っ張られるようにグラデーションの睫毛が持ち上がる。

 現れたのは濃い青緑の、月桂樹の葉を思わせる瞳。


 ぼんやりと霧掛かっている双眼が徐々に光沢を取り戻し――――息を飲むと同時に女は飛び起きた。ふたつの三つ編みが揺れ騒ぎ、彼女の身からシーツが滑り落ちる。


「ワ、タシは……ココは……なんっ、っ……!」

「大丈夫ですわお姉さま」

「あ……えっ」


 頭を押さえ困惑する女にアリスはとても落ち着いて、とても丁寧に伝えた。


「大丈夫なのです」


 再び。マシュマロよりも柔らかく、金糸雀よりも愛らしく、宝石よりも輝かしく、迷いのない声音でアリスは言った。

 夜の静寂を喰らうアリスの言葉はふかふかのベッドよりも深い安心感を生み、女の全身を包んだ。


「どうぞ」


 ホットミルクを差し出せば女の眼は吸い付くようにカップへと流れ、手が伸ばされる。

 金で縁取られた黒い爪を持つ両手がカップを抱き、ふう……と息を吹きかけてから女は縁に形の良い唇をそえた。

 一口。

 ほう、と吐息を洩らしてから、二口目。

 緩やかに眉を落とし、女は表情筋だけでなく全身の筋肉を弛ませた。


「わたし達はアリス」


 脱力した女に向けて、アリスはスカートを摘み上げる。


「あちらは桃太郎お兄さま。とてもお強い方なのですよ」


 アリスが紹介すると桃太郎は頭を下げた。女から距離を取ったままなのは、桃太郎なりの配慮だろう。

 だからアリスは桃太郎の代わりに女と向かい合った。


「お姉さまのお名前をお伺いしても?」


 女はホットミルクに月桂樹の視線を刺したまま動かない。

 ぼんやりと、微睡むようにぼやけた眼でアリスではなくホットミルクを凝視する。それで良かった。


 アリスは急かさず、御伽噺でも聞くふうにその場に座り込むと女の膝へと腕を乗せた。自分の腕にちょこんと顎をそえ、女からの言葉を待つ。

 できればここで彼女がアンと名乗ってくれれば嬉しかったのだが、あいにくそう簡単にはいかないようだ。


「ウッドペッカー……って、呼ばれている」ゆっくりと唇を開いた女。

キツツキウッドペッカーお姉さま?」ゆっくりと反復したアリス。

 ゆっくりとウッドペッカーは頷く。


「ウッドペッカーお姉さまお許しください」


 アリスはウッドペッカーの膝に乗せる自分の両腕に顔を埋めた。


「いまからわたし達はウッドペッカーお姉さまに酷い質問をいたしますわ」


 祈りを捧げるように、許しを請うようにアリスは言う。


「お答えしたくなければ、結構です。しかし、できる限りお答えして頂きたいのです。だって、夢は見られるものではなくて見るものですもの……」


 アリスは音もなく立ち上がり、ウッドペッカーの隣へと腰を下ろした。彼女に甘える態度で身を寄せ、けれども甘えるにしてはどこか蛇のように執拗な動作でウッドペッカーの腕に自らの腕を絡めた。

 逃がさないと言わんばかりに、彼女の体温に自分の体温を溶かすほど密着し、アリスは囁く。


「ウッドペッカーお姉さまを襲ったのは、何者ですか?」


 角砂糖が熱い紅茶に溶けるよりも早く、アリスの問いはウッドペッカーの鼓膜に吸収された。

 アリスはウッドペッカーを、じいっ……と見上げる。

 陽光に照らされて輝く雪景色にも勝る銀の瞳でウッドペッカーを覗き込んだ。


 月桂樹の眼が強風に煽られたふうに一瞬大きく戦慄き、彼女は再び顔色を青白くして下唇を噛んだ。

 噛み締められた唇の隙間から震えた熱い息が深く洩らされる。


「………………」


 アリスは震えるウッドペッカーの腕に寄り添った。

 けして急かさない。急かす必要はない。

 彼女の口から聞けなければ、それでも構わなかった。

 なぜならアリスは言語化されずとも彼女から事情を聞くすべを持っていた。

 しかし、アリスは言葉を待つ。

 

「………………」


 アリスには見えていた。

 彼女の双眼の奥が静かに燃えていることを。


 アリスには見えていた。

 月桂樹の瞳を覆うのが恐怖だけではないと。


「突然……」


 ウッドペッカーの震え声に引っ張られてアリスは伏せてしまっていた顔をゆったりともたげた。

 月桂樹が真っ直ぐにアリスを見返す。


「突然、襲われたが……全部見た」


 ウッドペッカーの瞳は燃えている。


 轟々と。

 恐怖を染める後悔の炎。

 強い責任感を含んだそれは大樹すら燃やし尽くしそうな激しい輝き。

 彼女の物語での役割は、復讐者なのかとアリスは考える。だが、それは次の瞬間別の疑問によって塗り潰された。


「アレは、ゴブリン……だ」


 ぱちくり。とアリスは瞬きをひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。

 それからようやく「……ゴブリン?」と首を傾げた。


「ええと……ウッドペッカーお姉さま。わたし達とウッドペッカーお姉さまの認識がズレていましたらすみません。ゴブリンとは……悪戯いたずら妖精のゴブリンでしょうか?」

「そうだ。そのゴブリン」

「ゴブリンが行うのは物を隠したり、転ばせたりするあくまでも悪戯程度……あの、ゴブリンにしては……ウッドペッカーお姉さまが受けた傷は……些か野蛮やばんすぎませんこと?」


 慎重に言葉を選びつつアリスは問う。

 アリスの気遣いを察したのかウッドペッカーは表情を柔和に緩めた。夜闇によってやや暗く染まった煉瓦色の前髪がそよいだ風に撫でられる。


 アリスの銀糸の髪もさらさらと夜風に梳かれた。

 紅茶をトランプの椅子に置いたウッドペッカーの手が、浮いた銀糸を整えるためにアリスへと伸ばされる。


「人里に近いトコロに住むが古い物を盗んだり、草を結って転ばせたり水を巻いて地面をぬかるませるくらいで実質的には無害な奴らだ」


 天鵞絨ビロードにも勝る手触りを有するアリスの髪をウッドペッカーの指が撫でる。

 硝子細工を扱うよりも丁重な動きが、不意に止まった。


「多分……」


 銀糸を愛でる手が強く握られる。


「あのゴブリン共は、寄生されていた」

「寄生? なににですの?」

「ドライアド」

「ドライ、アド……?」


 アリスは瞬きを数回。

 言葉を脳髄で吟味して、飲み込めない疑問を口に出す。


「樹の精、ですか?」


 指先が白くなるほどきつく握った拳を膝に落とし、ウッドペッカーは悔しげに頷いた。

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